世界が朽ちていくと言うのなら
転機は、魔法国家サーシスからの魔法使いたちがやってきたことで訪れる。
サーシスは特殊な国家だ。魔法に秀でた研究者たちが多く住む国家であり、彼らは情報が洩れることを嫌い閉鎖的に生きている。そのためにこの帝国からの侵略も免れていたのだろうと思われる。
だからそれは帝国側からの要請だった。どれだけ時間を掛けても、帝国の魔法使いだけでは「聖女再召喚」が叶わないことが分かったことで、世界で一番の魔法国家ならば、と共同での研究を要請した。
冗談ではない、とアシュバルトは思った。
聖女を召喚すれば、瘴気は浄化されるだろうが、また同じことが繰り返されるだけだと。
けれどその機会にと、サーシスからの魔法使いによってアシュバルトに魔法の授業の時間を設けてもらえたのは僥倖だった。授業は大変素晴らしかった。国内では学べぬ、魔法についての深い知識に広い視野。なぜこんな高度な知力を持つ国家があるのに、帝国はのさばることが出来たのだろうかと、不思議な気持ちにもなった。
『聞こえますか?』
それはある日の魔法の授業で、突然聞こえた念話。発信元は、目の前の教師であるユーシスだった。
『私たちはあなたに接触するために来たのです』
驚きに目を瞠ると、答えをもらったかのようにユーシスは話を続けた。30代半ばほどの、線の細い男だ。
『私たちはあなたの立場について考えあぐねていました。けれど先日皇帝によって殺されかけた事件で、我々の敵ではないと判断いたしました。是非我々に力を貸して頂きたい』
どういうことだ、と念話で返事をすると、彼は語ってくれた。
帝国の皇太子が人々から瘴気を奪い、その身に抱え持っていることは分かっていた。皇帝と性質が違う孫だと思われることも。聖女の再召喚など叶わない、それは来るための口実に過ぎない、と。
『私たちは、瘴気に侵され蝕まれていくこの世界を食い止めるため、そして増え行く魔物に対峙するために、長年世界を調査し、また研究に励んでおります。解決策を探しながら、また探しだせないというのなら、今の研究をいつか未来に託すことを望んでいます。そして同時に、可能ならば皇帝の排除が必要だと判断しました。彼がいるだけで瘴気の汚染が倍増するだろうと予測しているからです』
皇帝の排除――魔法国家は、小さな国だ。
アシュバルトは戸惑う。そんな野望を抱くような国には思えなかったが。
『あなたは、それを望みますか?』
これは罠かもしれないと、心の中から警告音が鳴り響く。その言葉を口にしてはいけない。けれどそれでも。
『僕が望むのは、子供が笑っていられる世界です』
それは現皇帝では不可能な世界。だからそれを聞いただけで、意図は伝わるのだろう。ユーシスは微笑みながら頷いた。
『私たちが望むのも、希望を未来に託せる世界です』
そうしてアシュバルトは、ユーシスだけではなく、他のサーシスの魔法使いたちからも念話で様々なことを教わった。
魔法大国は、建国時から瘴気に侵された大地を再生していく研究に励んでいる。今はまだ成果は微々たるものだが、日々進化する研究を未来に託すつもりのようだ。それしかない、と彼らは言う。汚染された土壌を、聖女の祈りだけで浄化していたことの方が異常だったのだと。来るべき災害の対策をたてる方が現実的なのだと。
けれど近年、聖女再召喚の叶わぬ帝国の魔法そのものへの嫌悪から、魔法国家に対しての政治的圧力が向けられるようになってきたのだという。帝国の魔の手がサーシスにも及んでしまえば、自分たちの国家すら無くなる。そうすれば本当の意味での世界の終わりになるのだろうと。
『瘴気は奪うだけではなく、与えることも出来るのです』
『与える?』
『そうです。使いこなすことは難しく、条件がありますが、自分が抱え持っている瘴気を、人に移すことも可能です』
『だが……そんなことをしたら』
『あなたの瘴気を与えられたならば、普通の人は死ぬでしょう』
『なぜそんなことを僕に……』
『皇帝の抱えられる瘴気にも限界はあるのでしょう。あなたの瘴気を皇帝に移せるのならば、許容量を遥かに越えるはずです。肉体を保つことは難しいでしょう』
