2-1.今日から、ここが俺の家
「はい、これで契約完了。まこちゃんも、今日からこのアパートの住人やね!」
みく姉は、『高梨真琴』と俺のフルネームが書かれたアパートの契約書を両手に掲げて、俺に見せつけるように笑った。
みく姉の笑みは、いつだって芍薬のように綺麗だ。俺はその笑みを見るたび、救われたような気持ち半分、またこの幸せがどこかへ消えてしまうんじゃないかという恐怖半分を味わう。
俺はそれを隠すように、
「ありがと、お願いします」
と頭をさげた。
母さんがいなくなって一か月半。町にはクリスマスソングが流れていた。
俺はクリスマスプレゼントとして、みく姉が大家をしているアパートの一室を手に入れた。まさか、そんな日が人生に訪れるとは思わなかった。金持ちになった気分だ。
それでも、みく姉のようにうまくは笑えないし、人間はみんな嘘つきだと心の奥底で考えてしまう。どれほど綺麗な言葉でも、裏の感情を視てしまう。みく姉は、裏表のない性格だけれど、そんな人はひと握りだ。そう斜に構えてしまう癖がどうしても抜けない。
俺が彼女の手を取ったのは、あくまでも現実的な問題との折り合いをつけるためだ。
みく姉に出会ったあの日、彼女に言われて風呂に入り、泥のように眠った。みく姉の手作り料理を食べて英気を養い、一週間が過ぎるころには高校にも行った。美人ないとこの姉と住んでいることを友人にからかわれつつ、やっぱり元気なフリをしてしまった。
登校したあとも、みく姉が母さんの捜索願いを警察へ届け出てくれたことをきっかけに、俺は先生や友人に母が蒸発したことをわかってもらう努力を諦めてしまった。残念ながら、警察からの連絡はない。俺はついに、母さんは俺を置いていったんだと現実を受け止めざるをえなくなった。
それ以外にも金や世間体という問題に直面し、みく姉の提案を飲む以外になくなった、というわけで……我ながら、最悪な理由だと思う。
「まこちゃん? おぉ~い、大丈夫?」
目の前でヒラヒラと手を振られ、俺はハッと契約書から顔をあげた。
「ああ、ごめん。ちょっと考えごとしてた」
「家具、決めんとあかんもんなあ」
「さすがにそこまで能天気じゃねえわ」
俺のツッコミに、みく姉が「あれ? 違った?」と大げさにおどける。彼女なりに俺を励まそうとしてくれているらしい。
「あ、でも、まずは荷ほどきやね! まこちゃんの荷物、もう届いてるから」
「うん、ありがとう」
「手ぇ、必要やったら遠慮せず言ってな! あ、って言っても、わたしじゃ役に立たへんかもしれんけど……」
セルフツッコミで落ちこむみく姉に、俺は「大丈夫だって」と笑ってみせる。しばらく笑っていなかったせいで、どうにも作り笑いがへたになった気がする。
「そっか。じゃあ、ケガしぃひんように気ぃつけてな」
みく姉はほほえんで、俺に部屋の鍵を渡した。鍵についた一〇三号室のプレートが揺れる。大家であるみく姉の一〇一号室からひと部屋挟んだ角部屋だ。
俺は鍵と契約書の控えを握りしめ、みく姉の部屋をあとにする。
みく姉が所有しているアパートは、二階建てのシンプルでモダンな造りだ。各階に三部屋ずつ、合計で六部屋しかない。そのせいか、アパート全体が広く感じる。みく姉のおおらかさを体現しているようだ。
一〇三号室の前で足を止める。明るいグレーの玄関扉は洗練された印象があった。元々住んでいたボロアパートの、いつでも壊せそうな鍵のついた木造扉とは比べものにならない。
金属光沢の眩しいドアノブにこれまた新品の鍵を挿す。
――今日から、ここが俺の家か。
寂しさとやるせなさ、母さんがもう帰ってこないという現実に打ちのめされそうになってたじろぐ。けれど、そんなわがままを声に出してはいけないような気がして、俺はぐっと飲みこんだ。
自分の発する言葉が、誰かの幸せを奪ってきた。俺にはひとりがお似合いだろ。
扉がカチャン、と軽やかな音を立てて開く。なぜか俺の胸が小さく跳ねた。