聖女がいないと言うのなら
幾度かの交流を経た後、ミレッタはアシュバルトと正式に婚約を結んだ。
アシュバルトはミレッタを望み、そうしてミレッタは彼に寄り添う人生を覚悟した。
そうして度々ミレッタは王宮を訪れる。
過去に背負った恐怖の影はまだ追いかけてくるけれど……そんな自分に寄り添ってくれるのだと彼は言う。互いの重ねた手の温かさの中に、恐怖が薄れていく。私は恋に狂っていない。今はまだ。きっとこれからも。
そうして会話を重ねアシュバルトを知っていく。一度は18の歳まで一緒に過ごしたのに彼のことを何も知らなかったのだ。
図書室で本を読んでいるふりをしながら、いつものように念話をしていた。
『この歴史書には初代の聖女からのことが詳しく記されているよ』
『始皇帝ジュライ様の聖女様のことですね』
『そうだ。その後召喚を繰り返して、聖女の生んだ子を繋ぎ、僕までたどり着いている』
ミレッタは聖女様については一般的な知識しかもっていない。かつての皇太子妃教育でも触れてはいたけれど、そのころもう聖女様はこの世界にはいなかったからだ。
『すべてが異界から攫って来た若い女性だったのだ。本人には辛いことばかりだったのだろうと思う』
『……』
彼のおばあさまが最後の聖女様だったのだと聞いていた。水色の瞳が窓の外に向けられた。過去を思い出すように彼は語る。
『聖女の血を引くものは特別なんだよ』
『特別?』
『浄化の力はないけれど……でもね、体に瘴気を抱えられるんだ』
『どういうことですか?』
『瘴気に苛まれている人や土地から奪って抱え持つことが出来るんだ。取られた側からすれば浄化と変わらないのかもしれないが』
『……まさか』
顔を上げてアシュバルトを見ると、にっこりとした笑顔を返される。なんでもないことのように。その姿にミレッタは泣きそうになる。
『殿下』
『アシュと呼んで』
『殿下、それは、今まで奪い続けて来たということですか?』
『……そうだね』
聖女様の血筋の者は瘴気を体に抱えられる……そんなことがあるんだろうか。そう思うけれど、それでしか考えられない。巨大な瘴気の影は消えることはなく皇子の体を覆う。こんなものを人が抱えられるはずがないのに。
けれどそんなことがあるのなら……この優しい皇子様は、瘴気に苛まれている人たちの苦しみを引き受け続けてきたということ。
『……お辛いですよね?』
『……』
『辛さは、変わらないのですよね』
『たぶんね』
そっと隣に座るアシュバルトの手を握ると、優しく握り返される。瘴気に覆い尽くされる彼の体はそれでもいつでも温かい。それは彼の心の温かさのようで、ミレッタの心をいつも恐怖の影から遠ざけてくれる。そうしてミレッタは願うように魔法を彼に注ぐ。ほんの少しでも苦しみから逃れられますように、と。皇子は瞼を閉じると、体の力が抜けたように小さく息を吐いた。
『いつもありがとう』
『いいえ』
『ミレッタにはいつも助けられている』
『何も出来ていません』
ミレッタには何の力もない。母親を見送ることしか出来なかった。今帝国の皇太子を目の前にしても、なにも出来ることが思いつかない。
『どれだけ……抱え持てるのですか?』
『どうだろうか。まだ限界ではないようだが』
『……』
今でも辛そうにしているのにどこまで耐えられるのだろう。出来ることなら止めたい。けれど止めてもこの人はやめないだろうと、そんなことも確信している。ミレッタは毎日無力を痛感するだけ。
『聖女がいないと言うのなら、僕が聖女の代わりになればいいのだと思っていたんだ。血塗られた歴史を紡いできた、最後の継承者としての責務だと』
『……』
『でもね』
『はい』
『あなたにあって、考えが変わったんだよ』
