其の陸──小姓、一世一代の大勝負に打って出る──
あれから四日が経過した。
吾狼は極力平静を保つため、特に用事がない時以外は双樹の看護に専念し、その居室を出ないよう努めていた。
元来馬鹿がつくほどの正直者であることを自覚していたので、ひょんな事からあの話が第三者に悟られるのを避ける為である。
そして、高札が立ってからは阿龍とも顔を合わせる機会が無いことにも内心安堵していた。
今の自分はいらぬ進言をして不興を買うであろう自信があったからである。
そんな昼下がり。
双樹が食べ終えた食器を御膳所に戻しに行く途中の事である。
誰かと出くわさぬうちに一刻も早く用事を済まさねば、と小走りになる吾狼を呼び止める者があった。
「吾狼ではないか、随分と会っていないような気がするな。あれから双樹の具合はどうだ?」
驚きのあまり飛び上がりかけた吾狼は、息を整えてからゆっくりと身体ごと振り向く。
そこで静かな笑みを浮かべていたのは、他でもない。
頂に於いて双樹と双璧をなす忠臣だった。
「朧様……」
あれ以来阿龍の実務の補助を一手に引き受けていることもあり、その顔にはやや疲労の色が浮かんでいる。
けれど、その穏やかな面差しは以前と変わることはない。
朧は吾狼が手にしていた空の器の数々を見るなり、安堵の息をついた。
「ふむ、その食べっぷりを見る限り、順調に回復しているようだな」
けれど、その言葉を受けた吾狼は、正反対にその顔を伏せた。
そして、ややためらった後小さな声で告げる。
「はい……ですがまだお一人でお立ちになることは……」
典医から戦場には出られないかもしれないと指摘されていた脚の傷が、やはり他の傷に比べ治りが遅い。
用を足しに行く時なども吾狼の肩を借りねば歩けない、未だそんな状態だった。
重苦しい沈黙が、両者の間に流れる。
それを打ち破ったのは、思いもかけない人物だった。
「そのような所で立ち話をしていては、通るに邪魔であろうに。卑しき身分の物はまこと道理を知らぬな」
苛立ったような女性の声の主は他でもなく、侍女たちを引き連れた霜月尼であった。
最初吾狼はなぜ御膳所に近いこんな所にと思ったが、その疑問はすぐにとけた。
侍女の手には、豪華な食事の膳があったからだ。
恐らくこれは、謹慎を申し渡されている葉月の為の物だろう。
せめて自ら食事を届けようと言うことなのだろうか。
やはり霜月尼も人の親なのだな。
そんな思いに吾狼は捕らわれてどこかで安堵していたのだが、彼の心境などお構いなしに次の瞬間更なる怒声が降りかかる。
「早う退かぬか! 弥生に無礼を働いた小姓の顔も、大殿の御恩を仇で返した家老の顔も見とうはない! 」
そう言う霜月尼の顔は、正に鬼神の如き様相だった。
そこまで言われては立つ瀬が無い。
吾狼と朧は慌てて道を譲る。
と霜月尼達は、ふい、とそっぽを向きながら足早に去っていく。
その姿が完全に見えなくなってから、吾狼は朧に深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。自分が至らぬせいで、朧様まであのような言われようを……」
「気にするな。一介の農民だった儂をここまで取り立てて下さったのは大殿……臥龍様であることは間違いないのだから」
そう言う朧の顔に、言い難い表情が一瞬浮かんで消えた。
恩人である臥龍を阿龍と共に追放したその心中をはかりかねて、吾狼はしばし沈黙する。
「それよりも良いのか? あまり時間がかかっては、双樹が心配するのではないか? 」
そう言えばそうだった。
自分は双樹の食器を下げに来たのだ。こうしている間に、何者かが双樹の生命を狙って侵入しているかもしれない。
だとしたら……。
吾狼は自らの想像に思わず身震いする。
そして再び朧に向かい頭を下げた。
「申し訳ございませんでした。お館様には、いつもお心遣いを感謝しております、とお伝えいただければ幸いです」
