第2章 傷
目を覚ましたとき、天井が見えた。
見慣れた、汚れた天井。
薄く剥がれた壁紙の端。
換気扇の、かすれた音。
「……」
一瞬、安心して――すぐに、それが間違いだと分かった。
体が、重い。
全身に鉛を詰め込まれたみたいで、指一本動かすのにも時間がかかる。
喉が乾いていた。頭が痛い。
「……夢、か」
そう呟いてから、少し間を置く。
昨日の夜を思い出そうとすると、胸の奥がざわついた。
雨。
サイレン。
暗い路地。
――そして。
思考が、そこで止まる。
起き上がる。
布団が、妙に重く感じた。
携帯を見る。
通知はない。着信もない。
時間は、朝の七時過ぎ。
何事もなかったみたいだ。
……いや。
シャツを脱いだ瞬間、息が止まった。
右腕の内側。
肘から手首にかけて、黒ずんだ痣が走っている。
「……は?」
触れると、鈍い痛みが返ってくる。
夢で付くようなものじゃない。
洗面所の鏡に映る自分は、いつもと変わらない。
寝癖。クマ。少し荒れた肌。
でも、腕だけが違う。
「……ふざけんなよ」
笑おうとして、失敗した。
ポケットに違和感があった。
ズボンを掴み、手を突っ込む。
指先に、冷たい感触。
――ころり。
洗面台に、小さな珠が転がった。
赤い。
鈍く、光っている。
濡れていない。
しばらく、動けなかった。
夢じゃない。
そう認めるのに、時間はいらなかった。
腕の痣。
この、珠。
胸の奥が、嫌な音を立てる。
そのときだった。
――影が、揺れた。
洗面所の隅。
朝の光が届かない場所。
何もない。
ただの影のはずなのに、妙に“深い”。
「……やめろ」
誰に向けた言葉かも分からず、そう言った。
影は、動かない。
でも、消えもしなかった。
学校へ行く準備をしながら、何度も振り返る。
影は、いつもそこにあるような、ないような。
外に出ると、いつもの朝だった。
通学路。
コンビニの前でたむろする連中。
信号待ちの人波。
世界は、普通だ。
……なのに。
すれ違った誰かの影が、一瞬、歪んだ気がした。
目を凝らすと、元に戻る。
「……クソ」
胸の奥が、ざわついたままだ。
昼休み、校舎裏。
一人で煙草を吸おうとして、手が止まった。
珠が、ポケットの中で――
熱を持った。
「……?」
次の瞬間。
空気が、冷えた。
背後。
振り返る前に、分かる。
――いる。
「……また、かよ」
声が、震えた。
だが、何も起きない。
誰もいない。
ただ、影だけが、少し濃い。
その日の帰り道。
遠くの交差点で、赤いコートの人物が立っていた。
こちらを、見ている。
目が合った、気がした。
次の瞬間、信号が変わり、人波に紛れて消える。
知らない顔。
なのに、なぜか――
知っているような気がした。
家に戻ると、どっと疲れが出た。
ベッドに倒れ込む。
天井を見る。
「……俺、どうなってんだよ」
答えは、ない。
ただ、ポケットの中で、
あの赤い珠が、静かに――
鼓動するみたいに、温かかった。
逃げられない。
理由は分からないけど、
それだけは、はっきりしていた。




