其の壱──小姓、初めて主に振りまわされる──
薄暗くがらんとした小姓詰所で、吾狼は息をついた。
未だ幼さの残る面差しの彼は、つい先日城に上がったばかり。
同僚たちが合議の準備に負われる中、未だ勝手を知らぬ彼は留守居役を命じられ、ここにこうしてぽつねんとたたずんでいる。
もともと吾狼は、この頂城家臣の家柄ではない。
近隣の弱小領圷城の嫡男で、所領の安堵を約するため差し出された言わば人質だった。
だから、どこに監視の目が光っているかわからない。
少しでも怪しい素振りを見せれば首が飛ぶ。そんな緊張が続く毎日を送っていた。
そんな自分を、どうして一人にしておくのだろう。
あえて隙を与えて尻尾を出すのを待っているのだろうか。
それとも未だ信用が得られず、お家の大事に関わることには従事させない心積もりなのか。
そんな思惑は、だが吾狼が知ったことではない。
再び大きく息をつく。
と、その時だった。
おもむろに目の前の襖ふすまが開く。
現れた人物を目にするやいなや、彼は文字通り飛び上がらんばかりに驚いた。
「……何だ、他に誰もおらぬのか? 」
「お、お館様……⁉」
そう、そこに立っていた美丈夫は、この城の若き主阿龍その人だった。
「他の小姓達はどこへ行った? 」
その鋭い視線を受け止めかねて、吾狼は思わず深々と頭を垂れる。
「は、合議の準備に取り掛かっております。自分は未だ不慣れゆえ、詰所の留守居役を……」
震える声でそう答える彼を、阿龍はしばし見下ろしていたが、その口元が僅かにほころぶ。
「ならば致し方ない。吾狼と言ったか、馬を引け」
「は……え? 」
なんとも間抜けな声が、吾狼の口から漏れる。
慌てて城主の表情をうかがうと、整った顔には柔和な笑みが浮かんでいた。
しかし。
吾狼は疑問に思った。
阿龍の前に出たのは、城に上がったその日ただ一度きりである。
にもかかわらず、何故この人は自分の顔と名前を覚えているのだろう、と。
すっかり固まっている新米小姓の様子に、阿龍はさも面白くて仕方がないとでも言うように、小さく声を立てて笑った。
「なんて顔をしている? 言ったであろう、馬を引けと」
「は、ただ今! 」
我に返った吾狼はあわてて一礼すると弾かれたように立ち上がり、厩に向け走り出していた。
昨日のうちに馬具を磨き上げておいて良かったと、吾狼は心底思った。
阿龍の愛馬の黒鹿毛に手入れの行き届いた鞍をのせ手綱を取る。
そして、厩の前で待つ阿龍の元に引き出した。
「お待たせいたしました。これに……」
言いながらひざまずく吾狼と黒鹿毛とを阿龍は交互に見比べていたが、ややあって大股に黒鹿毛に歩み寄る。
「役目大義。では、後は任せた」
言うが早いが阿龍は黒鹿毛にひらりと跨るやいなやその腹を蹴り、あっという間に城外へと姿を消した。
その後ろ姿を吾狼はしばし見つめていたが、始めての直々に下された命令を滞りなく果たすことができた安堵感でその場にへたり込む。
額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら、吾狼はほっと息をつく。
けれど直後、とあることに気が付いた。
同僚達が詰所を出払っていたのは、合議の準備をするためである。
合議は重臣達が顔を揃える場所であり、その中心は無論城主たる阿龍である。
けれど、肝心の阿龍が遠乗りに出てしまったということは……。
事の重大さに気付き、吾狼は血の気が引くのを感じた。
全身から今度は冷たい汗が吹き出している。
慌てて城に戻ると、予想通り城中は上を下への大騒ぎになっていた。
「おお、吾狼。そなたまで姿が見えないから心配したぞ。大事ないか? 」
声をかけてきたのは、家老の朧だった。
元々農民の出だというこの初老の男は、城に上がった吾狼のことをその直後から何かと気にかけてくれている。
上気した顔で吾狼がうなずくのを確認すると、朧はずばりと本題に入る。
「さすれば吾狼、お館様を見かけなかったか? 間もなく合議というのに、お姿が見えぬ」
「申し訳ございません! 」
言いながら吾狼は頭を下げる。そして事の顛末を包み隠さず朧に報告する。
すべてを聞き終えた朧は苦笑を浮かべ、白いものの混じる頭をかいた。
「なるほど、ご命令とあらばそれは致し方ない。しかし、このままでは政が滞るのも事実」
しばし腕組みして思案した後、朧は改めて吾狼に向き直った。
「吾狼、そなた責任持ってお館様を連れ戻してまいれ。隣国の刺客がどこに潜んでおるやもしれん。必ずや……」
「かしこまりました、この命にかえましても必ずやお館様をお連れ申し上げます! 」
朧の言葉が終わる前に、吾狼はくるりと背を向け脇目も振らず走り出す。
その様子を見た朧は、やれやれとでも言うように肩をすくめた。
✳
昨日雨が降ったせいで黒く濡れた道には、幸いにも黒鹿毛の蹄の跡がくっきりと残っている。