「しかと承知した。あまり根を詰めすぎるなよ」
ありがとうございます、と謝意を告げると、吾狼は当初の目的地である御膳所へと急いだ。
✳
「随分と時間がかかったじゃないか。何かあったのか? 」
吾狼を迎える双樹は布団の上で胡座をかき、あくびをかみ殺していた。
春の眠りは夜明けを知らない、とはよく言ったものだな。
昨日吾狼が諳んじていた古の詩の文言を口にして双樹は伸びをするのだが、すぐに傷の痛みに耐え兼ねて顔をしかめる。
この姿を見て、よもやこの人が頂情報網の要を担う人物と思う者は、まず存在しないだろう。
吾狼は苦笑を隠しつつ後ろを振り返ると、後をつけられてはいないかを確かめる。
周囲に誰もいない事を確認してから膝立ちになり、静かに襖を閉める。
そして振り返るなり事の次第を双樹に告げた。
「実は、朧様と霜月尼様にお会いしました。会話を交わしたのは朧様だけですが」
「まあ、この状況下で霜月尼殿と意思の疎通は、まずできないだろうな」
実の子どもが二人ともあんな状況なのだから、普通なら錯乱しててもおかしくはない。
そううそぶく双樹に、吾狼は神妙な表情でうなずいて見せた。
それを意に介すことなく、双樹は尋ねる。
「それで、朧殿だが……」
「朧様は、双樹様が順調に回復していることを喜んでおられました。ただ、少しお疲れのご様子でしたが」
「そういえば、お二人にはどの辺りで会ったんだ? 」
「御膳所に通じる廊下の一番最初の曲がり角ですが……」
そうか、とつぶやくと、双樹はあごに手を当てしばし何かを考え込んでいるようだった。
吾狼はその邪魔をしないよう音を立てずに立ち上がると、水差から柄杓で水を汲み火鉢の上の鉄瓶へ注ぐ。
やがて立ち上る白い湯気を見つめながら、吾狼は複雑な思いに捕われていた。
あの暗く火の気の無い土蔵の中で、弥生……宮はどんな思いでいるのだろうか、と。
「……弥生様が心配か? 」
不意に図星をつかれて、吾狼は驚いて双樹を省みる。
否定しても仕方がないので、不承不承うなずいた。その様子に双樹は深く息をつく。
「悪いな。俺がこんな状態じゃなければ、もっと早く方が付くんだが」
「いいえ、滅相もない。自分一人では何もできませんし……。ご尽力頂いて、感謝しています」
言い終えて、吾狼はうつむき目を伏せる。
「吾狼、これだけは言っておくがな、弥生様……宮が捕えられたのはお前のせいじゃない。策を立てたのは俺で、実行したのは殿だ。お前は命令にしたがっただけだ」
またしても心の内を言い当てられて、吾狼はまじまじと双樹を見つめる。
一体何故、とでも言うような視線を受け止めて、双樹は唇の端をわずかに上げてみせた。
「さっきから顔を見ていれば、それくらいわかるさ。正直なのは美点だが、将来の城主としてはどうだかな」
事実なので、返す言葉もない。
心底落ち込んだ様子で吾狼はがっくりと肩を落とす。
「国もとの父からもよく言われていました。自分でも自覚はしています。これでは人の上には立てないと」
いっそのこと圷が頂の属国になってしまった方が、領民も家臣も幸せなのではないかと思う。
泣き出しそうな声でそう言う吾狼。
しばらくの沈黙の後、双樹はおもむろに口を開いた。
「まあ、確かに上に立つ者は時に相手を騙したりしなけりゃならない時もあるが、それだけが全てではない。そう俺は思う」
「双樹様……? 」
思いもよらない言葉に、吾狼ははっとして顔を上げる。
一方双樹の顔からは、いつしか斜に構えた笑みは消えていた。
いつになく真摯な表情で、双樹はさらに続ける。
「大切なのは、いかに他者の信頼を得、人心をまとめるか、だ。先の戦で、殿はそれを身につけられた」
そう、先代の臥龍を追放した直後、頂は崩壊の危機にあった。
その隙をついて攻めてきた峠が、皮肉にも阿龍のもとに頂を一致団結させる結果になったのは周知のことである。
