別れ道
視界の端に、淡く光るカーソルが浮かんでいる。
その横に表示された文字は、ただ一行。
【トマス村まで20km】
二十キロ。数字として見ればそれだけだが、実際には果てしない距離だ。
そして森までは、せいぜい五十メートルほど。だが今の状況では、その距離が地平線のように遠い。
視界を遮るもののない平原。
逃げ場も、隠れる場所もないこの地上で、森までも距離はあまりにも遠い。
「遮るものがない地上では……どうしてもゴブリンエンペラーから逃げ切るのは難しい」
自分でも驚くほど冷静な声で、私は状況を言葉にした。
胸の奥では、鼓動が荒々しく暴れている。
それでも、思考だけは妙に澄んでいた。
「……難しいというより、無理」
ぽつりと、結論を付け足す。
「打開策も、考えられない」
腕の中に抱えていたリゼリアちゃんを、そっと地面に下ろした。
「リゼリアちゃん、ごめんね」
少し足を曲げて、目線を合わせる。
「お姉ちゃん、これ以上一緒には行けない」
言葉が喉に引っかかる。それでも無理やり続けた。
「あっちに真っ直ぐ行くと、トマス村がある。だから走って。全速力で」
視界のカーソルが示す方向を指差す。
リゼリアちゃんは一瞬だけ私を見つめ、それから小さく、こくんと首を縦に振った。
その仕草が、妙に大人びて見えた。
私は立ち上がる。
そして、ゆっくりと視線を上げた。
ゴブリンエンペラー。
巨体の怪物は、怒りに顔を歪めながらも、じっとこちらを観察していた。
私の一挙手一投足を、冷静に見極めている。
「……餌から敵に昇格したってところかな」
乾いた笑いが喉の奥で転がる。
「これは確実に殺される」
そう言いながらも、私はわずかな可能性を思い浮かべていた。
【スキル:鬼ごっこ】
さっき視界には、確かに表示されていた。
『鬼ごっこは終了しました』
終了したなら、もう一度始められるはずだ。
足に力を溜める。
大地を蹴る準備をして、叫んだ。
「リゼリアちゃん行って!」
小さな背中が、全速力で走り出す。
それを確認すると、私はすぐにその逆方向へ走った。
そして叫ぶ。
「スキル発動! 鬼ごっこ! これで時間がかせ……」
次の瞬間、視界に冷たい文字が浮かび上がる。
【対象がいない為、発動できません】
「え……?」
思考が止まる。
「対象? 対象はもちろん、ゴブ……」
言葉の途中で、私は気づいた。
ゴブリンエンペラーの顔。
怒りに歪んでいたその顔が……。
ニタリ、と笑った。
「……なに?」
心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
嫌な予感。何か、決定的な思い違いをしているような感覚。
ゴブリンエンペラーの瞳が、ゆっくりと動く。
本当に、ゆっくりと。
私ではなく、
リゼリアちゃんの方へ。
わざと見せつけるように。
「ああ……そうか」
すべてが繋がった。
「お前は、これを狙っていたのか」
全身の温度が、すっと抜けていく。
私は足を止めた。
そして、踵を返す。
リゼリアちゃんを追うように、走り出した。
足が思うように前に出ない。
地面が氷になったみたいに滑る。
踏み込んでも、力が伝わらない。
走る速度が上がらない。
「待って……ッ!」
喉が裂けそうになる。
「私ッ! 狙うなら私を狙ってよ!!!」
その瞬間。
ぐわん、と。
私の身体よりも大きな手が、走るリゼリアちゃんへと伸びた。
「やめろぉぉぉおおお!!!」
世界が、ゆっくりになる。
まるで時間が引き伸ばされたみたいに。
これはきっと……。
リゼリアちゃんが死ぬ瞬間を、私に見せつけるための時間だ。
呼吸が、浅くなる。
奥歯がカツカツと震えた。
目は逸らせない。
ただ、手を伸ばすしかない。
届かない手を。
それでも。
「ごめん……」
指先から力が抜ける。
「助けられない」
伸ばした手を落とした。
その瞬間。
足の裏から、支えが消えた。
ふわり、と身体が浮く。
視界がぐにゃりと歪む。
耳の奥で、軽い破裂音。
ピュンッ!
周囲の風景が黒く染まる。
そして、シュンッ! と、地面の下から、何かが飛び出した。
「……は?」
目で追う。
それは、白く光る小さな玉だった。
手のひらほどの球体が、空中でふわりと止まる。
【設定されたモンスター:人】
【検索中……】
球体の上に、半透明のウィンドウが浮かび上がった。
見覚えのある光景。
ピッ。ピッ。ピッ。
異世界には似つかわしくない電子音が響く。
【特定しました。転移を開始します】
再び、視界が歪む。
ピュンッ!
次の瞬間。
足の裏に、硬い地面の感触。
問題なく、着地する。
世界が一気に色を取り戻した。
顔を上げる。
人。人。人。
無数の人間が、こちらを見ていた。
ゴブリンじゃない。
人間だ。
「きゃ!」
背後から可愛らしい悲鳴が上がる。
振り返る。
尻もちをついたリゼリアちゃんが、そこにいた。
周囲を見渡す。
ゴブリンエンペラーはいない。
その事実を確認した瞬間、全身の力が抜けた。
私はその場に、ぺたりと座り込む。
「……私たち」
かすれた声がこぼれる。
「助かったんだね」
リゼリアちゃんは、まだ呆然と私を見ていた。
私は這うように近づく。
「大丈夫」
そっと抱きしめる。
一度は諦めた命を、抱え込むように。
「もう怖くない」
小さな身体が、次第に震え始める。
ぽろぽろと涙が落ちて、私の肩を濡らした。
私はその背中を、ゆっくりと撫でる。
ふと、視線を上げる。
空中に浮かんでいる黒い玉。
転移石。
その上に表示された文字が、ふっと切り替わる。
【転移完了しました】
シュンッ、とメッセージが消える。
次の瞬間には、ボトッ、と転移石が地面に落ちた。
拾うのは後でいい。
今は、リゼリアちゃんの涙を止めるのが、先だった。
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