戦慄の王立第二病院②
ジャック・リンドン医師は三十代前半の、色素の薄いウェーブがかった髪を持ち、目の下にくっきりと隈がある痩せぎすの男性だった。明らかに「過労です」といった雰囲気を纏わせていなければ中々に整った見た目の人物だろう。
リンドン医師は患者の手当てを続けながら早口に説明をした。
「先程どっと患者が押し寄せてね。どうやら工事現場で木材が倒れてくる事故があったらしく、ご覧の通りだ。ひとまず傷口を綺麗にしてから止血をしたいから、君、いきなりで悪いが手伝ってもらえるか」
「はい、わかりました」
リリカが血を流してうめく患者の元に駆け寄って、リンドン医師の指示のもとで手当にあたろうとした、その時。
「じゃあ、あたしは受付に戻るから」
「!?」
ここまで案内した女性の看護師が片手を上げてそう言った。
「え……戻るんですか、今この状況で!」
「だって、あたしの担当は受付だし」
「でもさっき受付にいませんでしたよね!?」
リリカが至極真っ当なツッコミを入れると、女性はめんどくさそうに「ちっ」と舌打ちをした。
「いいんだよ、行かせてやってくれ」
リンドン医師は女性の方に目もくれない。
「え、な、なんでですか」
「ほらっ。そういうことだから、じゃあ」
痛みを訴え血を流す患者に見向きもせず、本当に看護師は去っていってしまった。リリカは若干呆然としながらも、とにかくリンドン医師の指示に従い、患者の処置にあたった。
「やあ、助かったよ。どうやら君は随分と心得があるようだ。このまま入院患者の診察に行くからついてきてくれるか」
「はい」
十人の患者の手当てを終えた後、休む暇なくリンドン医師は立ち上がる。リリカはリンドン医師の後ろを駆け足でついて行った。
しんと静まり返った大部屋の病室には七人の患者が横たわっており、リンドン医師はうちの一人に近づくと、状態を見る。
「マーレさん、リンドンです。聞こえますか?」
マーレと呼ばれた老婆は、落ち窪んだ目をわずかに開けると、ゆっくりと頷いたかと思えば激しく咳き込んだ。
「これはいけない。君、飲み水を持ってきてくれ。さっきの診察室で使った湯の残りで良いから」
「わかりました」
リリカは言われた通り、一階まで降りて診察室内を横切り、先程傷の手当て時に沸かしたお湯の残りをやかんから水差しにうつして持って行った。
「ちょっと手伝って。上体を起こしてくれないか」
「はい」
老婆の背中に手を回して起こしてやる。薄い皮膚からは背骨の感触がはっきりと手に伝わってきて、まるで綿がつまった枕でも持ち上げているかのように重さを感じさせない。
リンドン医師は薬草を煎じた飲み薬を作ると、ゆっくりと老婆に飲ませ、それから飲み水を与えた。老婆の咳が少し落ち着く。再びベッドに老婆を横たえると、次の患者を診るべくベッド脇を立つ。
リンドン医師は入院患者全員の診察を終えると、再び一階の診察室に戻り、やって来た外来患者の診察にあたる。一秒たりとも休む暇なく立ち働くリンドン医師のきびきびとした指示のもと、リリカは胸の中をぐるぐるとさまざまな疑問がよぎりながらも、患者の包帯を巻き直したり、医療器具の煮沸消毒をしたり、カルテを渡したりした。
途中、他の看護師が昼食を持ってきてくれたので口にすると、ほぼ味のない具材が入っていない白湯みたいなスープと、カチカチに固いパンであった。口にしたリリカはびっくりして、思わずリンドンさんに問いかけた。
「このパンとスープ、患者さんに出しているんですか!?」
「いつもこんなもんだよ」
「これじゃ、歯がない人はとてもじゃないけど食べられません!」
「そうなんだ。だから食事は大体の患者が残している」
「ちゃんと食事をしないと、病気だって治らないのに……」
