表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/8

其の伍──小姓、宿敵と対峙する──

 必要最低限の戦力しか残されていない頂城は、いつもと異なりしんと静まり返っている。

 ここ数日の厳冬の冷え込みもあいまって、城全体が凍りついたようでもあった。

 そんな月が雲に隠れた漆黒の中、城内をうごめく人影があった。

 まるで迷路のような間取りにも関わらず、それは迷うことなく『ある場所』を目指している。

 やがて目的の場所に到達した人影は、閉ざされた襖の前で足を止め、腰の刀をすらりと抜く。

 そして引手に手をかけ襖を開くと、するりと室内に入り素早く室内に視線を巡らせた。

 ほの明るい行灯の光に、白い布団が浮かび上がっている。

 侵入者は足音を立てずそれに歩み寄る。

 そして、掛布団の上から白刃の切っ先を数回突き立てた。

 しかし。

 侵入者はすぐさま刀を引き抜く。

 そして穴の空いた掛布団を跳ね上げた。

 

「──? 」

 

 布団の下にあったのは血まみれの死体……ではなく、丸められた肌掛けと枕である。

 と、その時だった。

 

「諦めて下さい。あなたの行動はお見通しです! 」

 

 不意に押入れが開け放たれる。

 そこには震える吾狼が丸棒を構えていた。

 行灯の光に、侵入者の姿がぼんやりと浮かび上がる。

 粗末な着物に背でまとめられた長い髪。

 そして顔全体を覆った鈍く光る面頬。

 その全身から発せられる殺気は尋常ではない。

 間違いなく宮だ。

 そう確信した吾狼は、思わず唾を飲み込んだ。

 

 まともにやり合えば、勝てる自信は無論これっぽっちも無い。

 ならば……。

 

 薄暗がりの中、宮は手にしていた刀を構え直すが早いか吾狼にむけて斬りかかってきた。

 吾狼は姿勢を低く保ったまま、丸棒の先端で宮の足を払う。

 予想外の攻撃だったのだろうか、咄嗟に後方へ飛ぶ宮だったが、僅かに体勢を崩す。

 その一瞬の隙を吾狼は見逃さなかった。

 首から下げた呼子笛を力一杯吹き鳴らす。

 高く乾いた音が、城内に響いた。

 短く舌打ちすると、宮は吾狼に背を向けて襖へ向かう。

 あと少しで引手に手が届く。 

 正にその時だった。

 

「そこまでだ! 観念しろ! 」

 

 突如として襖が外から開き、現れたのは甲冑を着込んだ軍団だった。

 その中央にいるのは他でもない、一際豪奢な甲冑を身にまとった総大将の阿龍である。

 そうこうするうちに、兵たちは宮を取り囲み、じりじりと包囲の輪を狭めていく。

 多勢に無勢。

 その状況が気の緩みを生じさせた。

 宮は勢い良く畳を蹴り、無言で兵に斬りかかる。

 その鬼神の如くの戦い様に、兵たちは怯んだように後ずさる。

 それを理解した宮は、僅かに手薄になった包囲網を突破しようとする。

 

「させるか! 」

 

 が、その前に阿龍が立ちふさがる。

 一つ、二つ、三つ。

 薄暗がりの中、刀がぶつかる音が響き、そして火花が散る。

 少し離れた所で固まっていた吾狼には、両者はほぼ互角に見えた。

 しかも、両者は互いに相手の太刀筋を読み切っているように見える。

 考えられる理由は一つ。

 両者は同じ人物から剣技を習得した、と言うことだ。

 しかし、だとすると宮と言う人物は一体何者なのか。

 その答えは、程なく明らかとなった。

 阿龍は刀を大上段に構え、一思いに振り下ろす。

 それは頭上に掲げられた宮の刀をへし折り、その面頬を捉える。

 瞬間ぱきん、と乾いた音が室内に響いた。

 ごとり、と真っ二つに割られた宮の面頬がその足元に落ちる。

 と、不意に雲が流れ、月が姿を現す。

 柔らかな月光の元、呆然と立ち尽くす宮の素顔に、一同は驚きのあまり等しく息を飲み、異口同音につぶやいた。

 

「……弥生様? 」

 

