海陵王と高衎
暴虐な帝王として知られる海陵王。彼がどのような人物だったのか、知られざる一面を『金史』より読み解いていこうと思います。
今回は『金史』巻九十 列伝二十八の高衎伝を見てみましょう。
生母が渤海人であった海陵王は、渤海人にも栄達の道を開きましたが、縁故政治は嫌っており、高衎伝にはこう記されています。
李慶之が初めて選考を受けた際には、賈昌祚は李慶之を会試詮読官に、李慶之の弟の李慶雲を尚書省令史にするなど、権力者同士で結びつき、海陵王は心中これを憎んでいた。そして側近に「賈昌祚は必ずや李慶之に便宜を図っている」と言っていた。
大奉国臣なる者は遼陽の人で、永寧太后(海陵王の生母)の一族であった。以前に東京警巡院使であったころ、収賄のため免官となって、太后に会おうとしたが、海陵王は許さなかった。
高衎は大奉国臣と同郷で旧知であったため、大奉国臣を貴徳県令にしようとした。
海陵王はこれらの縁故政治に激怒し、賈昌祚・高衎・吏部侍郎の馮仲らを各々程度に応じて杖刑とし、李慶雲は杖百五十とした上で解任した。
高衎はこの直後に清水県主簿に左遷されますが、後に復権して世宗の下で吏部尚書(人事担当のトップ)になっています。こうした人々が、海陵王への怨みと、世宗に取り入る目的で、海陵王の悪口を言っていたのかもしれません。