「まあ、食事が出てくるだけマシだと思おう」
やっと全ての業務が終わり、リリカとリンドン医師が一息ついたのは、夜も更けた頃合いだった。
診察室の奥の部屋で椅子に腰掛けるリンドン医師に茶を出すと、医師は一口飲んでからふぅと息をつく。色素の薄いウェーブかかった髪をかきあげ、明らかに疲れ切った様子だった。
「助かった、助かった。よくできる看護師が来てくれて良かった」
「あの……今日一日見ていて思ったんですけど、他の医師や看護師の方はいらっしゃらないんでしょうか。普通、王立病院はもっとたくさんの方が働いていると思うんですけど」
するとリンドン医師は眉をひそめ、苦々しげにため息をつく。
「もちろん他にも医師も看護師もいる。だがな……ここだけの話、この病院はかなり腐敗しきっているんだ」
「腐敗ですか」
「そうだ。原因は一年前に赴任してきた、新院長のせいだ」
そうしてジャック・リンドン医師は、王立第二病院を取り巻く数々の問題を語り出した。
王立第二病院は一年前までは王都にある他の病院と変わらない、ごく普通の病院だった。
様子が変わってしまったのは、一年前にバージルという名の院長が赴任してきたせいである。
バージルは医療の知識がなく、患者に寄り添う心もない、ただひたすら金の欲望まみれた人間であった。
院内で患者のために使うはずの金を横領し、私物を買ったり夜な夜な遊び呆ける院長に当然医師及び看護師たちは反発し、院長室に押しかけて抗議をした。
その結果、抗議に行った者たちは解雇を言い渡された。
王立病院は国で管理している病院のため、そこまでの横暴が許されるはずはないのだが、バージルは高位貴族と繋がっており国に話が届く前に全てを握り潰してしまっている。
結果、第二病院はバージルのやりたい放題となっていた。
逆らえばクビになるので誰も何も言えず、むしろバージルの言う通りにしていれば横領した金で酒場でのご相伴に預かれると知った医師は喜んでこの隠蔽に手を貸した。
まともな医師や看護師は第二病院を離れていき、残ったのはロクでもない奴ばかりである。
「……受付の女性は、腐敗した医師の一人の奥さんなんだが、夫婦揃って全くやる気がないんだ」
うなだれながら訳を話したリンドン医師の頬はこけ、髪の毛がだらりとカーテンのように顔を覆う。精魂尽き果てたといった様相を呈していた。
「リンドンさんは、どうして第二病院に残り続けているんですか?」
「そりゃ、患者が心配だからさ。周辺住民にとって、この病院はなくてはならない存在だ。王立病院は平民が格安で医療を受けられる唯一の場所……ここで私までもが逃げ出せば、本当に医療を必要とする人々が困ってしまうだろう。とはいえ一人でできることには限界がある。君が来てくれて、本当に助かったよ」
「リンドンさん……」
リリカは、頬がこけた顔で微笑むリンドン医師の姿に感動した。
腐敗した病院にたった一人残って奮闘する、その志。
患者のことを思う、その気持ち。
「リンドンさん、私、微力ながらお手伝いをさせていただきます」
「ああ。ありがとう」
ゆっくり頷くリンドン医師。
「では私、下がらせていただきますね。リンドンさんも少し休んでください」
「そうしよう」
リリカは診察室の奥のベッドに横たわったリンドン医師を見届けると、院内を横切り、宿直用のベッドがある部屋へと入った。
道すがらの院内はやはり薄汚れていて、埃っぽく、死の臭いが蔓延していた。
リリカの役目は、院長の不正を暴くことである。しかし、こうも荒れ果てた病院を見せつけられて、じっとなどしていられようか。
ーーやるしかないでしょ。
リリカの瑠璃色の大きな瞳は、薄汚れた院内をひたと捉えていた。