「殿は相当の決意を持って家臣に呼びかけ、結果皆は応えた。ひとえに殿のお人柄のなせる技だ。そして吾狼、俺はお前も満更でもないと思っている」
「……自分が、ですか? 」
信じられない。
思いもかけない言葉に唖然とする吾狼に、双樹は力強くうなずいて見せた。
「ああ、正直さはさっきも言ったが、またとない美点だ。騙し騙されでは、誰もついては来ないし、他者の信頼も得られない」
そのいい例が峠だ。
頂から思いがけない反撃を食らった峠の軍勢は、主である飛燕を守ることすらせずに霧散してしまったのだから。
「殿はお前も知っての通り、曲がった事が嫌いなお方だ」
だから殿の苦手な権謀術策の分野は俺が一気に担おう、あの時そう決めたのさ。
そう言って双樹は笑う。
思いがけず阿龍と双樹の絆の強さを耳にして、吾狼は嘆息を漏らす。
そんな吾狼に、双樹はいつもとは異なる穏やかな微笑を浮かべる。
「なあ吾狼、人の上に立つ方法は一つじゃない。お前にはまだ時間がある。それまでにゆっくりと自分の方法を探せばいいんじゃないか? 」
その言葉に吾狼はしばし双樹を見つめていたが、ややあって畳に両手を付き深く頭を下げる。
「此度の教え、確かに賜りました。なんとお礼を申し上げたらいいか」
「そうか……ならば一つ、頼まれてくれないか? 」
突然のことに、慌てて吾狼は顔を上げる。既に双樹の顔から微笑は消えていた。
「もう一度弥生様とお会いして、書状を渡してほしい」
おや、と吾狼は思った。
常日頃証拠を残さぬ為口頭で部下とやり取りを交わしている双樹が何故。
「こればかりはお前にも知られる訳にはいかないんでな。弥生様だけにお知らせしたいんだ」
「仔細はわかりました。ですがどうやって? おそらく自分では警戒されると思いますし……」
「それなら安心しろ。俺に良い考えがある」
✳
それから三日が過ぎた。
残念ながら、双樹の元に色良い報告が上がっている気配はない。
けれど宮の処刑はいよいよ翌日の正午に迫っていた。
表面上は平静を保とうとしていたが、吾狼は気が気ではなかった。
水を汲むとき二度ほどこぼして衣を濡らし、御膳所へ食器を戻しに行く時も朝夕で合計五度はつまづきそれをとり落としそうになった。
こんな調子で、役目が果たせるのだろうか。
湧き上がってきた不安を、吾狼は無理矢理に頭から振り下ろす。
全ては自分にかかっているのだ。
そう自らを奮い立たせていた。
そして、ついに日は暮れた。
吾狼が宮とつなぎをつけるため、再び土蔵に向かう頃合いだ。
「では、そろそろ行って参ります」
正直、吾狼は気が進まなかった。
密命の為とはいえ、また自分の顔が幼く頼りなく見え、かつ声変わりもしていないからとはいえ、何故侍女に化けなければならないのか。
未だ釈然としなかった。
用意された変装用の衣と髢を前にして、吾狼は不満げな表情を隠すため双樹に一礼する。
しかしふとある疑問が頭をもたげた。
自分のいない間はどのようにその場を取り繕うのだろうか、と。
「心配いらない。俺の配下でお前と似たやつが……来たようだ」
振り向くと、いつも間にやらそこには吾狼と同じくらいの年格好の少年が控えている。
薄暗がりの中、口をきかなければまず吾狼の不在が外に知れることはないだろう。
「書状はこれだ。じゃあ、頼んだぞ」
今日一日多くを語らなかった双樹の言葉が重い。
吾狼はただうなずくと、着替えるために部屋を後にした。
廊下に出た吾狼の耳に、双樹の笑う声が聞こえてきたのは言うまでもない……。
✳
提灯を手にした武人と食事の膳を手にした侍女が、暗い中土蔵へ向かい歩いていた。
見張り役は両者の姿を認めるやいなや、互いの槍を交差させ侵入を阻もうとする。
が、武人は一礼すると胸元から割符を取り出し、見張り役に手渡す。
