ミミリーと弟①
酒場で働くミミリーは、最近体調不良に苛まれていた。
ミミリーの家は貧しい。母は他界し、父は浮気相手と共にどこかへ行き、残っているのは十九歳のミミリーと十歳の弟だけだ。そしてその弟は今、咳をこじらせて王立第二病院に入院中である。
病院の費用は格安とはいえ、長期間の入院ともなるとそれなりの金額が必要になる。ミミリーはたった一人の家族を助けるべく、身を粉にして働いていた。
昼は市場で野菜を売り、夜は酒場でおじさん相手にお酒の相手をする。
夜の仕事は弟の入院と共に始めた仕事で、実入りは格段に良いのだが、あまり楽しい仕事ではない。辞めたいと思いつつ辞めたら収入が足りなくなるので、弟のためを思い頑張って働いていた。
しかしこの半年ほど昼夜を問わず働き続けているため、さすがに疲労が蓄積されている。夜通し働き眠い体を引きずってそのまま市場で働いて、夕方の僅かな時間に眠りにつく。
売れ残りの野菜をもらっているのでなんとか食べ物には困らなかったが、絶対的に休養が足りていなかった。
酒場での仕事を休んだミミリーは、朝になって市場に行こうと着替えをしてから家を出る。
フラフラしながら市場に行くと、朝から真夏の直射日光が容赦なく石畳を照らしていて、暑い。
「おはようございます……」
「おはよう。……おぉ? ミミリー、顔色悪いが大丈夫か。真っ青だぞ」
「はい……大丈夫です……」
答えながらもミミリーは、視界がどんどんと悪くなっていくのを感じた。
赤と黒の点々が目の前を染め上げていき、野菜売りの主人の言葉が遠くに聞こえる。
でも、ミミリーはここで倒れるわけにはいかなかった。
お金。お金を稼がないと。
病気で入院している弟、ミミリーの唯一の家族のためにも、ここでアタシががんばらないと。
気持ちとは裏腹にミミリーの体は全くいうことを聞いてくれず、足が体重を支えきれずにぐらりと傾いた。
「おい、ミミリー、おい!」
野菜売りの主人の焦った声を最後に、ミミリーの意識がぷっつりと途切れた。
次にミミリーが目を覚ました時、見知らぬ場所の天井を見上げていた。
清潔でふかふかなベッドの上に横たわったまま、どうしたんだっけ、どうしてこんなところにいるんだっけと考える。
「目が覚めましたか?」
声をかけられたので視線を移動させれば、亜麻色の髪をまとめて瑠璃色の瞳を持つ看護師がミミリーの顔を覗き込んでいる。
「あの……ここはどこ?」
「王立第二病院です」
「病院?」
「倒れて頭から血を流しながら運ばれてきたんですよ。覚えています?」
首を横に振ると、自分とそう年が変わらなさそうな看護師は優しげな表情を浮かべてからベッド脇に食事を置いた。
「お食事、できそうですか?」
頷いたミミリーは頷いて起き上がった。起き上がった拍子にずきりと頭が痛み、手を当ててみると包帯に触れる。
「はい、どうぞ」
器を手渡されたので受け取り、おずおずとスプーンですくって口に運んでみる。
種々の野菜が刻まれ、ベーコンと共にトマトスープ仕立てになっているそれは、ミミリーの空腹で痛んだ胃にじんわりと優しく染み渡った。
「…………!」
「食べたら、薬湯をお飲みくださいね。ちょっと苦いんですけど、頑張ってください」
こちらを不安にさせないよう、端々に思いやりを感じる口調と動作で看護師が甲斐甲斐しくミミリーの世話をしてくれた。
「あの、アタシの弟がこの病院に入院しているの。ルーイって名前なんだけど」
「ルーイ君なら、つきあたりの廊下を右に曲がった病室にいますよ」
「会いに行ってもいい?」
「ミミリーさんもまだ意識が戻ったばかりなので、医師の許可が出るまではお待ちください。この後診察に来ますので」
ミミリーは少し落胆する気持ちを抱えつつ、大人しく頷いた。
食事を終えると看護師がミミリーを横たえ、ベッドを整えた。
「では医師が来るまで、もう少し休んでいてくださいね」
にこりと微笑み、空いた食器を持って去って行く看護師。ミミリーはずきずき痛む頭で考え事をする。
(入院が長引くと、お金がかさむ……ただでさえ金欠なのに、仕事も休んでいるし、明日には退院しないと。あぁ、でも、手の込んだごはんとふかふかのベッド、気持ちいい。それにあの看護師さんの声と物腰、落ち着くわ)
自分の健康を顧みず働き詰めだったミミリーは、久々に肩の力を抜いた。
(ルーイの体はどうかしら。忙しくて面会に来れてなかったけど、大丈夫かしら)
「完食できたんだね、よかった」
「うん、お兄ちゃんありがとう」
ウィルジアは入院中の男の子、ルーイのベッドに近づくと、空っぽになった食器を見てそう声をかけた。
既に医師も看護師も戻ってきているのでウィルジアが病院を手伝う必要はないのだが、そのまま残っている。院長を捕縛する現場には居合わせたいし、ならばこのまま変装して働いていた方がいいだろう。とはいえ本職の医師でも看護師でもないウィルジアにできることなんて、本当に雑用に過ぎないのだが。
「ねえ、お兄ちゃんはお医者様?」
「違うよ、僕はただの手伝い」
「へぇ。お医者様って、すごいよね。ボク、体がとっても楽になったんだ。これならもうすぐ退院できるって、昨日言われて。早く退院してお姉ちゃんに会いたい」
「お姉さんがいるんだ」
「うん。ボクの家はお姉ちゃんと二人暮らしなんだよ。ボクの入院費を稼ぐために、お姉ちゃんがずっと働いてくれているから、今度はボクががんばって働いてお姉ちゃんを楽にしてあげないと。……本当はボクもお医者様になりたいんだけど、貧乏だから無理かなって」
そう言ってルーイは諦めたような表情を浮かべる。おおよそ十歳には似つかわしくないその顔に、ウィルジアの胸が苛まれた。
「良かったら、入院している間、僕が読み書きを教えようか」
「えっ、いいの?」
「うん。そのくらいなら出来るから。ただ、疲れる前にやめるからね。ルーイ君はまだ本調子じゃないんだし」
「うん、わかった」
ルーイはキラキラした眼差しでウィルジアを見上げてきた。
ウィルジアは真正面からその眼差しを受け止めつつ、考える。
医師になるには金がかかる。
専門的な知識が必要になるため家庭教師を雇って勉強しなければならず、平民にはハードルが高すぎるだろう。実際、医師になっている者の大多数が代々医師の家系の者、爵位を継がない貴族家の次男以下、あるいは裕福なごく一部の者たちだ。
今ここでウィルジアが文字を教えてあげたとして、それが継続しなければ何の意味もないのだ。
(せめて全体の識字率をもう少し上げたいな……それに、王立図書館を平民にも開放すれば、知識を独学でも吸収できるだろうし)
未来ある少年に、諦観の念を抱かせないように。
もっと自分の将来に夢を抱けるように。
(そのために僕ができることって何だろう)
ウィルジアは、ベッドに座る少年を見つめつつ、そんな風に思ったのだった。