ユーシスは静かに、アシュバルトが皇帝を暗殺するための手段を教えてくれたのだ。
いずれ魔法大国からの使者を増やし、帝国の中枢の役人のいくらかを引き入れ、時を待ち、決行の機会を設けられるよう考えていると。
けれどそれを聞き、役人たちは……無理ではないか、そうアシュバルトは思う。彼らは一番に恐怖に支配されている。皇帝がゴミを払うように人を殺し続けるのを、その目で見ていないものなどいない。協力を求めようとしたことは幾度でもあるのだ。だが、皇帝に逆らう素振りを見せるだけで首が飛び、昨日までの仲間の死を数え切れぬほど見せられているうちに、心が死んでいくのだ。歯向かう気持ちなど浮かばなくなる。アシュバルトは、それを良く知っていた。
考えろ、アシュバルト。
聡明であるゆえ冷酷でもあるだろう魔法国家サーシスの策略は、言葉通りなものだけではないだろう。人々が集まった時その思惑が一枚岩であることすらありえないのだ。様々な想いが人を動かしている。利用できるものを利用し、アシュバルトはやり遂げなくてはならない。
それは突然だった。ミレッタが王城を訪れたときに、警備兵がミレッタを捕えた。予兆などなかった。乱暴に連れられ、牢に押し込まれる。
ぞっとした。遠い記憶の彼方で見覚えのあるそこは、とても貴族を入れるような場所ではない。石壁や床は汚れていて、まともな明かりもなく、毛布もなければネズミが走りまわっている。何が起きたのかまるで分からない。けれど前世と同じということは分かる。あの時もここに押し込まれたのだから。
また……魔女の疑惑が掛けられたの?
ああ、運命は繰り返すしかないの?
アシュ……。
――『あなたが殺されると言うのなら……あなたの代わりに僕が死ぬ』
彼のことを考えると胸が張り裂けそうに痛んだ。
このままでは……アシュが私の為に死のうとしてしまう。
今はもう、自分のことよりも、アシュバルトを思って焦る気持ちが抑えられなかった。
どれだけ時間が経ったのか。
蹲って寒さに震えていると、遠くから幾人かの足音が近づいて来た。
何より瘴気の気配がする。まさか……と思いながら格子の外を見つめていると、ランタンを手にした牢役人が、毛皮に身を包んだ皇帝陛下を伴ってやってきた。
ぞくりと、体が恐怖に震える。
前世ではなかったのに!
反射的に思う――私はここで死ぬ。処刑台までの命すらないだろうと。
牢役人が扉を開けると、皇帝陛下が格子を潜り抜け牢の中に入り込んでくるではないか。こんなことはあり得ない!
とても冷たい――温度を感じない闇色の瞳が私を見下ろした。ランタンの光がミレッタたちを照らしている。
「汚らしいな、魔女よ」
ああ、やはり、魔女の嫌疑なのかとミレッタは絶望する。もう生かされることはないだろう。
「お前が魔術を使いこなせることは分かっている。だが私は寛大だ。命乞いをするなら、助けてやってもいいぞ」
口元だけに笑みを浮かべ、皇帝陛下はそんなことを言う。
「国家転覆を狙ったアシュバルトにそそのかされたのだと、そう証言すればいいだけだ。そうすればあいつは処刑し、お前は私の側妃にしてやろう。浄化魔法の使える女だ。いくらでも抱きつぶしてやる」
何を言われているのかミレッタは混乱していた。皇帝陛下の側妃?アシュバルトを処刑?
「なんとか言え、小娘」
皇帝陛下はミレッタの胸倉を掴むと立ち上がらせ、ミレッタは首を絞められたように息が出来なくなる。
「あ……くっ」
「あいつには通いの女どもがいるぞ。知っているのか?陰でお前を何と呼んでいるのか。淫乱な魔女と、そう最初に呼び出したのはあいつだぞ」
「……」
ミレッタはどこかで聞き覚えのある言葉を聞いたように思う。淫乱な魔女……それは前の人生で処刑される前に聞いたことがある。アシュバルトが自分以外の女性の元に通っていることも。
……まさか。
ミレッタは、初めて気が付く。
皇帝陛下だったのだ。嘘偽りをミレッタに吹き込み、心弱らせ、魔女への道を歩ませたのは!