「霜月尼様からのお心使いにございます。何卒……」
見張りは自らの持つ割符がそれとぴったり一致することを確認すると、うなずき閂を外しにかかる。
あの時と同様軋んだ音と共に扉が開かれる。
侍女が一礼し中に入ろうとした時、見張りが不意に彼女を呼び止めた。
「待て。やましい物を持ち込もうとはしていないであろうな? 改める」
にじり寄る見張りに怯えるように、侍女は僅かに震えながら後ずさる。
慌てて武人が声を上げる。
「無礼な! よもや霜月尼様を疑う所存か? 」
「お待ちください……。おっしゃることはごもっともにございます……どうか、お改めくださいませ……」
か細い声で侍女が言う。
そして震える手で手にしていた膳を差し出す。
思いもよらないその反応に、武人と見張り達は顔を見合わせる。
が、ややあって話を切り出した見張りは決まり悪そうに咳払いをする。
「い、いや、その言葉で充分だ。……中に入るのはその女一人。刻限は一刻。その間お前は……」
こちらで控えていおります、と武人はうやうやしく頭を下げた。
そんな武人と見張りに謝意を示してから、侍女……吾狼は膳を抱えるように持ち、土蔵の中に足を踏み入れた。
背後で重い音を立てて扉が閉まる。
以前とは異なり、中には行灯が置かれていた。
宮……弥生は拘束はされておらず、白装束をまとい行灯の光の中に座っていた。
その視線の先には、白木の鞘に収まった短刀が置かれている。
「弥生様……! 」
驚いて吾狼は叫び、手にしていた膳を取り落としそうになる。
声に気付いた弥生はこちらに顔を向け、寂しげに微笑んだ。
「これが兄からの心遣い……罪人として裁かれる前に、自らの名誉を保て、と言うわけだ。それにしても……」
ひと度言葉を切り、弥生は身体ごとこちらを向く。
まじまじと見つめられて、吾狼は反射的に顔を伏せた。
「そなた、見ない顔の侍女だな。私が嫁いでから母に仕えたのか? 名は何という? 」
「は……はい。吾狼様のつてで圷から参りました。伍羽と申します」
顔を伏せたまま伍羽こと吾狼は静々と歩み寄り、手にしていた膳を弥生の前へと置いた。
趣向の凝らされた料理の数々を目にした弥生は、今度は皮肉な笑みを浮かべる。
「死出の旅に備えて、精をつけろと言うわけか。母らしいなさりようだ」
どうやら弥生と霜月尼の関係は、さほど良好というわけではないらしい。
言葉の端々からそれを感じ取った吾狼はであったが、ふとあることを思い立つ。
「あ、あの、弥生様、こちらを預かって参りました」
こちらが本題である。
忘れるわけには行かない。
言いながら吾狼は、帯の内側から紙縒状になった書状を取り出し、弥生に差し出す。
対して弥生は怪訝な表情でしばし見つめていたが、やがてそれを受け取り注意深く開く。
文字を追うに連れ、その表情は嫌悪から驚きに代わり、最後には何故か柔らかな笑みを浮かべるに至った。
一体何が書いてあるのだろうか。
ふと興味を持ち、吾狼は身を乗り出してその内容を見ようとする。
けれど、それに気付いた弥生はすぐに書状を折りたたむと、行灯の炎にかざす。
あっという間に燃え尽きていくそれを見つめる吾狼の耳に、笑いを含んだ弥生の声が聞こえてきた。
「使いの者も含めて、誰にも見せるなとの双樹からの言伝だ」
悪く思うな、と言われても、やはり吾狼は納得できなかった。
こんな醜態を晒し危険を侵しているにも関わらず、自分だけが除け者にされているような気がしてならない。
「すまない。戻ったら、しかと承知とだけ双樹に伝えてはくれないか? 」
かしこまりました、と吾狼は畳に手を揃えて付き、たおやかに頭を下げる。
その様子を弥生は何故か笑いをかみ殺しながら見つめていたが、ややあってその視線は鋭さを増す。
「……弥生様? 」
異変に気付いた吾狼は慌てて顔を上げる。
と、背後で扉の開く音がした。
まだ刻限まで時間はあるのに、何故?