 そう、顔の右反面はどこか阿龍に似た面差しの美しい女性。

 しかし、左反面は二目と見られぬほど醜く焼けただれていたのである。

 

「──! 」

 

 言葉にならない絶叫を発しながら、宮……弥生は折れた刀を振り回す。

 その勢いに押され、兵たちは近寄ることができない。

 けれど、阿龍は臆することなく一歩前に出る。

 

「双樹を狙ったのは、正体が割れたからか? しかしなぜこのようなことを……」

 

 けれど、弥生は答えない。

 僅かに涙で光る目で阿龍を睨みつけていたが、突如として刀を喉元に突き立てようとした。

 

「やめよ、弥生! 」

 

 慌てて阿龍は手を伸ばす。

 が、それより先に吾狼が弥生の足元めがけて体当たりを食らわせていた。

 その衝撃に耐えかねて、ばたりと倒れ付す弥生。

 と、我に返った兵たちは倒れ伏した弥生を取り押さえにかかる。

 

「すみません……助けて下さい……」

 

 巻き添えを食らって兵達に押しつぶされた吾狼は、思わず情けない声を上げる。

 阿龍はそんな吾狼の傍らに歩み寄りひざまずくと、笑いながらその頭をなでた。

 

「良くやったぞ吾狼よ。此度の一番の功労者はお前だ」

 

 その言葉に、吾狼は誇らしく思った。

 だが、急速に視界が暗くなる。

 同時に自分を呼ぶ阿龍の声が、だんだん遠く小さくなっていく。

 そして……。

 

      ✳ 

 

「すっかり気を失っちまった、って言うわけか」

 

 事の顛末を聞いた双樹は、さも面白くてたまらないとでも言うように声を立てて笑っていたが、流石に傷に響いたのかすぐに顔をしかめる。

 一方の吾狼は心外、とでも言うかのように頬を膨らませてみせた。

 

「仕方ないでしょう。甲冑で身を固めた皆さんが、何十人も上にのしかかって来てたんですよ」

 

 本当に押し潰されて死ぬかと思いました、そう言いながら吾狼は双樹に白湯の入った湯呑みを差し出しだす。

 酒じゃないのか、とぼやきながらそれを受け取ると、双樹は一気に飲み干した。

 

「けれど宮……弥生様は何故……」

 

 あんなことをなさったのでしょうか、そう見つめてくる吾狼から、双樹はきまり悪そうに視線をそらした。

 それを意に介することなく、吾狼は更に続ける。

 

「あの時双樹様が吐き出された丸薬、御典医様の見立てではやはり毒物だったそうです。その咎で葉月様は居室にて謹慎を申し渡されています。」

 

 あのお優しそうな葉月様までどうして。

 そうつぶやいて、吾狼は目を伏せた。

 が、ずっと気にかかっていた疑問を口にする。

 

「それ以前に、どうして出立したはずのお館様達が戻っていらしたんでしょう? 双樹様は何かご存知ではありませんか? 」

 

 阿龍から、討伐軍が出陣した後毎夜双樹の部屋に詰め、万一宮が来たらそれを足止めしろという御命令を受けた時は、正直捨て石にされるのかと思った。

 憤慨したように言いながら空になった湯呑みに白湯を注ぐ吾狼に、双樹は片目をつぶって見せる。

 

「実は俺が殿に策を……」

 

 自分が根城から姿を消せば、宮……弥生様は必ず自分を殺しに来る。

 だから出陣したと見せかけて城に取って返すという、一か八かの一手を打った。

 そう悪びれずに言う双樹に、吾狼は思わず目を丸くする。

 方や双樹は、お前は本当にわかりやすいやつだな、とすました顔で二杯目の白湯を飲み干した。

 

「ですが、いつの間に? 」

 

「俺が意識を取り戻した後、お前、殿から御典医を呼ぶように言われただろう? 」

 

 確かに。

 看護役を仰せつかり双樹に張り付いていた吾狼が、そのそばを離れたのはあの時だけである。

 けれど、双樹は瀕死の重傷を負って直前まで意識を失っていたはず……。

 状況を反芻し、吾狼はようやくある事に思い当たった。

 

「もしかして、あれより前に気が付いておられたのですか? 自分に席を外させるために、わざと……? 」

 