苦しみに顔を歪めるミレッタを皇帝陛下は不快そうに見つめ、そうして両手をミレッタの首元に宛てると、勢いよく服を切り裂いた。
その衝撃でミレッタは床に転がされる。そうすると、皇帝陛下が覆い被さるようにしてミレッタの動きを止めた。
「さぁ、アシュバルトへの恨みつらみを言え。憎いアシュバルトを殺してやる。そうして私が愛してやろう。お前は私に釣り合うよう、美しく育った」
なんとか息を吸いこみながら、ミレッタは考える。皇帝陛下の望みは、アシュバルトの処刑なのだと。けれど……それでは直系の血族が居なくなってしまうではないか。なんのために。
「使い道があるから生かしておいたが、憎い男の息子など殺しておけばよかったのだ。子など、また作ればいいのだから」
恐怖が全身を支配する。
子を産む胎にされる。ならばなぜ、前世では処刑されてしまったのだ。あの時何を証言していた?確か――『私利私欲の為に魔女になりました。アシュバルト様は何も関係ありません』最期までそう言っていた気がする。
皇帝陛下の手が、頬と首筋に触れる。声が出せないほどに怖い。なにをどうしても、殺されるか、殺されるよりひどい目に合う未来しか私には残されていない。
けれど、ならばこそ。
「……アシュ、バルト様は何も、関係ありません……」
震える声を絞り出した。
「あの方は、とても美しい心をお持ちです。私など、足元にも及びません。誰よりも、お優しい……」
「くそ女が!!!」
皇帝陛下はミレッタを床に叩きつけると思いきり顔を殴りつけた。衝撃で動けなくなったミレッタを見ると、憤慨するように立ち上がった。
「処刑日を待っていろよ」
忌々しくそういうと、皇帝陛下が立ち去っていく。遠のいていく足音を聞きながら、ミレッタは考えていた。あの人の心を守れるのは自分だけだったのに、だけどもう……と。
――その夜遅く。
ミレッタが気を失うように眠っていたとき、女性の下働きが、ミレッタの服を囚人服に着替えさせ、毛布を掛けた。牢役人の手引きだった。皇帝に知られたら命がないかもしれないその行為がひっそりと行われたことを、ミレッタは知らない。
アシュバルトが公務をこなしていると突然城の兵士たちに取り押さえられた。
「ふざけるな!放せ!」
「陛下のご命令です」
有無を言わさず城の一室に監禁され、そうして兵士たちに囲まれながら取り調べを受けた。
「殿下は、ミレッタ様が魔女だったことをいつから知っておられたのでしょうか?」
肝が消えた。
偽りの罪状だ。彼女の体は瘴気に蝕まれてなどいない。前の人生の記憶を持つが故、多少の瘴気を使った魔術を使うことが出来るようだが、その心も体も、少しも穢されていないのだから。
「そんなはずはない。何かの間違いだ。彼女は、稀有な浄化魔法が使える。それはなにより、魔女ではない証ではないのか!?」
「皇帝陛下自らが、ミレッタ様に浄化魔法など使えないことを確認されております」
「陛下が……?」
心が冷えていく。皇帝がミレッタに接触している。彼女は無事なのか。どうか神よ……!