考えが変わる?どういうことかと皇子を見返すと、ただ優しく微笑みが返される。
『未来の僕は、あなたの瘴気を奪っていなかった』
『……』
『そんなことはあり得ないんだよ。それならば、きっと僕には限界が来ていたんだ。もう人の瘴気など背負えなかった。狂っていたのかもしれないし、人間の意識がなかったのかもしれないし、もしかしたらすでに殺されていたのかもしれない……』
『……アシュ』
『なら、僕がしていることは間違いなんだと気が付いたよ。情けないね。自分でも短慮な行動だったと思う』
彼は言っている内容の重さとは違い、朗らかに笑った。
『やり方を変える。どうにかして、僕は、あなたが生きて行ける未来を作るよ』
ミレッタはその優しい笑みにまた哀しくなる。
この人はいつも人のことばかり。優しい皇子との会話を重ね、ミレッタはとっくに気が付いていた。自己犠牲が過ぎるこの人は……決して、自分の未来については語らないのだと。
その日は前触れもなく訪れた。
皇太子妃教育の為に王宮に訪れていたミレッタが皇帝に接触してしまったのだ。
一報を受けアシュバルトはその場に駆け付けたが、遅かった。長い廊下の先で皇帝がうずくまる人影を蹴り上げている。床に転がされる黄色のドレスのその女性は……間違いなくミレッタだ。
ああ、少しでも平和な日常がこのまま続けばと……そう願ったのはただの幻想だった。
アシュバルトは全身に鳥肌が立つ。あの日父が刺されていく記憶が生々しく蘇る。あの男の前ではどんなに掛け替えのない命でもチリのように吹き飛ばされてしまう。
命乞いをしなくてはもう彼女は助からないのだろうと「御前失礼致します」震える声で跪き、皇帝の前に頭を下げる。ただただ彼女を後ろにかばうことしか出来ない。
「どうかお許しください。非礼がありましたら、私の命でどうか代えさせてください」
「ほぉ……お前が庇うのか」
現皇帝は、まだ50歳の半ば。未だ体力の衰えていない彼は、言い終わるとアシュバルトの顔を蹴飛ばした。それだけで気を失いそうになる。ガンガンと、激しい音を立て全身を蹴られ続けると、ヒッ、アァ、そんな悲鳴が周囲から上がっていた。きっと自分からは血が飛び散っていることだろう。
「生意気な!俺に逆らうのか!?お前の父が……!聖女を殺した!!お前が死ねー!」
剣を携えていなかっただけまだマシなのだろうとアシュバルトはぼんやり考えていた。朦朧とした意識の中で、こんなところで終わるはずではなかったのにと、そんなことを思う。ああ、いつも泣きそうな顔をしていた彼女が残されてしまう。どうか彼女に被害が及びませんように。どうか自分だけで。アシュバルトは、もはや信じることもなかった神に祈った。
どれだけの時間が過ぎたのか、辺りは静かになっていた。「あ、あ」彼女の声が聞こえた。
「アシュ……今、治すから。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
温かなものが体に触れている。彼女が覆い被さるように自分を抱きしめていた。
そうして全身で魔力を伝えてくる。
彼女の魔法は、いつもまるで彼女の意思を伝えて来てくれているかのよう。俺が好きだと、楽になって欲しいと、幸せでいて欲しいと。
そうすると不思議なことにアシュバルトの心はポカポカと温かくなるようで、忘れていた何か懐かしいキラキラと輝くものが心に浮かんでくる。幼い日の自分が感じていたなにか。もう思い出せないけれど、まるで、息を吸い込むのも苦しいこの世界から、残酷な程の美しさを感じとるために痛みを与えられているのだとでも言うように。
治癒士たちが駆け付けてこようとしている。誰かが呼び出してくれていたのだろうか。それとも皇帝もまだアシュバルトを生かしておくつもりだったのか。