 尊敬と呆れとが入り混じったような吾狼からの視線を受けながら、双樹は満更でもなさそうだった。

 

「一応俺は、麓城主にして頂の城下の忍びを束ねる者だぞ」

 

 そしてふと、その視線が鋭さを増す。

 

「なあ吾狼、正直俺は、殿以外の人間は信用していない。いつなん時誰が裏切るか、そればかりを注視していた。だからこそ今まで生きて来られた、そう思ってる」

 

 そこまで一息に言うと、双樹は空になった湯呑みを畳の上に置き、痛みに顔を歪めながら身体ごと吾狼に向き直った。

 何事かと姿勢を正す吾狼に、双樹はいつになく真摯な表情と口調で告げた。

 

「けれど、正直俺はお前のような真っ直ぐな生き方がうらやましい。お前から見れば、俺は腹黒く信用のおけない奴と映るんだろうな」

 

 突然の告白に思わず返す言葉を失う吾狼。

 が、ややあって微笑を浮かべると、目を伏せ首を左右に振った。

 

「双樹様は御役目に命懸けで臨まれる立派な方です。腹黒いだなんて、これっぽっちも思っていません」

 

 その言葉に、双樹は虚をつかれたように数度瞬く。

 が、おもむろに畳に手を着きその頭を下げた。

 

「吾狼、此度は作戦の一環とはいえ、謀ってすまぬ。圷から預かったお前の大切な生命を、無下に散らすところだった」

 

 果たしてこれは真意なのか、それとも……。

 けれど、そんな事はもうどちらでも良かった。

 取り敢えず誰一人犠牲者も出ず、こうして皆生きているのだから。

 ふと視線を落とすと、双樹は上目遣いにこちらの様子を伺っている。

 その姿が悪戯が露見して咎められている少年のように思えて、吾狼は思わずくすくすと笑った。

 

「お手をお上げください。むしろ自分のような未熟者でもお役に立てて、嬉しく思っています」

 

「そうか、それなら良かった。これで安心して静養できる」

 

 すっかりいつもの双樹である。

 安心した吾狼はふっと息を吐き出した。

 が、ふとある事を思い出した。

 

「あの、双樹様、実は……」

 

      ✳ 

 

 深夜、吾狼は燭台を手に中庭を歩いていた。

 目指すその先には、宮……弥生が幽閉されている土蔵がある。

 吾狼の姿を認めた二人の見張り役は、手にしていた槍を互いに交差させ行く手を阻む。

 予想通りである。

 吾狼は胸元から書状を取り出し、恭しく見張り役に差し出した。

 怪訝な表情を浮かべそれを受け取った見張り役は、内容をを一瞥するなり表情を改める。

 しばし話し合った後、すぐさま彼等は槍を収めると、(かんぬき)を抜き軋む扉を押し開いた。

 さすがは阿龍の右腕と目される双樹直筆の書状の威力は絶大だ。

 さもなければ、一介の小姓……否、人質の吾狼がこの上なく複雑な立場にある弥生に会えるはずがない。

 中についてこようとする見張り役に、吾狼は申し訳なさそうに告げる。

 

「そちらに書いてある通りです。しばらく弥生様……宮と二人きりで話をさせていただきたいのですが……」

 

「承知。が、そう長くは無理だ。一刻……いや、半刻。それが限度だが、どうだ? 」

 

 いかに双樹様のおとりなしとはいえ、あくまでも全権はお館様にある。

 そう言う見張り役に、吾狼はそれだけあれば充分です、と頷いた。

 ともかくこれで弥生に会える。

 会って直接話ができる。

 それだけで満足だった。

 背後で扉が閉まる。

 吾狼は三和土(たたき)で履物を脱ぐと、式台に足をかけ室内の様子を伺うため燭台をかざした。

 畳こそ敷かれているが、火の気は無く冷えきった八畳ほどの室内には無論窓もない。

 その部屋の片隅に後ろ手に縛られた宮……弥生が文字通り転がされていた。

 吾狼の持つ灯りに気が付いたのだろう。

 弥生は顔をこちらに向け、鋭く吾狼を睨みつける。その口には猿ぐつわが噛まされていた。

 余りの仕打ちに吾狼はしばし立ち尽くしていたが、やがて意を決して歩み寄る。

 傍らにひざまずいて燭台を置き、弥生を助け起こすと、噛まされていた猿ぐつわを外し、両手首の縛めを解く。

 無理矢理に縄を外そうとしたのだろうか、手首には血が滲んでいた。

 自由になった口から大きく息を吐き出すと、弥生は斜に構えた笑みを浮かべ、吾狼に向かい毒付いた。

 

