フィルムカメラにまつわるストーリーその8
今から約40年程前の週末、テレビのゴールデンタイムはプロレス中継で賑わっていた。
ヤスヨは地方に住むプロレスファンの一人で、スーパースターたちが地元に
来る日をいつも心待ちにし、興行があると必ず最前列のS席チケットを購入して観戦。
また、当時としては世界初の本格的オートフォーカス機能搭載のフィルム一眼レフカメラを手に、
レスラーたちの勇姿も捉えていた。
ヤスヨの写真は、まるで試合の熱気と闘志をそのまま閉じ込めたかのようで、
プロレス界隈で「S席の美女」として知られるようになった。
評判が広まりヤスヨの撮る写真はプロレス誌から掲載依頼がくるほどだった。
ただ、彼女の観戦は10年前にあるお気に入りのレスラーの引退がきっかけとなりピタッと止まった。
プロレス観戦をやめた10年後のある日、
ヤスヨは過去に撮影した全てのフィルムをデジタル化するため写真店を訪れた。
そのフィルムは特色があり、そのほとんどがドロップキックの瞬間であった。
不思議なことに彼女が観戦をやめた理由となったレスラーの姿は一コマも写っていない。
写真店の店主もかつてはプロレスファンで、
ヤスヨのフィルムをデジタル化する作業中、
自分の若かりし日の思い出に浸っていた。
店主はヤスヨからの注文の際に、
プロレス観戦の思い出やお気に入りのレスラーの話を一通り聞いていたので、
納品の日にお気に入りのレスラーがなぜ一コマも写っていないのか理由を尋ねた。
ヤスヨは笑って答えた「あの選手の試合を最初に観戦して
ドロップキックを放とうとする瞬間、撮り終えたフィルムが
自動巻き戻し中で撮ることが出来なかったの。
選手の体が宙を舞う瞬間があまりにも美しく衝撃的で、
その選手だけドロップキックを撮らなくなったんです、
ファインダーを通さず目で見て私の心に残しておきたかったから。」
ヤスヨは攻撃技として精緻な技術とタイミングを併せ持つ
高度な表現であるドロップキックに美しさと芸術性を感じ、
その一瞬を捉えようとシャッターを押していたのだが、
彼女が最高に美しいと感じる一瞬はフィルムに残さなかった。
店主は彼女のプロレスへの思いに少し驚きながらも納得した表情を浮かべるのであった。