その答えはすぐに明らかになった。
入ってきたのは、紛れもなく入口を守っていた二人の見張りである。
けれど先程とは異なり、口元には下卑た笑みを浮かべていた。
開け放たれた扉の向こうには、吾狼を先導して来た武人が倒れている。
動物としての本能が、人としての理性を超えたのだ……。
状況を理解した吾狼は、弥生を護るべくその前に立ちはだかろうとする。
が、慣れぬ侍女の装束では思い通りには動けない。
吾狼がもたつく間に、弥生は畳に置かれていた短剣を手に取ると、すらりとそれを抜き放ち無駄のない所作で構えた。
「よろしいんですか? ここで我々を傷付ければ、打首に加えて梟首が加わりますよ」
しかし、弥生は剣を下ろすことはない。
鋭く侵入者を睨みつけながらその間合いを詰めていく。
そして吾狼に並びかかった時、その耳元でささやいた。
「伍羽よ、私が時間を稼ぐ間、そなたは逃げろ」
「そんな……」
「酷い仕打ちを受けるのは、私一人で充分だ。さあ」
確かに弥生を一人ここに残せば、どんな目に遭わされるのかは想像に固くない。
けれど……。
不意に吾狼は首元に冷たい感触を覚えた。
それはお守り代わりに持ち歩いている、初めて宮と対峙したとき助けを呼んだあの呼子笛だった。
一か八かだ。
吾狼はそれを唇に当てると、力一杯吹き鳴らした。
甲高い音が土蔵の中で反響し、けたたましく響き渡る。
刹那、何が起きたのかわからず、咄嗟に見張りたちは目を閉じ耳を塞ぎ膝を折る。
次の瞬間、吾狼は強く背を押され、土蔵の外へ転がり出た。
押したのは他でもない、弥生である。
振り返ると、弥生は早く行けとでも言うように手を振っている。
我に返った見張りの一人が立ち上がり、こちらへ向かってくるのも見える。
あわてて吾狼は立ち上がろうとするが、長い裾を踏みつけてよろめき、再び倒れそうになる。
背後から見張りの手が伸びてくる。
万事休す。その時だった。
「一体何事だ」
闇の中から、声がした。
静かだが、威厳のあるこの声の持ち主は言うまでもなく……。
「お、お館……様……」
先程の勢いはどこへやら、見張りはすぐさま地面にひれ伏す。
視線を移すと、阿龍に付き従っていた紫雲と信矢が土蔵の中から見張りを引っ張り出しているところだった。
阿龍は怒りを孕んだ瞳で彼らを一瞥するやいなや、低い声で告げた。
「追って沙汰するまで謹慎を命じる。異論はないな」
「は……ははぁ! 」
引っ立てられていく人影を見送って、阿龍はようやく吾狼に視線を向ける。あわてて吾狼はその場に手を付く。
「……そなたは……霜月尼殿付きの侍女か? 名は? 」
「はい……伍羽と申します」
震える声で答える吾狼。
気が付けば阿龍は膝を付き、彼と視線を合わせようとしていた。
顔を見られてはまずい。
吾狼は内心冷や汗をかきながら、更に深々と頭を下げる。
その様子を見、阿龍は僅かに微笑を浮かべた。
「伍羽とやら、そなたには礼を言わねばならぬと同時に、詫びねばならんな」
「と……とんでもございません。危ういところを救って頂けただけで、もう充分にございます」
「そのように申すな。それでは俺の立つ瀬がない」
ならば。
吾狼は覚悟を決めた。
頭を垂れたまま震える声で切り出した。
「で、では……自らを賭して私を助けようとしてくださった弥生様に、寛大な御慈悲を……」
しかし言ってしまってから、すぐに吾狼は後悔した。
一介の侍女が一国の政に口出しするなど、あまりにも不自然かつ無礼だ。
最悪この場で首が飛ぶ。
固く目を閉じ、阿龍の言葉を待つ。
見張りを引き渡して戻ってきた紫雲と信矢が息を飲む音が聞こえた。
けれど返ってきたのは、独白にも似た寂しげな言葉だった。
「俺が一国一城の主でなければ可能なのだが、それも叶わぬ。解るか、伍羽? この世には道理が通らぬこともあるのだ」
はっとして吾狼は顔を上げる。
阿龍はすでに立ち上がり、吾狼に背を向けていたが、肩越しに低い声でつぶやいた。
「情けないものよ。城主でありながら実の妹一人助けられぬとはな」
そして、僅かに笑みを浮かべて吾狼に告げた。
「伍羽よ、そなたの先の言動は不問とする。それで俺の礼と詫びに代えてくれ」
そして阿龍は紫雲と信矢を従えて城へと戻っていく。
その姿が闇の中に溶け、完全に見えなくなるまで、吾狼はその後ろ姿を見つめていた。