「誰かと思えばあの時の……。お前、今私が舌を噛んで自害したら何とする? どう責任を取るつもりか? 」

 

「……あなたはそんな事はしない。違いますか? 」

 

 交錯する視線。

 先に根負けしたのは弥生の方だった。苦笑を浮かべると、目を伏せる。

 

「やれやれ、軟弱な見かけの割には、なかなかに肝が座っているな。私の負けだ。わざわざこんな所まで、一体何用だ? 」

 

 問いかけられて、吾狼は座り直す。

 (たもと)から包みを取り出し畳の上に置き、その結び目を解く。現れたのは、握り飯だった。

 

「囚われてから食事が出されていないと、御膳所で伺いました。差し出がましいとは思いましたが、少しでもお召し上がりください。お身体に障ります」

 

 もちろん中に怪しい物は何も入っていません、そう言いながら吾狼は握り飯を手に取り、真っ二つに割って見せる。

 その様子を弥生はまじまじと見つめていたが、さも面白くて仕方がないとでも言うように声を立てて笑い始めた。

 

「……弥生様? 」

 

「さしずめ、双樹の入れ知恵か。このようなもので私を籠絡できるとでも思ったか? 」

 

 存外軽く見られたものだな。

 そううそぶく弥生。

 対して吾狼は慌てて首を左右に振る。

 

「そんな……籠絡だなんて、とんでもありません。ただ、お身体が心配で……その……」

 

 肩を落とす吾狼。

 目に見えて落ち込んでいるその様子に、弥生は毒気を抜かれたかのようにため息をついた。

 

「やれやれ、お前、本当にあの時私に飛びかかってきた小童か? 情けない奴だな」

 

「あの時はただただ必死でした。今もそうです。こんなことをしたとお館様に知れれば、下手をすれば首が飛ぶでしょう」

 

 その言葉に、ようやく弥生は吾狼に向き直った。

 そして改めて視線を合わせる。

 その目は僅かに笑っているようでもあった。

 

「……ならばもう一度問うが、こんな所に危険を犯してまで来るとはこの私に一体何用だ? 」

 

 しばしの沈黙。

 やがて吾狼は意を決して口を開いた。

 

「では、恐れながらお尋ね申し上げます。何ゆえ弥生様はあのような……」

 

「決まっているだろう。奴が非道な行いをしたからだ」

 

 間髪をいれずに返ってきた言葉には、感情はまったく感じられない。

 揺らめく燭台の炎をみつめながら、弥生は独白のように続けた。

 

「父上を追放してその地位を簒奪し、あまつさえ私が嫁いだ峠城まで手中に収めようとするなど……」

 

 その言葉を聞き、吾狼は疑問に思った。

 確かに阿龍は実の父親を追放したが、それは野心からではない。

 それに、峠城と頂城の戦のきっかけを作ったのは、峠城主の飛燕だったはずである。

 どこかで話が食い違っている。

 それが立場の違いによるものなのか、それとも誰かが事実を捻じ曲げているのか定かではない。

 そんな吾狼の心中をよそに、弥生の独白は続く。

 

「奴に(ふみ)を出しても返事は一切来なかった。ただ姉様からの書状だけが、私の支えだった……」

 

 ますます訳がわからなくなってきた。

 けれど、これだけは明らかだ。

 このまま誤解し合ったままでは、この兄妹は不幸にしかならない。

 おもむろに吾狼は畳に両手をつく。

 そして弥生を真っ直ぐに見据えながら言った。

 

「どうか……どうか今一度、お館様とお話になって下さい。今のお話、自分が伝え聞いたものとはかけ離れすぎております。ですから……」

 

「奴は、聞く耳を持たぬ。私をここに押し込めたのが何よりの答えだ」

 

 取り付く島もない。

 けれど、吾狼は諦めなかった。

 

