第80話 優しさの理由
夜が更け、料理は空っぽになり、子供たちが家に帰る頃合い。
メインとなる料理の他に、万霊祭に欠かせないお酒の匂いが広場に充満し始めた。自分好みの銘柄の酒瓶を持った下町の男たちが、広場で酒を酌み交わす姿があちらこちらで見られ、そのうちの一人が上機嫌にリリカたちの方へと近づいてきた。
「よぉウィル君! 君、酒は飲めるかい? 一杯どうだ?」
「じゃあ、もらってもいいかな」
「そうこなくっちゃ。リリカは?」
問われたリリカは首を横に振った。下町で出てくるお酒は結構度数が高いし、どんどん勧められるので始末に負えない。
ウィルジアはグラスに注がれた安酒を、まんざらでもなさそうな顔で飲んでいる。
「おっ、イケる口か? もう一杯どうだ」
ウィルジアの返事を聞かず、なみなみとグラスに酒が注がれた。
「ウィル、あまり飲むと後から効くからほどほどにしておいた方がいいわよ」
「そうかい? 結構飲みやすいよこれ」
「いいねいいね! おーい、リリカが連れて来た兄ちゃん、飲めるぞ!」
グイッと飲み干すウィルジアを見て気を良くしたのか、大声でそう呼ぶと広場から酒瓶片手にわらわらと男性陣が寄ってきた。
「俺の酒もどうだい?」
「こっちのは腹の底から熱くなるぜ!」
「よし、酒の肴にリリカの昔話でもしてやるかぁ!」
「えっ!?」
思いもよらない飛び火にリリカはびっくりした。
「私の話なんてしてもつまらないから、やめましょうよ!」
「何言ってんだ、リリカは話題に事欠かないから、話が尽きないぜ」
「おうよ。ウィル君、何が聞きたい? 湖に釣りに行った時、リリカが湖の主を一本釣りした話にするか?」
「いやいや、大雪が降った日にリリカが町中の除雪作業をした話にしようぜ」
「何の、下町で連続洗濯物盗難事件が起こった時、リリカが犯人を捕まえた時の話がいい」
そこからはなぜか、リリカの武勇伝で大いに盛り上がった。
「リリカの釣り竿に引っかかった湖の主のデカさと言ったら! 大人五人がかりで引き上げるような巨大な魚を釣り上げた挙句、その場でリリカが捌いてなぁ!」
「あの魚はウマかった」
「周辺の釣り人みんなが集まってきて、大騒ぎになったよなぁ」
「僕も一緒に行ってみたかったなぁ」
「今度、お屋敷仕事が休みの時に皆で釣りに行こうぜ! なあリリカ!」
「え、ええええぇ……」
「何だ、遠慮してんのか? リリカが釣りすると大物がかかりやすいから、また是非とも行きたいんだがな! よし、ウィル君も交えて皆で行こう!」
ウィルジアの正体を知らない町人は、次の休みに釣りに行く約束を取り付け、ウィルジアも割と乗り気で頷いている。
本当に行く気なのだろうか。またしても変装するつもりなのかな。もはやリリカには、ウィルジアの心境が全くわからない。
リリカは話題の中心に居ながらにして蚊帳の外のような状態になりつつ、盛り上がる話題を苦笑いを噛み殺しながら聞いていた。
大量にあった酒瓶が空っぽになり、広場ではそろそろ帰ろうかという雰囲気になっていた。既に満月が真上に来る時分で、お開きには頃合いである。
広間は宴の後で凄まじい散らかり様であったが、下町の人々は酔っ払いつつもそれを片付けている。きっちり片付けないとカラスや野犬などがやって来て荒らされてしまうので、どれほど酔っていようが力を合わせて後片付けをこなす。
やがて広場が綺麗になると、皆は三々五々に散っていった。
皆はリリカに目を留めると、気さくに笑いかけてくる。
「じゃなー、リリカ。屋敷仕事頑張れよ!」
「なんかあったら俺たちを頼れよ!」
「ウィル君も、リリカをよろしくな!」
「今度釣りに行こうぜ!」
リリカとウィルジアはその声に応えながら、顔を見合わせた。
「じゃあ、私たちも帰りましょうか」
「うん、そうしよう」
既におばあちゃんは先に帰っており、今頃はもう眠りについている頃だろう。
リリカとウィルジアは馬に乗り、王都を抜けて屋敷へと帰って行く。王都を出て街道に出れば、光源は月明かりと星の明かりのみで、ほぼ真っ暗闇だ。
「リリカ、離れないように」
「ウィルジア様も遠くに行かないでくださいね」
「うん。それにしてもすごい大騒ぎだったね。僕が知ってる万霊祭と全然違った」
「上流階級の方々は、もっと厳かな夜を過ごすんですよね」
「うん。会話もほとんどないし、エド兄上ですら静かにしてる」
「来月の万霊祭には、王宮に行かれますか?」
「そうだね、行かないと」
会話が途切れる。しばらく静かに、馬の蹄が草を踏み締める音だけが響いた。
「……ミートパイ、美味しかったよ。一緒に作るのも、楽しかった」
「実はミートパイは、私の誕生日にお母さんが作ってくれた特別な料理だったんです」
