1-2.世界は極彩色に染まって
「ってなわけで、俺はどうすればいいでしょうか」
俺が差し出したメモ用紙を生徒指導の教師が怖い顔で覗きこむ。生徒指導室は過去に例のないほど冷え切っていた。
「それが遅刻の言い訳か?」
「違います、本気です」
「今まで聞いた中でも最悪だ。わかるか? 最も悪なんだよ。お母さん、悲しむぞ」
「いやいや、違うんですって! これはまじで!」
「高梨、頼むからもう少しマシな嘘をついてくれ。そんな嘘じゃ、社会では生きていけん」
大人なら嘘をつくなって言えよ。そう思いつつ、俺の口からはまったく話にならない目の前の教師にため息が出た。埒が明かない。いや、俺が普段から遅刻ばっかりで、そのたびにくだらない嘘をついてきたのだから自業自得か。
「ため息つきたいのはこっちだよ。なあ、高梨。お前、進路希望もふざけてただろ」
「いや、だから、今は進路の話じゃなくて」
「お母さんに恩返ししようと思わんのか? 幼いお前をひとりで育ててくれたんだぞ」
「わかってます! わかってますってば! だから、金持ちになりたいって書いたじゃないっすか! ……じゃなくて! その恩返しするための母さんが消えたんすよ!」
「高梨」
俺の言いぶんなど聞きたくない、と先生が俺を睨んだ。だが、俺だってそんな顔をされても困る。母さんの蒸発は嘘じゃない。俺にとって一大事なのだ。俺が負けじと先生に目を合わせ続ければ、やがて先生のほうが折れた。
「……もういい。今日は帰れ。帰って、お母さんに謝りなさい」
先生は俺を置いて立ちあがる。
「あ、ちょ、待ってくださいよ!」
「俺も忙しいんだ」
声に疲労の色が視えた。声だけでなく、瞳も暗く濁っているような気がして、俺の足がすくむ。それ以上、言葉も喉に引っかかって出てこなかった。
「……すんませんした」
ふてぶてしい俺をどう思っただろうか。先生は「おう」とひと言返しただけで、職員室へと戻って行ってしまう。俺は大きく肩を落とした。
誰ひとりとして、信じてはくれなかった。
友人たちには話のネタにされただけで、先生もこの調子だ。今まで自分自身が築きあげてきたキャラのせいだろう。シングルマザーの家庭に育ち、引っ越しが多く、不安定な生活をしてきた。そんな不遇な人生を誰かに同情されたくない一心で作りあげた『心底明るく楽しいおふさげキャラの俺』が、明らかに今の俺の足を引っ張っている。またバカなことをしていると思われておしまい。本当に困っていても、気づいてはもらえない。
――みんなにも、声色が『視えれば』いいのに。
なんて。俺はやるせなさを飲みこんで、メモをしまった。
もの心ついたころから、俺の世界は極彩色に染まっていた。文字や音に色があった。もちろん、文字と音の組み合わせである声はさらに複雑な情報を色に変えて、可視化されていた。
すべてが色と結びつく。世間では共感覚というらしい。特別な能力だと母は幼い俺に教えてくれたけれど、俺にはそれがあたりまえの世界だった。
このあたりまえに終止符が打たれたのは、俺が小学五年生の夏。まだ父と母が仲睦まじい普通の夫婦だったころのことだ。
両親と民営プールに出かけた俺は、プールサイドで男にぶつかった。その拍子に男のゴーグルから小型のカメラが転がり落ちる。俺は親切心からそれを拾った。
「おじさん、これ、落としたよ」
男は明らかに顔色を変え、俺からカメラをぶんどった。
「あ、ああ、ありがとう、はは、ははははは……」
あからさまな作り笑顔よりも、俺は視界に飛びこんできた声色に違和感を覚えた。
男の声色は俺に困惑や焦りを感じ取らせた。ついで、期待や不安の色を視せる。最後は祈りによく似た色になった。幾度となく見てきた混色は、すべて嘘の象徴だった。