「それは……。今、城には、澤からの小姓もおります。おそらくは……」

 

「そいつの心境をおもんばかったと? 」

 

 そう言うと、弥生は唇の端の上げ、皮肉な笑みを浮かべてみせる。

 そしておもむろに、顔を覆い隠していた長い前髪をかき上げた。

 一度見たら忘れることができない、無残に焼けただれた顔の左反面が薄暗がりの中あらわになる。

 あまりのむごさに正視することができず視線をそらす吾狼。

 そんな吾狼の耳に、弥生の血を吐くような叫び声が飛び込んできた。

 

「奴が私にした仕打ちがこれだ。それだけではない。明日をもしれぬ生活を余儀なくされてる民の声を聞こうともせず、自分は城でのうのうと……」

 

 最早、兄でも妹でもない。

 私は頂の姫の弥生として生きるより、一揆の頭目の宮としての死を選ぶ。

 そう言い切りこちらを見つめる弥生……宮の顔には、吹っ切れたような清々しい表情が浮かんでいる。

 瞬間、吾狼は自分にはどうすることもできないと悟った。

 状況を打開できるのは、阿龍だけだ。

 けれど一介の小姓という名の人質では、主たるその人に進言などできようはずもない。

 朧や双樹を介することも考えたが、それが阿龍に伝わる保証もない。

 すっかり肩を落とす吾狼。その時扉を叩く音が聞こえてきた。

 許された半刻が過ぎようとしているらしい。

 吾狼は改めて畳に手を着き、頭を下げる。

 

「此度は時間をいただき、ありがとうございました。何卒この件はご内密に……」

 

「内密にするなら、これをどうにかしなければな」

 

 言いながら宮は握り飯に手を伸ばす。

 それを口に運ぶ様子をぽかんと眺めていた吾狼に、宮は笑いながら肩をすくめてみせた。

 

「もう春も近い。このままおいて行かれて、鼠でも出て来られたら堪らないからな」

 

  一瞬の沈黙。

 それから二人は互いに笑いあった。

 少しだけ心が通じ合った瞬間だと吾狼には思えた。

 吾狼は握り飯を包んでいた布を袂にしまうと、謝りながら宮を後ろ手に縛り、猿ぐつわを噛ませる。

 すっかり元通りに転がっている宮に会釈をすると、吾狼は後ろ髪を引かれる思いで土蔵を後にした。

 吾狼が表に出ると、再び扉は固く閉ざされ、閂がかけられる。

 本来は主義に反するのだが、双樹からの進言に従い、見張り役達に幾ばくかの袖の下を握らせる。

 

「お手間を取らせてすみません。この件はどうかご内密に」

 

「しかと承知」

 

 吾狼は深々と一礼すると、その場を後にする。

 空は僅かに白み始めていた。

 

      ✳

 

 翌日、吾狼は寝不足で眠い目をこすっていた。

 たまには一人でゆっくり食って来い、との双樹の言葉に甘え御膳所で朝餉をとっていると、紫雲が駆け込んで来た。

 何事ですか、と茶碗を盆に置く吾狼に、紫雲は息を切らせながら言った。

 

「大変だ……今し方、城下に高札が立った……」

 

 嫌な予感がした。

 箸を持つ手が小刻みに震える。

 果たして、紫雲の言葉は予想通りのものだった。

 

「お館様が、弥生様……宮の処刑を決断されたんだ。日時は……」

 

 吾狼は、目の前が真っ白になり、それ以降の言葉は耳に入って来なかった。

 

 自分はやはり何も出来ないのか。

 

 砂を噛むような思いで食事を終えると調理番への礼もそこそこに吾狼はふらふらとその場を後にした。

 

     ✳ 

 

 双樹のいる部屋に戻る途中、今度は信矢に出くわした。

 やはりその顔はやや青ざめている。

 

「信矢殿……」

 

「高札の文書を双樹様に届けてきた。その……正直俺はどうしたいんだか……」

 

 宮は信矢にとって憎むべき仇である。

 が、同時に使える主君の妹弥生でもある。

 

「俺が助命を嘆願すれば、弥生様は助かるかもしれない。けど、俺は宮を許すことはできない……」

 

「……お気持ち、お察しいたします」

 