どれだけ願っても、アシュバルトは何をしても部屋から出ることは叶わなかった。城の魔法使いたちによって厳重に魔法を掛けられ閉ざされた部屋の中で、出ていく手段などどこにもなかった。
時を待っているのではなかった、もっと早くに皇帝を殺しておけば……アシュバルトは絶望的な状況にただ後悔だけを募らせる。自分の命など、初めから彼女の為に捧げられているのに。彼女を助けることが出来ぬほどに自分は無力だ、と。
(ああ……体が辛い)
1人きりの部屋の中で、自分に向き合う時間を作られると、日頃考えないようにしていることで頭が支配されていく。瘴気に蝕まれた体が、酷く痛く、苦しく、耐え難いのだ。
(何も出来ない……体が辛い……この世には苦しみだけしかない……)
けれどだからこそ、これまで今ほどの苦しみを感じずに過ごせてこれたのは、ミレッタのおかげだったのだと気付く。
(ほんの少ししか魔法が使えないと言うけれど……そんなことはちっともないのに)
彼女はアシュバルトに残された最後の光のようだった。
アシュバルトの心の中にはいつだって彼女の笑顔が煌めいている。
日だけが過ぎ、焦燥しきったアシュバルトは、唐突にカチャリ、と扉が開かれる音を聞いた。そうして現れたのは、魔法大国サーシスの魔法使いたちだった。
ユーシスが言った。
「アシュバルト様、急いでください。ミレッタ様の処刑が決行されてしまいます」
「どうして……」
「時間がありません、早く」
ユーシスは駆け足でアシュバルトを誘いながら、こう語った。
「サーシスという国名は、かつて聖女様を最初に召喚した魔法使いの名前なのです」
それはアシュバルトの知らない情報だった。
「私はその直系の血を引くもの。我が国家の念願は、聖女召還という負の歴史を終わらせること、そして、大帝国リューシュアンの暴走を止めること。我々はそのための助力を惜しむことはいたしません。どうか急いでください。あなたしか、哀れな魔法使いたちの罪を終わらせることは出来ないのです」
ユーシスの懇願のような台詞を聞きながら、アシュバルトは考えていた。
城ですれ違う人たちは……傷一つなく、ユーシスたちによって気絶させられているけれど、遠くから見つける人々は、誰もアシュバルトを阻もうとやってこなかった。目をそらし、見なかったように離れていく。関わらないようにしている……?いや違う。見過ごしている……?
「あなたは、民に愛された皇太子です」
ユーシスがアシュバルトの視線を追い、言った。
「どうかご無事で。皇帝には我々の魔法は効かない。けれど、その他の者たちは私たちにお任せください」
「ああ、頼んだ!」
見物客で溢れている処刑場はもう目の前だった。
――その時、駆け出すアシュバルトを見送っていたユーシスは考えていた。
ミレッタ様がこのような形でお亡くなりになったら……きっとアシュバルト様は変わってしまう。本当の意味で瘴気に呑まれ、さらなる残虐国家が生まれ出る可能性もあるのだろう。なぜなら聖女の子供たちの……本質は皆同じなのだから。けれど、私たちは彼を処分することを望まない――今はまだ。
だから、どうか幸せそうに微笑み合うお二人がまた見れますようにと、そう祈るしかないのだ。
「人心を惑わせ、堕落した悪女、ミレッタをここに魔女として処罰を下す!」
高らかな声を上げる皇帝の声に、答えたのはアシュバルトだった。
「お待ちください!陛下!」
息を切らしながら壇上にあがり、遠くに座る皇帝を仰ぎ見ながら声を荒らげた。
「彼女は、魔女ではありません!聖なる浄化魔法が使える稀有なもの。私が証明いたします!」
皇帝は小さく、ほう……と言う。
「どうやって……?」
「瘴気に侵された土地や人に会わせれば分かります。彼女が浄化しているのだと」
「それを民にどう分からせるのだ?」
「ならば陛下が触れてくだされば、分かります」
「それは私が瘴気に侵されているといいたいのか?」
「そうでございます!陛下は、流し続けた血によって、この国土のどこよりも強い瘴気を身にまとっておいでです!」
民衆のざわめきが聞こえる。視線を動かすと、アシュバルトを取り押さえるよう指示された兵士たちと魔法使いたちが戦ってくれている。ミレッタは、兵士に取り押さえられながらこちらを見ていた。顔が赤黒く腫れている。ああ、酷い目にあっていたのだろう。
