蛇足──後日談など──
頂城下の騒動から約二年が経過した。
城主阿龍は領地の支配をより盤石なものとし、隣国とも友好関係を保っていた。
そんな折、頂城に圷城より使者が訪れた。かつて阿龍に小姓として仕えた吾狼の妹で、名は伍羽。
謁見の間に通された伍羽は居並ぶ家臣団に萎縮したのか、ずっと顔を伏せている。
面を挙げよと阿龍に言われても、恐れ多い、と目の前の畳の縁を見つめている。
やれやれ、とでも言うように苦笑を浮かべてみせると、阿龍はおもむろに問うた。
「時に吾狼は息災か? 随分と世話になったものだ。あれから文の一つも寄越さぬので心配していたのだが」
その言葉に、伍羽の身体が一瞬強張る。
そして更に深く頭を垂れながら、消え入りそうな声で答えた。
「……そのことにございますが……兄は身罷りましてございます……」
辺りは水を打ったかのように静まり返る。
特に筆頭小姓の紫雲は驚愕の表情を浮かべていた。
「死んだ……だと? 」
それは阿龍も同じである。
しばし言葉もなく阿龍は伍羽を見つめていたが、ややあってようやくそう吐き出した。
「はい、流行り病で呆気なく……。つきましては、弟の陸浪を嫡男として認めていただきたく……」
「……そうであったか。辛かったであろう。その件はすぐに裁可の文書を出そう」
「……ありがたきお言葉……恐悦にございます……」
相変わらず伍羽は顔を上げようとしない。頭を垂れたままか弱い声で言った。
上座の双樹はそんな伍羽と阿龍を代わる代わる見やっていたが、ふと何かを思いついたように口を開いた。
「そうだ、殿。こちらでも位牌を作り吾狼を供養するのはどうだろう。それだけのことを、あいつはしてくれただろう? 」
その場にいる一同にも、異論はなさそうである。
阿龍は信矢に紙と筆を持って来させると、改めて伍羽に向き直る。
「待たせたな、伍羽。吾狼の戒名を教えてはくれぬか? 」
しばし伍羽は畳に手をつき目を伏せていたが、ややあってか細い声で途切れ途切れに答える。
「純心院……悟賢……秀麗……童子……にございます……」
それを紙に書きつけていた阿龍の手が、不意に止まる。
そして伍羽の黒髪をまじまじと見つめた。
「待て、童子だと?」
驚くのも無理はない。伍羽が口にした戒名は、おおよそ吾狼の年齢にはふさわしくないものだったからである。
阿龍の言葉に、より小さくなる伍羽。
が、ややあって彼女は意を決したように顔を上げた。
その顔を見て、阿龍は思わず息を飲む。
弥生の処刑前夜、土蔵の前で助けた侍女、その人だったからである。
「伍羽、そなた、あの時の? 」
「その通りでございます。兄は数え四つの歳に……。今まで謀りましたことを、切にお詫び申し上げます」
「待て。それは良いとして、ではこの頂にいたあの吾狼は何者ぞ? 」
その時、ようやく双樹が何かに気付いたようにぽんと手を打った。
「……やはり、そうか。だから青鹿毛は吾狼に懐いたんだな」
納得したようにつぶやくと、双樹は立ち上がり僅かに片足を引きずりながら伍羽に近付く。
そして、傍らにひざまずいて彼女の肩をぽんぽんと叩いた。そしておもむろに阿龍に向き直る。
「殿、まだわからんのか? 俺らが知る吾狼は、ここにいるではないか」
どよめきが謁見の間を支配する。
一方阿龍は唖然とした表情で伍羽の顔を見つめている。
「待て、双樹。確かにこの伍羽とはまみえたことはあるが、どうして吾狼が……」
要領を得ない阿龍に、双樹はやれやれとでも言うように苦笑を浮かべている。
「つまりあの夜、俺は吾狼に頼んだのさ。弥生様につなぎをつけてくれと。ただ、そのなりでは警戒されるから……」
「……侍女に化けろ、と?」
そんな双樹と阿龍のやり取りが続く間にも、伍羽の顔はみるみる赤く染まっていく。
遂には、泣きながら両の手で顔を覆ってしまった。
「後生にございます……それ以上私の恥を口になさらないでくださいませ……」
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「そこまで言われてようやく? 兄様らしいといえばらしいけれど……」
泣きはらした顔で部屋に戻ってきた伍羽を迎えたのは、側仕え兼護衛で同行していた弥生である。
事の次第を伍羽から聞き、苦笑になりきらない複雑な表情を浮かべた。
「いいえ……双樹様が説明されても未だ納得されなかったようでもあり……。だんだん恥ずかしくなって、私……」
兄君を困らせてしまって申し訳がない、そう言い再び涙をこぼす伍羽。
対する弥生は済まなそうに目を伏せた。
「謝るのはこちらの方。殿方は本当に心の機微に疎くて困る」
そう言うと伍羽の正面に座り、すっかり崩れてしまった化粧を直し始める。
それが終わると、今度は後ろへ周り乱れた髪を整えた。
「弥生様……」
「呼び捨ててくださって構わないと申し上げているでしょう? さあ、これで晩餐に出ても大丈夫」
