スローライフ
リゼリアちゃんの呼吸がようやく落ち着いた頃、私は足元に転がっていた小さな黒い転移石を拾い上げた。
手のひらの上でそれはビー玉みたいに鈍く私の姿を反射していた。
折っていたスカートの内側からベルトを引き出す。腰の後ろ側に雑につけた巾着袋の紐を解く。
「一応、命の恩人だしね」
軽く言って、私は転移石をぽいと袋の中へ落とした。金貨の上に落ちた石は、乾いた音を立てて、巾着の奥に沈んでいった。
そのまま口を結びながら、小さく息を吐いた。
「……今後のことは考えた方が良さそう」
後ろにいるリゼリアちゃんに聞こえないよう、声を落として呟く。
周囲を見ると、その場の全員が私たちをちらちらと見ていた。
見慣れない二人組。しかも急に転移してきたんだ。無理もない。
その中から、私は一人を選んだ。
体つきは大きく、顔つきもいかつい。けれど目元がどこか優しい。
いかにも街で力仕事をしていそうなお兄さんだ。
私はその人の前まで歩み寄り、少し首を傾げて声をかける。
「ねぇ、そこのお兄さん。ここって、どこ?」
「えっ!? こ、ここは……ザイールの街だ」
いきなり話しかけられるとは思っていなかったのだろう。
お兄さんは目を丸くし、慌てて答えた。
それでも、真面目に言葉を探してくれているのが分かる。
私は続けて尋ねた。
「えっと、トマス村って知ってたりする?」
「トマス村? ああ、あそこか。ドルフロード領の端の端だな。ここからなら……そうだなぁ」
男は顎に手を当てて、う〜ん、とうなった。
「馬車で一週間。下手すりゃ二週間はかかるぞ」
最短でも、馬車で一週間。
「そうなの? 教えてくれてありがと」
「お、おう……」
まだ戸惑った様子のお兄さんに軽く手を振り、私はその場を離れた。
リゼリアちゃんのところへ戻りながら、今得た情報を頭の中で整理する。
視界にカーソルは現れない。
ゴブリンの位置も分からない。
それにゴブリンの洞窟から出た時、視界にはトマス村しか出ていなかった。検索範囲が五十キロメートルだったとしても、ザイールの街はその範囲外ということになる。
意識を視界の右端へ向ける。
すると、小さな文字が浮かび上がる。
【ドルフロード領:ザイールの街】
「……ほんと、ゲームみたい。ザイールの街か」
言葉にしてみると、胸の奥で張りつめていたものが、少しだけ緩んだ。
「いっときはゴブリンエンペラーのこと、考えないで良さそう」
深く息を吐くと、ようやく体の力が抜けていく。
安心した途端、周囲の景色が目に入ってきた。
石を積み上げて作られた家々。土埃の舞う道を、荷車が軋みながら進んでいく。
「異世界だからって覚悟はしてたけど……」
私は街並みを見回しながら呟いた。
「昔の外国みたい。石造りの家に、土の道。コンクリートなんてどこにもない」
驚きはする。けれど、はしゃぐほどでもない。
それよりも今は、私は足を止め、リゼリアちゃんの前に立った。
少し膝を曲げて、目線を合わせる。
彼女の小さな顔が、すぐ近くにあった。
「リゼリアちゃん」
名前を呼ぶと、彼女の肩がぴくりと震える。
大きな瞳が、不安げに揺れていた。
乾いたはずの涙が、またゆっくりと目の縁に溜まり始めている。
分かっているのだろう。私が、これから何を言うのか。
私は小さく息を吸い、できるだけ優しい声で言った。
「……私は見捨てないよ」
その瞬間、リゼリアの瞳が大きく見開かれる。
「どこにも戻る場所がなかったら、一緒に暮らそ」
言葉が落ちた瞬間、彼女は息を呑んだ。
信じられないものを見るみたいに、じっと私を見つめる。
「……いいの?」
震える声だった。
「もちろん。スローライフする気でいたから、一人だと寂しくて死んじゃいそう」
そう答えた瞬間、リゼリアの顔がくしゃりと歪んだ。
ぽろぽろと涙が零れ落ちる。声を堪えようとしているのに、涙だけが止まらない。
親は生きているのか。
帰れる家はあるのか。
聞きたいことはいくらでもあった。
でも今の彼女を見れば、だいたい察しはつく。
あのゴブリンたちに襲われた村や街が、どうなったのか。
想像するまでもない。ひとたまりもなかっただろう。
もちろん、これは私の最悪の想像だ。
この世界の人たちが、私の百倍強くて。
ゴブリンエンペラーなんて簡単に倒してしまうような連中だったのなら。
全部、杞憂に終わる。
その方がいい。
むしろ、そうであってほしい。
リゼリアちゃんの両親が生きているなら、私は喜んで、この考えを撤回するのに。
この世界は分からないことばっかりだ。
「まずは、今日の寝床を探さないとね」
この子となら、異世界生活も悪くないかもしれない。
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