「それは私を悪魔だとでもいいたいのか?」
「そうでございます!穢れを纏い、人心を惑わせる、悪名高き残虐王!処罰されるべきはあなたでございます!」
魔法使いたちのおかげでアシュバルトの口を止めるものはいない。ならば皇帝自らが、アシュバルトの元に降りてこなければならないのだ。好機はその時しかない。
「私はずっとこの国と、暮らしていく民のことを想っていました。どうしたら怯えることなく、心安らかに日々を過ごすことが出来るのだろうかと。そんな未来は、瘴気に侵され、心を狂わしてしまったあなたでは決して描けないのだと。今こそ、法などないように殺りくを繰り返す、我が皇帝陛下の退陣が不可欠でございます!」
誰も、ヤジを飛ばしていない、それに気が付いていた。いつしかざわめきも消え、物音を立てずに民衆たちが見守っていた。
「私はここに誓いましょう。次代皇帝となったときには、子供たちが生まれて来て良かったと、未来に希望が持てるようになる国を作ることを!不安におびえる恐怖政治を終わらせることを!」
……ワッ……と民衆の間で思わずと言ったような声が溢れて、そうしてそれはまた静かに消えていく。
けれどそれだけで十分だった。憎しみに歪んだ顔をした皇帝が立ち上がったのだ。
ゆっくりと剣を抜きながら、殺意だけでアシュバルトを見据えていた。
壇上に歩いて来た残虐王はにやりと笑うと言った。
「殺されたいのか愛する孫よ」
「敬愛する陛下、どうか剣をお納めください」
懇願するように言ってから距離をはかる。殺されることなく、懐に入り込みたいのだ。
ひゅん、と音を立てて剣が振り下ろされる。躱しながらも、いつまでも逃げ続けるわけにはいかない。どうすれば、そう思っていたときに、振りかざした剣を持つ皇帝の腕に、何かが当たった。
カラン、と音を立てて剣が転がる。大きな石のようなものがそこには転がっていた。見ると、次から次へと石が投げ込まれている。アシュバルトではなく皇帝に向かって。
皇帝が意識を逸らした一瞬の隙に、アシュバルトは懐に入り込み、その心臓へと手を伸ばす。
――『心臓のある場所に手をあて、その心臓に瘴気を受け渡すことを願うのです』
かつてユーシスが瘴気を他者に与え移し、人を殺す方法を教えてくれた。
手が触れる、そう思った瞬間には、皇帝に床に押し倒されていた。
「お前はそれだから馬鹿なのだ。俺が知らないとでも思ったのか?お前たちのたくらみを。人を殺す方法を!」
楽しそうに皇帝は笑う。ハハハハ!と大きな声を立てて。彼の片手でアシュバルトの両手は抑えられている。そうしてもう片方の手は、アシュバルトの心臓の上に乗っている。
「なんで生かしておいたと思ったのだ?俺の苦しみの全てを受け渡す傀儡とするつもりだったからだよ。お前のためにより大きくしておいてやったぞ。鼓動が響いているな。温かいな。そう、今この瞬間まではな!」
まるで心臓が握りつぶされたかのようだった。
ぺしゃんと割れるようなそんな気がした。
アシュバルトは、その瞬間、死んだ。
ミレッタはずっと見ていた。
一つも見逃さないようにと、張り裂ける想いで見守っていた。
皇帝がアシュバルトの心臓に手を宛てると、皇帝の体を覆っていた巨大な瘴気の影がアシュバルトの体へと吸い込まれるように移っていく。その瞬間、アシュバルトががくりと脱力した。まるで死んだように――
「ア、……アシュ……?」
兵士を振り払おうとすると、兵士もまた呆然とその光景を見ていた。大した抵抗なく、兵士の手を逃れアシュバルトの元へ駆け寄ることが出来た。
「アシュ……アシュ!」
震えながら、彼に触れ魔法を掛ける。今怪我を治すから。今浄化するから。今助けるから。
けれど……巨大な瘴気に呑まれ、事切れるように横たわる姿に、すでにここに魂があるのだと思うことすらできなかった。
それでも魔法を掛け続ける。ミレッタに出来るのはこれだけなのだから。世界で一番優しい皇子様。繊細で、思いやりがあって、泣き虫の、傷つきやすい心を持っているのに、強くあろうと出来る人。どうか。この人を助けて。この人を救って。この人から苦しみを解き放って。どうしてどうして。ああ、この人を苦しめる世界など、存在する意味はどこにあるのか!