治療を受けたが王宮の治癒士でもすぐに治せないほどの内臓の損傷があると言われ、意識を失ったアシュバルトはその後一週間ほど目が覚めなかった。
そうして目覚めて数日経ったころ、彼女が見舞いにやってきた。
「ごめんなさいアシュ……ごめんなさい。ごめんなさい」
大きな瞳からぼろぼろと涙を流している。最後に見た彼女もこんな風に泣いていたのを思い出す。
「心配掛けて申し訳なかった。君の怪我は?」
「すぐに治癒士様に治していただけました」
「君が無事で……本当に良かった」
「よく……よくありません!ちっともよくないのです。アシュは何もわかっていません」
「……」
泣きながら、それでも強く伝えたいことがあるようで、ミレッタは言いつのった。
「あなたが傷ついたなら、何もよくはないのです」
「ごめんね」
「許しません」
許されないのは初めてのことで、アシュバルトは申し訳ないけれど……嬉しくて笑ってしまった。
「あの日、なにがあったの?」
「廊下ですれ違いましたので陛下にご挨拶を申し上げて……突然問われたのです」
「なにを?」
「我が孫を愛しているのかと」
その質問の意味が計りかねて、アシュバルトは思案する。
「どうしてそんなことを……それで?」
「もちろんでございます……と」
「……そ、う」
「ただそれだけの会話しかありませんでした」
狂っている。
けれどこの帝国に属するものはその狂った皇帝の手の中で、いつ命を奪われるかもわからないのだ。
「辛い思いをさせてごめんね」
「そんなの……私の方でございます。殿下は、いつもいつも、辛いことを引き受けようとなされます。それは、とても嬉しくて、でも哀しいことでございます。殿下はなぜそんなにも一人で抱えようとなさるのですか」
涙を浮かべたその真摯な問いに、上手く答えられるだろうかとアシュバルトは思う。
「君は……子供時代に、絵を描くことはあったかい?」
「絵、ですか?落書きのようなものなら」
「うん、僕もそうなんだけど……」
小さなアシュバルトが、床に転がり好きなように絵を描いているときは、おばあさまも穏やかな笑みを浮かべて見守ってくれていた。幸せを感じることが出来た子供時代。
「色とりどりの画材を使い、鮮やかな絵を描いていく……」
「ええ」
「現実的ではない色も混ざる、子供ならではの絵だ」
「そうですわね。ふふ」
「子供の瞳には何が映っているのかと思わせる……色鮮やかな世界。僕は子供たちが、そんな絵を描き続けられる場所を作ることを、手助けできる人でありたい」
「……」
ミレッタの透き通るような瞳がアシュバルトを映している。
『僕が六歳のときに、おばあさまが死んだ。彼女は聖女だった』
『はい……』
『ずっと嘆き苦しんでいた。日々泣いて暮らし、元の世界に帰ることだけを望んでいた。それでも自分の子供やその孫には愛情を分けてくれていた。彼女に抱きしめられると体が楽になるのを感じていたけれど……当時は分からなかったが、あれが聖女の力だったのだろう』
だからこそ祖父が彼女を執拗に囲ってしまったのだが。
『皇帝は皆……聖女の血を継ぐものだ。僕も変わらない。体質が同じなんだ』
『……瘴気を?』
『そうだ。祖父もまた、流す血に比例するように瘴気をその身に抱えていた。血を流し瘴気を抱えるばかりで、奪い取れることまでは知らないようだが。見たかい?』
『ええ、すさまじい瘴気を抱えていらっしゃいました』
それを見ていても、ミレッタは皇帝に毅然と向き合ってくれていたのか。