けれど伍羽は浮かない顔で首を左右に振る。
「……でしょうね。これ以上好奇の目に晒されるのはお嫌でしょう」
力なくこっくりとうなずく伍羽に、弥生は優しく微笑みかけた。
「わかりました。では聡一に言って、体調が優れないと……」
「その必要はない」
突然、外側から声がした。
同時に音もなく襖が開く。
現れたのは他でもなく、阿龍その人だった。
「お館様……」
「……兄様」
慌てて伍羽と弥生はその場に控える。
阿龍は後ろ手で襖を閉めると、どっかりと胡座をかいた。
「先程はご無礼仕り、申し訳……」
伍羽の謝罪の言葉を手を上げて遮ると、阿龍は決まり悪そうに視線をそらしながら切り出した。
「詫びを言わねばならぬのはこちらの方だ。……その、そなたは決死の思いで頂に来ていたのだろう。それをあのように……あいすまなかった」
思いもかけない言葉に伍羽は目を丸くし、背後に控える弥生に視線を送る。
弥生の顔には呆れたような表情が浮かんでいた。
「……兄様は昔から全然変わっていない。お陰で苦労するのはいつも周りなのだから」
さぞや『吾狼殿』にも迷惑をかけたのでしょう、と弥生は容赦がない。
そんな弥生と面目なさげに頭をかく阿龍とを交互に見やり、伍羽はようやく微笑みを浮かべる。
「私のことでしたら、お気になさらないでくださいませ。皆様を謀りました事実は変わりませぬゆえ……」
「いや、本当にすまなかった。だが……」
そう言うと、阿龍はまじまじと伍羽を見つめる。
何事かと小首を傾げる伍羽に、阿龍は真摯な表情で尋ねた。
「何故、女子のそなたが兄君の身代わりとなったのだ? 兄君が亡くなったのなら事実を告げれば良いものを」
「……実は、その時まだ、弟は生まれておりませんでした。事実を告げればお家断絶になると危惧した父は、私を男として……」
すでにその時、嫡男が然るべき年齢に達した折には頂へ人質として差し出す、との盟約が結ばれていたので仕方がないことだった、と顔を伏せる伍羽。
「……確かに、父様であればやりかねないな。厳しいお方だったから」
弥生の言葉に、阿龍ももっともだとうなずく。
そして、改めて伍羽に向き直った。
「伍羽殿、愚父に代わってお詫び申し上げる。この通り……」
けれど、伍羽は目を伏せ首を左右にゆらした。
「いいえ、お陰で私は、皆様にお会いすることができました。今は感謝の気持ちすら抱いております」
「そうか、そう言っていただけるとありがたい」
心底ほっとしたような表情の阿龍に、だが、弥生が釘をさす。
「……兄様、伍羽様の優しさに甘えてはなりませぬ。先程のなさりように、どれだけ傷付いておられたか……」
そんな両者のやり取りに、伍羽はさも面白くて仕方がない、とでも言うように微笑む。
安堵の息をつく阿龍に、弥生は改まって頭を垂れた。
「伍羽様は長旅でお疲れのご様子。夕の宴はご辞退させていただきたく……」
その言葉にうなずくと、阿龍は実は、と切り出した。
「その……嫌でなければで良いのだが、俺の部屋で三人で夕餉の卓を囲まないか? 」
いささか歯切れの悪い阿龍の物言いに、再び伍羽は首を傾げる。
が、何かに気が付いたとおぼしき弥生は笑みをかみ殺しながら言った。
「さしずめ双樹の差し金でしょう。兄様がそんな気の利いたことなど、考えるはずもない」
図星だったのだろう。
阿龍は所在なげに視線を彷徨わせる。
まあ、とでも言うように口元を抑える伍羽に笑いかけて見せてから、弥生はさらに提案する。
「どうせなら、双樹も同席させたらいかがです? 」
もっとも彼のことだから、誰かがそういうところまで織り込み済みでしょうが。
そう言って弥生はこらえられなくなり笑い出す。
「しかし良いのか? 双樹は……」
「ええ、私も引っかかっておりました。ろくに謝罪も謝礼もできぬまま頂を発たったこと、気になっていましたゆえ」
そう澄ました顔で言う弥生と、ばつが悪そうな阿龍。
遂には姫君らしからぬ声を上げて伍羽は笑い出す。
驚いたような阿龍の視線を受けて、彼女は恥ずかしそうに頭を下げた。
「失礼いたしました……。未だ吾狼であった頃の癖がぬけなくて……」
弥生様に作法を教わっているのですが、なかなか身に付きません。
赤面する伍羽に、阿龍はなだめるように言った。
「いや、我らも気が付かなかったくらいに板についていたのだから仕方あるまい。それにしても弥生に所作など教えられるのか?」
「失礼な。私でも人並に猫を被ることぐらいできまする」
一瞬の沈黙。互いに顔を見合わせると、誰からともなく楽しげに笑い始める。
それがあらかた収まると、阿龍は膝を打ってから満足気に立ち上がる。
「では異論はないな? 楽しみに待っているぞ」
「かしこまりましてございます」
「しかと、たまわりました」
それぞれに返答する伍羽と弥生に視線を送ってから、阿龍は部屋を出ていった。
その日、四名は夕餉を共にし、夜が更けるまで思い出話に花を咲かせたと言う……。