「誕生日に?」
「はい。五歳の誕生日に初めて食べて、すごく美味しくて、私はとっても気に入って。毎年作ってくれるって言ってくれたんですけど、その後すぐ……両親は死んでしまったので」
初めてミートパイを食べた時の記憶は、忘れられないだろう。そして初めての万霊祭で、おばあちゃんと一緒にミートパイを作った時の記憶も。ミートパイがあんなに作るのが大変な料理だったなんて知らなかった。きっと母は、リリカを喜ばせるために、一人で懸命に作ってくれたに違いない。そう思うと、記憶の中の朧げな母のことを思い出し、感謝の気持ちが胸に溢れてくる。
リリカが無意識に手綱をきゅっと握ると、ウィルジアが質問を重ねてきた。
「…………リリカ、誕生日いつ?」
「秋中月の5日です」
「じゃ、今年の誕生日は一緒にミートパイ作ろう」
「え……」
「ケーキも用意して、ご馳走にしよう。全部作るのは大変だろうし、ケーキは王都に買いに行こうか。屋敷におばあさんを招いてもいいね。それとも下町に行ったほうがいいかな。リリカが好きな方にすればいいと思うけど……どっちがいい?」
思いもよらない提案にリリカは驚く。ここでウィルジアが、自信のなさそうな声を出した。
「……ダメかな。僕もリリカの誕生日を祝いたいんだけど……」
「ダメじゃないです、嬉しいです!」
リリカは即座に力一杯言った。
「ウィルジア様にお祝いしてもらえるなんて、夢みたいで……!」
「リリカに喜んでもらえるなら、僕も嬉しいよ」
リリカは思わず、胸につかえていた疑問を口に出してしまった。
「私、ただの使用人なのに……どうしてこんなに優しくしてくれるんですか……」
ウィルジアが優しくすればするほど、リリカは勘違いしそうになる。
自分に強く戒めの暗示をかけても、決意がぐらつきそうになる。わがままになって、欲張りそうになる。
ウィルジア様は主人で、仕えるべき対象で、尊い身の上で、リリカとは身分差が天と地ほどの隔たりがあって、きゅんとしたり恋をしたりしてはダメで、邪念を捨てて全力でお支えしなければならないとわかっているのに。
わかっているのに、こんな風に優しくしてもらったら、せっかくのリリカの決意なんてあっという間に崩れ去ってしまいそうだった。
結局のところ、リリカだってただの十七歳の女の子で。
いくら自分に言い聞かせても、ウィルジアを格好いいと思ったり、一緒に下町の万霊祭を過ごしたいと願ったり、発言や仕草にドキドキしている時点でもう、主人としてではなく異性として見てしまっている。抱えきれない。蓋をしようと思っていたのに、一生懸命頑張って気持ちを抑え込んでいたのに、ウィルジアの行動と言動で、そんなものは簡単に吹き飛んでしまう。
「どうしてって……うーん……そうだなぁ……言い表すのは難しいというか、なんていうか……」
わずかばかりの期待を込め、せめて真意の一端だけでも聞き出せないかと思ったが、ウィルジアは歯切れの悪い言葉を並べ立てた後、黙り込んでしまった。
リリカは主人を困らせてしまった申し訳なさと、自分の望む答えはきっと返ってこないのだという落胆する気持ちとが同時にやってきて、振り切るようにわざと明るい声を出した。
「困らせてしまってすみません。ウィルジア様は皆にお優しい方ですもんね」
そしてリリカはこの話題を打ち切った。
ウィルジアは下町でも皆に優しく振る舞っていたし、リリカだけが特別であると思い上がらない方がいい。
リリカが気持ちを押し込めれば、今まで通りの生活が送れる。
きっと、それが一番いいのだとリリカは結論づけた。身の丈に合わない願いを抱くべきではないのだ。
ウィルジアは何も答えずに、空を見上げた。リリカもつられて空を見た。頭上では星々が瞬いており、静かな光を投げかけていた。
雰囲気を変えようと、リリカは全く別の話題を切り出す。
「ウィルジア様、星には詳しいですか?」
「いや、全然。リリカは詳しいの?」
「私もあまり……ただ、夏に大きく光る星が三つあることだけは、おばあちゃんから聞いたので知ってます」
「あー、あの三つかな」
「はい」
リリカはポケットからごそごそとハンカチを取り出す。
「それは?」
「私が初めて作ったハンカチに、おばあちゃんが夏の星を刺繍してくれたものです」
リリカはハンカチをぎゅっと握りしめた。
「一番最初におばあちゃんから貰った、とっても大切なものなんです」
それからリリカは、再び夜空を見上げる。
「亡くなった人は明日の朝には空に還って、また空から私たちを見守ってくれるんですよね」
「そうだね。リリカのご両親も、きっとリリカを見てくれているよ」
リリカはウィルジアの言葉に、こくりと頷いた。