「ああ、体が軽い!若いころのようだ。ハハハハ!!ちょうどいい。お前、自ら俺の元に来たのか!」
二の腕を掴まれ立ち上がらされると、皇帝の肩に乱暴に担がれた。
「いやぁぁ、放して!アシュ……アシュ!!」
早くしないとアシュバルトが死んでしまう。今助けないといけないのに。私にしか出来ないのに。あの人は、私の心と体を救ってくれたのに!
泣き叫んでいたミレッタはなにも見えていなかった。暴れる彼女の声は背後から近寄る足音をも消していた。その時、皇帝の両手は塞がっていた。片腕にミレッタを担ぎ、片手では剣を拾ったばかりだった。だから反応が遅れた。
第三の手が背後から伸び、その心臓に触れたのだ。
「さようなら、おじいさま。どうか――あの世でおばあさまと出逢いませんように」
皇帝が倒れていく。ミレッタを受け止めたのは、最愛の人。
金色の髪がさらりとゆれる。澄んだ水色の瞳は自分を見つめている。あの日見た初恋の皇子様と変わらない。彼はいつものように、ミレッタに優しく微笑んだ。
「迎えに来るのがおそくなってごめんね」
ミレッタは言葉にならなくて、ただアシュバルトに抱き着いて泣いた。
死んだと、思った。
確かに自分の心は一度死んだのだろう。けれど小さな光が、まだ自分の中に残されていたのだ。その光は、少しずつ少しずつ増え続け、最愛の人の顔を形作った。ミレッタ……そうだ、彼女は?
気が付くと、巨大な瘴気に体を覆われながらも、意識を取り戻すことが出来た。顔を起こすと、ミレッタが連れ去れようとしていた。アシュバルトの名前を泣きながら叫んで。きっと彼女はアシュバルトにいつものように魔法を掛けてくれたのだろう。小さな小さな魔法。けれどそれが……アシュバルトをこの世に戻してくれたのだろう。
苦痛に耐えながらそろりと起き上がり、背後から近寄ると、瘴気の全てを送り返す。あっさりと……彼は死んだ。アシュバルトのように生き返ることもなく。地獄に迎え入れられたかのような顔をして。
なだめるようにミレッタの髪を撫でながら、アシュバルトは群衆を見回した。彼らは固唾をのむように見守っている。どう受け止めていいのか、喜んでいいのか、悲しんでいいのか、どう反応すれば裁かれないのか。何も分からないのだろう。
アシュバルトは叫んだ。
「皇帝は瘴気に侵され自ら死んだ!真に裁かれるものは、皇帝であったのだ!」
瞬間、皇帝の死を理解した群衆から、歓声と狂気のような声が同時に鳴り響く。何を意味する声なのか。それは今は分からなくとも。
けれど時代が変わることを誰もが感じていたことだろう。
大帝国リューシアン。その若き皇帝アシュバルトは、翌年ミレッタを皇后に迎えた。
聖女が消えてから最初の皇帝となったアシュバルトは、良い夫であり良い父となったという。けれど国を動かすことはたやすいことではなかった。恐怖による支配がなくなれば、また違う火種が生まれて行く。魔法国家サーシスは助言を惜しむことはなかった。なにより残虐王に支配される時代を終わらせた彼は、英雄であるかのように民に敬われた。
世界が変わっていく。
独立国家が生まれ、リューシアンの領土も縮小していく。世界の土壌は、浄化されることなく瘴気に侵され続けていく。今はまだ、終わりゆく世界を止められるわけではなかった。
それでも――とアシュバルトは思う。
今では自分の子を胸に抱いている。この子や、またその先の子の笑顔が曇らないように。心から小さな光が消えていかないように。自分には叶わなかったそれを、叶えていく子が増えるようにと。それが少しでも叶えられたのなら、自分自身も満たされるのだろうから。
だから、世界が朽ちていくと言うのなら、自分は願い続けながら生きてゆくしかないのだと。
感想や評価を教えて頂けると大変助かります。
(心配なので残酷描写的に足りないタグがあったら教えてください。残酷描写ありとR15は付いてます)




