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第1章 逃走

 雨が痛かった。

 ただ濡れるというより、殴られているみたいに。


「……っ、クソ……!」


 息が切れる。肺の奥が焼ける。

 背後でサイレンが鳴り止まない。近い。思ったより、ずっと近い。


 俺は振り返らない。振り返ったら終わりだ。

 赤色灯が路地の壁に滲んで、雨粒に砕ける。

 タイヤの音。無線の声。名前も知らない誰かの怒鳴り声。


 ――なんで、こうなった。


 原付のスピード超過。信号無視。

 大した理由じゃない。逃げるほどのことじゃない。

 分かってる。分かってるけど、体が止まらなかった。


 走る。

 濡れたアスファルトが滑る。

 路地に飛び込み、さらに細い道へ、影の溜まる方へ。


 街灯が、一本だけあった。

 その先は、妙に暗い。


「……?」


 一歩、踏み出した瞬間だった。


 音が、消えた。


 サイレンも、雨音も、息の荒ささえも。

 世界が、急に“薄く”なった気がした。


 足元が崩れる。

 落ちる――と思った次の瞬間、俺は地面に転がっていた。


「っ……は?」


 冷たい。

 いや、冷たいというより――重い。


 空を見上げる。

 雲はある。でも、動いていない。

 月も星もないのに、闇だけが、やけにくっきりしている。


 立ち上がろうとして、背中に悪寒が走った。


 いる。


 ――何かが。


 影が、動いた。

 人の形に似ている。でも、どこか歪んでいる。

 関節の位置がおかしい。顔が、ない。


 喉が鳴った。


「……冗談、だろ」


 逃げようとした。

 足が、動かない。


 影が、こちらを“見た”。

 目はないのに、確実に分かる。


 次の瞬間、影が跳んだ。


「うわっ――!」


 反射的に腕を上げる。

 何か硬いものが、前腕を覆った。


 ――ガン。


 鈍い音。

 衝撃が、腕に走る。でも、痛みはない。


 視線を落として、息が止まった。


 剣道の小手。

 紅く、鈍く光る、小手が――片腕だけに、はまっている。


「……な、んだよ……これ……」


 考える暇はなかった。


 影が、再び迫る。

 恐怖で頭が真っ白になる。


 死にたくない。


 それだけが、はっきりしていた。


「――来るな!!」


 殴った。

 力任せに、振り抜いただけだ。


 小手が、熱を持つ。

 紅蓮の色が、濃くなる。


 影が、砕けた。


 悲鳴のような音もなく、

 ただ黒い砂のように、崩れ落ちる。


 膝が震える。

 吐き気が込み上げる。


「……夢、だろ……」


 そう呟いた瞬間、

 視界が反転した。


 雨音が、戻る。

 サイレンが、遠ざかっていく。


 俺は、路地の出口に倒れ込んでいた。


 腕を見る。

 小手は、ない。


 ただ、掌の中に――

 濡れていない、小さな珠があった。


 赤く、鈍く、

 まるで鼓動しているみたいに。


 俺はそれを、強く握りしめた。


 理由なんて、分からない。

 ただ――


 生きていた。

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