共感覚で他人の感情や嘘をいともたやすく見破る俺は、当時にしては大人びた小学生だったと思う。世渡りじょうずだとか、頭の回転が速いなんてほめられたこともあった。
当然、このときも俺は子供ながらに『よくないことが起きている』と察知した。そして、正義感から父を呼んだのだ。警察だった父は毅然とした態度で男を捕まえた。俺は誇らしい気持ちだった。
でも――それがすべての間違いだったんだ。
お手柄だとほめたたえた父は、やがて俺にこう尋ねた。
「なんでわかったんだ?」
簡単なことだった。
俺には嘘が『視える』のだから。
純真無垢にその事実を打ち明けたことが、俺たち家族を狂わせた。
警察である父は、正義と同様に、普通や常識を好む人だった。父の中で、異常者は犯罪者と結びついていたからだと思う。
そして、共感覚などという天賦の才を持つ俺は普通ではなかった。
その日から父は、俺と俺を生んだ母親を化けもの扱いし、すぐさま離婚をもちかけた。
声に色なんて視えなくても、母さんがどれほど父を想っているかなんてわかっていたはずなのに、父はあっけなく去って行った。
こうして俺は、俺自身の手で、家族を壊してしまったのだ。
以来、俺は自らの能力をヒミツにしようと決めた。
これ以上、誰も失わないように。
夕焼けに染まる錆びたアパートの扉を前に、俺はたっぷりと息を吸う。
もしも、母さんが残した紙切れがドッキリやたちのわるいイタズラだったとすれば、この扉の先に母さんがいるはずだ。いつもどおりなら、そろそろ母さんは出かける支度をしている。俺が昨日プレゼントしたメイク道具を使って、綺麗に化粧をしているはずなのだ。
祈るような気持ちで玄関扉を押し開ける。
俺の心臓がドクンと跳ねた。空っぽの部屋を見たくなくて、足元に視線を落とす。
「……あ」
気づかなければよかった。唇を噛みしめ、俺は薄汚れたコンクリートを見つめる。
玄関に母さんの靴がない。いつも出勤時に履いていくお気に入りのヒールが。
「なんで……」
俺は無気力に靴を脱ぎ捨て、リュックをおろし、ギシギシとうるさい音を立てる床を踏みしめて部屋中を見てまわる。昨日までと同じ。母さんの歯ブラシや口紅、洋服にお気に入りのハンカチ。母さんがいた形跡はそこかしこに残っているのに、肝心の母さんの姿だけがない。
「……はは」
虚勢に満ちた笑い声がこぼれ落ちる。
「罪って、償えねぇもんだな」
両親が離婚して以来、母を支えるのは俺の義務であり、罪滅ぼしでもあった。いつの間にか、それをまっとうすれば許されるのだと思いあがっていたのだ。他人の幸せを奪った罪が、そう簡単に許されるはずなどないのに。
明るく、幸せなフリをしていれば、いつかそうなると夢を見ていただけだったんだ。
「なんで……」
冷静になれ、そう語りかける理性とは裏腹に唇が震える。
「なんで……っ! なんでだよ、母さん!」
胸の奥が熱く、喉が焼けるように痛い。玄関でうずくまると、冷気が足元から全身を駆け巡り、沸騰して、胸元にさらなる熱を生んだ。
昨日までの小さな幸せですら幻想だった。普通の家族も、楽しい毎日も、全部、全部偽ものだったんだ。
少し考えればわかることじゃねえか。愛していた父を失った時点で、母さんの幸せは奪われていた。母さんは、幸せを奪った俺を必死に育てたんだ。そんな人の人生が、幸せなはずがない。
「……幸せってなんだよ!」
哀しみが煮えたぎり、怒りに変わる。床にこぶしを打ちつけると、冷え切った木板が熱を奪った。
「なんでだよ……」
母さんの泣いて喜ぶ笑顔も、幸せやわ、なんて声も、すべてが青く塗りつぶされていく。
共感覚なんて、なんの役にも立たない才能なんて、俺には必要なかった。