 そう言い、吾狼はうつむく。

 板挟みの同僚に気の利いた言葉すらかけることができない。

 更なる無力さに苛まれる吾狼に、だが意外にも返ってきたのは労いの言葉だった。

 

「すまないな、新米のお前にまで気を使わせて」

 

「いいえ、滅相もない。こちらこそ、何もお力になれず申し訳ありません」

 

 更に頭を垂れる吾狼の肩を、信矢はぽん、と叩いた。

 

「気にするな。俺は必ず自分の力で決着をつけてやる」

 

 お前も与えられたお役目に励めよ、そう言い信矢はその場を後にする。

 どこか寂しげなその後ろ姿を吾狼はしばし見送っていたが、やがて我にかえり双樹の元へと急いだ。

 

      ✳ 

 

「双樹様、吾狼にございます。ただ今戻りました」

 

 たどり着いた双樹の居室、襖の前で吾狼は膝をつき声をかけた。引手に手をかけ、襖を開く。

 双樹は布団の上に胡座をかき、神妙な表情で書状に目を落としていたが、吾狼の姿を認めると無言でそれを差し出した。

 

 ──定 この地で生まれし宮なる者、一揆を企て城主に反旗を翻した罪状にて、城内にて打首とする──

 

 目に飛び込んできたのは、人一人の運命を定めるにはあまりにも簡素な一文だった。

 それだけに阿龍の心の内がおもんばかられて、吾狼は肩を落とす。

 

「双樹様のお力でどうにかできないんでしょうか。このままではお二人は……」

 

 けれど双樹は目を伏せ首を左右に振る。

 

「確かに俺は殿とは無二の友だ。けれどそれ以前に殿は仕える主だ」

 

 殿がこうと決めた以上、従う他にない。

 最もな言い分に、吾狼は情けなくも泣き出したくなった。

 

「でも、何か間違いをおかそうとする時に止めるのが、友であり忠臣では無いのですか?」

 

 痛いところをつかれたのか、双樹はふい、と吾狼から視線をそらす。

 それを意に介することなく、吾狼はさらに続けた。

 

「明らかにお二人の間には誤解が生じていました。何とかそれを解く方法は無いのでしょうか」

 

 誤解、と言う言葉を耳にして、双樹はわずかに眉を寄せる。

 そして手招きして吾狼を呼び寄せると、小さくだが鋭い声で問うた。

 

「そう言えばお前、弥生様に会えたんだよな? 差し支えなければ、何とおっしゃっていたか教えてくれないか? 」

 

 無論その件で相談するつもりだったので、何の異論もない。

 吾狼は昨晩の弥生とのやり取りを事細かに伝える。

 そして、阿龍から文の返信が一切なかった、との段になって軽く手を上げた。

 

「そいつはおかしい。筆まめで妹君思いの殿が返信されないなど有り得ない。それに殿は何度か峠に書状を送っていたはずだ」

 

 そう、吾狼が寝所番を仰せつかった夜、阿龍は行方が知れなくなった弥生の為に深夜まで写経をしていた。

 その阿龍が返信を怠るなど考え難い。

 

「それに、殿はよく便りがないのは良い便り、とおっしゃっていた。思うに、弥生様からの文は……」

 

「……お館様のお手元に届いていなかった、ということですか? 」

 

 たどり着いた結論に、両者は思わず顔を見合わせる。

 けれど双方の顔には、驚愕と納得と言う異なる表情が浮かんでいた。

 

「なあ、吾狼よ。命が惜しければこの事は一旦忘れろ」

 

「そんな……ここまで来てみすみす……」

 

 双樹は目をすい、と細め、人差し指を立ててその言葉を遮った。

 それほどまでに危険な領域に足を踏み込んでしまったのか。

 ようやくそのことに気が付いた吾狼は口をつぐみ、それから慌てて周囲の様子を伺う。

 その様子ににやりと笑って見せてから、双樹は言葉を継いだ。

 

「この件は、俺が預かる。何とか刑の執行までに確証を得る」

 

 そして腕を組むなり、時間との勝負だな、と独白のようにつぶやいた。

 そう、刑の執行を伝える高札は既に城下のあちらこちらに立てられ、その日付を公にしている。

 それまでになんとか。

 祈るような思いで吾狼は双樹を見つめていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