『異界から現れた聖女しかそれを癒すことも出来ない。体を楽にさせることの出来る唯一の存在を束縛し、祖父は祖母に何一つ自由を与えなかった。ほんの少し許されたのは、子供と孫に会う時間だけ。そんな中で祖母は父にお願いをしたんだ。召喚されたときの持ち物を見せて欲しいと。父は渋ったが、泣きながらの懇願に折れてしまった。直系皇族しか入れない場所に祖母を連れて行ってしまった。そうして……祖母は念願を叶えた。聖女を呼び寄せるのに必要な異界の荷物の保管されたその場所を、自分の命ごと跡形もなく吹き飛ばしてしまったんだ』
『……え』
表向きには、聖女とその子供は、事故で亡くなったことになっている。自死や皇帝の手による刑だと知っているものはごく少数のはずだ。
どうやら聖女の魔法が使われたようだが、祖母はどうしてそんな手段があることを知っていたのか。疑問は尽きない。
『その日のうちに祖父は父を殺し僕は皇太子となった。母はとうに心労で亡くなっていた。その日から……僕は絵は描けなくなったんだよ。世界が真っ黒で、なんの色も浮かばない。思い浮かぶのは血の色と……どす黒い瘴気だけ』
ミレッタの瞳が揺れている。何てこと、そんな小さな声が聞こえた。
『僕は、罪を背負った一族の直系だ』
自分もいつ、父と同じ運命をたどるか分からないけれど。
『国は、誰か一人の手で作られているわけではない。聖女を召喚したのも、彼女らに依存し領土を拡大したのも、血族の思惑だけなどではないはずだ。豊かになる国の暮らしに民が喜ぶ時代もあったのだろう。聖女の悲しみを知らずに、聖女を祭り上げていたこともあったのだろう。けれど、そうだとしても』
アシュバルトはミレッタを見つめた。
『皇帝を、生かしてはおけない。さらなる血を流し続け、世界に瘴気を広げ続けている。浄化できる聖女はもういないというのに!歴代の皇帝とは違う、今は、彼こそが世界の破滅を望んでいる。逆らうものを殺し続ける暴君に、助言できる者すらいない。この先世界は、人が生きて行ける場所ではなくなるのかもしれない。そんなことには僕がさせない』
アシュバルトは強く言い切る。
『彼の穢れを引き受けようとも、僕が彼を殺す。そうして僕が、最後の皇帝として……殺されることで、この国を解体する』
ミレッタが小さく、アシュ……と言って、ベッドの上のアシュバルトの手を握った。その手を握り返しアシュバルトは言う。
『君の安全は約束する。けれどすまない。一緒に生きることは難しいだろう……』
『アシュ』
『君が好きなんだ。だけど』
『……聞いてください、アシュ』
顔を上げると、ミレッタが気遣うように笑った。
『覚えておられますか?初めて会った日のことを』
『もちろん』
『未来に怯える私の心に寄り添い、代わりに自分が死ぬのだとおっしゃってくれました』
『ああ』
『私の心は救われました。アシュがいたから、私の心の中は今も鮮やかな輝きを保てているのです』
『……』
『あなたが、私を救ってくれたのです』
ミレッタが浄化の魔法を、アシュバルトにかける。アシュバルトの中に伝わってくるのは、感謝や愛情の入り混じった、温かく鮮やかななにか小さな輝き。
嘘のないその鮮明さに、アシュバルトは泣きそうになってしまう。
『だけど』
『世界の為にあなたが心を失くすというのなら、私があなたの心になりましょう。世界の為にあなたが死ぬと言うのなら、それは間違っているのだと、私は隣で言い続けましょう。最期まで、どうかおそばに』
耐えきれず涙がこぼれ落ちてしまう。
「僕は君の前で泣いてばかりだ」と恥ずかしくなって言ってしまうと、彼女は以前と同じようにハンカチを頬に宛ててくれた。ふふ、と気遣うように笑っている。それだけで嬉しくなってしまう。なんて単純なのだと思うけれど、こんな日常を紡げる世界を、アシュバルトは望んでいる。
彼女の手を取ることになると、アシュバルト自身が思っていなかった。だからこそ、このことによって、未来はまた大きく変わっていく。




