1- 15 結羽、初めての喜び
「ごめんなさいね。案内の途中だったのに」
お婆さんは素早くハンカチで涙を拭いて立ち上がった。
「私は大丈夫ですよ。今日は時間がいっぱいありますから」
「では、結羽さん。ホイップのところへお願いしますね」
「はい!」
結羽は、ホイップの死骸がある場所へ向かって再び歩き始めた。その隣をお婆さんが歩く。
結羽がお婆さんの足元を見てみると、ホイップが尻尾を立てながら歩いていた。
良かった。ホイップの機嫌が良くなってる。
結羽は、嬉しい気持ちで心がいっぱいになった。
今まで、霊が見えるということだけで、他人の役に立てたことがなかった。だけど、今日、初めて結羽は他人の役に立つことができた。ペットを亡くしたお婆さんの悲しみを和らげ、喜ばせることができたのだ。
結羽は、今までにない、初めての喜びと満足感を得ていた。
そんな満足感に浸りながら歩いていると、前方から中年男性が自転車に乗って近づいてきた。
ここは交通量が少ない住宅街の生活道路。それもあり、自転車をこぐ中年男性は道路の真ん中を走っている。
結羽は中年男性が視界に入ってきたとき嫌な予感がした。濃紺の作業ズボンに白いポロシャツ姿という、一見普通の中年男性だが、顔が赤い。しかも、自転車が微かに左右にふらついている。
結羽は、隣を歩くお婆さんの前へ一歩早く踏み出た。その直後、中年男性が乗る自転車は大きくふらついて、結羽の方へ向かってきた。結羽の視界全面に、慌てふためく中年男性の顔が広がっていく。
「あっ!」ガシャン!
結羽が小さく叫んだ直後、自転車がアスファルトの路面に叩きつけられる音が周辺に響き渡った。
「あ、お爺さん!」
結羽は驚いた。いつのまにかお爺さんの霊が結羽に背中を向けて立っていたからだ。お爺さんの霊の足元には、中年男性と自転車が転がっている。
「酒に酔って自転車を走らせるなんて、この馬鹿者が!」
お爺さんの霊は険しい表情で中年男性を見下ろしている。
「お爺さん、守ってくれたんだね」
結羽はお爺さんの霊の背中に向けて感謝の声を投げた。すると、お爺さんの霊は結羽に振り返り、微笑んだ。
自転車で転倒した酔っ払いの中年男性は、結羽の“ひとりごと”を理解できず呆然としていたが、やがて自転車を起こすと走り去っていった。
「結羽さん、大丈夫?」
お婆さんが結羽を見つめながら心配そうに声をかけた。しかし、すぐに笑みを浮かべた。
「今、私にも見えたような気がしたわ」
お婆さんは目を細めながら嬉しそうに言った。
「何が見えたんですか? もしかして、お爺さん?」
「そう。自転車が結羽さんにぶつかりそうになったとき、突然、自転車が向きを変えて倒れたの。そのとき、一瞬、お爺ちゃんの背中が見えたような気がしたの」
結羽の表情がパッと明るくなった。
「そうなの! お爺さんがね、私を守ってくれたの! お婆さんにもお爺さんの霊が見えたんだね!」
「やっぱりそうかい。あれは間違いなくうちのお爺ちゃんだね」
「お婆さん、やったじゃない!」
結羽は、お婆さんと手を取り合って喜んだ。
「それでね、お爺さんは酔っ払いに向かってこう言ったの。馬鹿者が、てね」
「それ、お爺ちゃんの口癖だったのよ。いつも叱るときは、馬鹿者、と言うの。私も、何度も言われたわ」
お婆さんは、肩を揺らしながら大笑いした。そんなお婆さんにつられるように結羽も目を細めて笑った。
手を取りあって大笑いしている二人を、お爺さんの霊は嬉しそうに見つめ、ホイップの霊は不思議そうな表情をしながら見上げるのだった。
「ああ、こんなに大笑いしたのは久しぶりだわ」
お婆さんは指で目尻を拭いながら言った。
「そっかあ、良かったね!」
結羽は笑みを浮かべたまま、うんうんと頷く。
お婆さんは、自分の足元に優しい眼差しを向けた。
「きっと、死んだホイップが私を慰めるために結羽さんを連れてきてくれたのかもしれないね」
そのお婆さんの言葉に、なぜか結羽は納得してしまった。
夕方の公園で見つけた真っ白な猫の霊ホイップ。お婆さんの言う通り、ホイップは飼い主であるお婆さんを慰めたくて私を導いたのかもしれない······。
結羽は、お婆さんの足元にいるホイップを見つめた。ホイップは、しきりに真っ白な自分の手を舐めていた。




