2- 13 大切な人を失った気持ち
結羽は、作業服男の霊・田中と一緒に湾岸のベンツ事故現場を離れた。田中の生前の恋人・美伽に会いに行くためだ。
幸いにも、美伽が住むアパートも湾岸エリアにあり、ベンツ事故現場から徒歩20分ほどの距離だった。
徒歩20分の距離を移動する間、結羽は田中から美伽の素性を聞かされていた。
美伽は田中より二歳年下で、三姉妹の末娘。田中とは3年ほど付き合い、去年、美伽にプロポーズしたという。しかし、田中は1ヶ月ほど前に建設現場で転落死してしまった。婚約者を失った美伽は非常にショックを受け、それ以来、毎日のように海を眺めているという。田中は、そんな美伽を哀れに思い、自分のことを忘れて前向きに生きて欲しい、というメッセージを結羽に託したのだった。
「田中さんは成仏しないの?」
結羽は田中との会話の流れの中で、さりげなく尋ねた。
「精神的に病んでいる美伽が気になって成仏どころじゃない」
田中は真顔で答えた。
結羽は、そうだろうな、と思いながら無言のまま頷いた。
婚約者を失って悲嘆にくれている美伽さんが元気になれば、田中さんも成仏できるだろな。
結羽は心の中で、この2人を救ってあげたい、と願うのだった。
美伽のアパートを目指して歩くこと十数分後、梅雨らしい灰色の雲はどこかへ去っていき、青空が広がっていた。
青空と一緒に夏のような日差しが東京の街を照りつけている。
結羽はハンカチを取り出すと、額の汗を拭きながら歩いた。そのとき、前方にドリンクの自販機が見えた。
結羽は、砂漠でオアシスを見つけたような嬉しさで笑顔を浮かべた。
「ちょっと休憩」
結羽はそう言いながら自販機の前で立ち止まった。結羽が立ち止まると、田中は自販機を興味深そうに見つめた。
結羽は財布から小銭を取り出すと、自販機でミネラルウォーターのペットボトルを購入した。そして、素早くキャップを開けると勢いよく飲み始めた。それを、左肩で座っているホイップが、じっと見つめている。
「ホイップも飲む?」
「のみたい」
結羽が左肩にいる白猫の霊に尋ねると、ホイップは地面に飛び降りた。結羽は屈むと、ホイップの目の前にペットボトルを傾けて地面に水を注いだ。すると、ホイップは小さな水たまりに口を近づけてペロペロと舐め始めた。当然、水が減ることはない。
「俺も何か飲みたいな」
屈んでいる結羽の背後で田中が呟いた。すると、すぐに結羽は立ち上がって田中に顔を向けた。
「おごってあげるよ」
結羽が笑顔で田中にドリンクを選ぶよう促した。田中の表情がパッと明るくなった。
「じゃあ、俺はブラックコーヒーで」
「わあ、大人だね」
結羽は自販機で缶コーヒーのブラックを購入すると、ステイオンタブを指先で開けた。そして、それを地面に置く。
田中は、結羽が缶を地面に置くと、それを手にして口元に運んだ。当然、実物の缶は地面に置かれたままであり、中身も減っていない。
田中はコーヒーを飲み干すように缶を大きく傾けると、満足そうに微笑んだ。その瞬間、田中の手から缶は消えていた。
「最近、川の水ばかり飲んでいたからな。久しぶりのコーヒーは美味かったよ。結羽、ありがとう」
田中の笑顔を見て、結羽も嬉しそうに微笑んだ。
霊が実際にコーヒーを飲むわけがない。コーヒーを供養してくれたことを田中は喜んでいるのだ、と結羽は理解していた。
結羽は、空になったペットボトルと中身を全部排水溝に流して空になった缶を自販機横にあるゴミ箱に捨てた。
結羽と田中は、再び歩き始めた。
「結羽は、男がいるのか?」
田中が歩きながら真顔で結羽に尋ねた。
「カレシなんて、いないよ」
結羽は素っ気なく答えた。
「男と付き合ったことは?」
「ないよ」
結羽は進行方向に顔を向けたまま、素っ気なく答える。
「じゃあ、大切な人を失った気持ちは分からないかな」
田中が呟くと、結羽が足を止めた。
「どういう意味?」
結羽が田中に顔を向けながら尋ねた。田中は結羽から目を逸らした。
「美伽は俺を、大切な人を失ったんだ。その美伽に対して、結羽がしっかり俺の気持ちを伝えて励ましてやれるか気になったんだ」
田中が答えると、結羽は黙り込んだ。そして、空を見上げた。
「私、孤児院で育ったの。だから、両親の顔さえ知らないの。私は、大切な人が、両親が最初からいなかったの。だから······」
結羽は、そこまで話すと田中に顔を向けた。田中は結羽からの思わぬ素性の告白を受けて目を丸くしながら彼女を見つめた。
「私にだって、美伽さんの気持ちが分かるわ」
田中は、結羽の真剣な眼差しを見ると、微笑みながら頷いた。
「分かったよ、結羽。お前を信じるよ」
「うん」
結羽と田中は、再び歩き始めた。
(つづく)