吾狼はそれを注意深く辿りながら後を追った。
城下を抜け、草原へ出る。
顔を上げると、小高い丘の上に一本の木が生えている。
蹄はそちらに向かっていた。
息を切らせながら丘を登る。
黒鹿毛を木の幹に繋ぎ、自らはその根本に腰を下ろして城下を眺めやる阿龍の姿を認め、吾狼は安堵の息をつく。
それに気付いた阿龍はちらと吾狼に視線を向けると、形の良い唇の端を上げる。
「随分と早かったではないか」
まさかその足で駆けてきたのか。
そう問われて吾狼は肩で息をしながらうなずいた。
「城中は大変なことに……なっております……すぐにお戻り……くださいませ……」
途切れ途切れに生真面目に答える吾狼。
対して阿龍は何故か満面の笑みを浮かべていた。
「……お館様? 」
「この国には優秀な家臣が揃っている。城主とはいえ若造の俺がおらずとも問題無かろう。それよりも……」
未だ息を切らしている吾狼を見ながら、阿龍は腹を抱えて笑った。
一体何事か。
きょとんとして立ち尽くす吾狼の視線に気付き、ようやく阿龍は笑いを収める。
「この黒鹿毛は、人を見る目がある。腹に一物ある奴を見抜くのだ」
支度を整える間大人しくしていたところを見ると、どうやらお前は信用に足る人物のようだな。
そう言い再び笑い始める阿龍。
一方の吾狼は何を言われているのか理解できず、悠然と草をはむ黒鹿毛を見やった。
「お前の前に送られてきた者に馬を引けと命じたことがある。と、奴は手ひどく踏み付けられていた」
そう言われても、吾狼はにわかには信じることができなかった。
黒鹿毛を洗ったり刷毛をかけたりしたことはあるが、その間彼は大人しくされるがままだった。
その黒鹿毛が荒々しく人を足蹴にするなど、想像だにできない。
そんな吾狼の心の内を知ってか知らずか、阿龍はつぶやくように言葉を継ぐ。
「その直後だったか。そ奴の故国が兵を挙げ、我が国に攻めかかってきたのは」
たいして大きな声ではなかったが、吾狼を青ざめさせるには充分だった。
さすがの吾狼でも、先の戦のことは知っている。
阿龍の従兄弟筋に当たる飛燕が治める峠城は、阿龍配下の頂城軍によって落とされたのだ。
深い思考に落ちていく吾狼の視線が、ふと阿龍のそれとぶつかった。
その視線の鋭さに、吾狼は思わず後ずさる。
「そのように怯えずとも良い。取って食おうという訳ではないぞ。聞きたいことが一つあるのだが」
自分に答えられる事でしょうか、と首をかしげる吾狼に向かって阿龍はうなずいた。
「時に吾狼、先程からお前は俺のことを『お館様』と呼んでいるが」
「……はい。お気に障りましたでしょうか? 」
「いや、お前はいずれ家督を継げば、同盟国圷の城主として俺と対等の立場になる。違うか? 」
「いえ、我が国はあまりにも卑小で、対等など恐れ多く……」
「そう卑屈になるな。俺の家臣で無いのは事実だろう? なのに何故臣下のようにお館様などと呼ぶ? 」
そう言われても。
何と答えていいのかわかりかねて、吾狼は口をつぐみ思わずうつむいた。
心底困ったような吾狼の様子に、阿龍は数度瞬く。
「そのように深刻に考えるようなことか? 俺はただ単に疑問に思ったから聞いただけなのだが」
「その……では、何とお呼びすればいいのでしょうか。他に失礼のないような呼び方は、思いもつきません」
そうか、と阿龍はつぶやく。
しばし両者の間に気まずい沈黙が流れる。
静寂の中黒鹿毛が草をはむ音だけが響く。
しばし腕組みをした阿龍は何やら考えていたようだが、やがて妙案を思いついたようにぽんと膝を打つ。
「そうだ、俺を名で呼べば良い。それなら俺とお前は晴れて対等だ」
思いもよらぬ城主の提案に、吾狼は返す言葉もない。
無言で立ち尽くす吾狼の目の前で、阿龍は何を思ったか一つぱんと手を打った。
驚いた吾狼は豆鉄砲を食らった鳩のように飛び上がり、着地に失敗して尻もちをつく。
醜態を晒ししゅんとする吾狼。
そんな彼に、阿龍は苦笑を浮かべながらその手を差し出した。
「ほら、早く立て。あまり遅くなっては、朧の髪がますます白くなる」
ようやく吾狼は自分が何故ここに来なければならなかったのかを思い出す。
阿龍の手助けを固辞しすっくと立ち上がると、小走りで黒鹿毛に近づきその手綱を引いた。
抵抗することなく阿龍の元に連れてこられた黒鹿毛は、早く乗れ、とでも言わんばかりに前足で大地を蹴る。
「すまぬ黒鹿毛、しばし待て」
そう言うと、阿龍は吾狼の胴周りに手をかけひょいと取り持ち上げる。
「ふぇっ……?」
間抜けな声を上げたとき、吾狼の身体は黒鹿毛の背の上にあった。
自分の身に何が起きたのか理解するより前に、阿龍の背が目の前にあった。
「城まで飛ばすぞ。捕まっていろ。舌を噛むなよ」
その言葉が終わるやいなや、阿龍は黒鹿毛の腹を蹴る。
嘶きと共に走り出す黒鹿毛。
その背から振り落とされぬよう、吾狼は必死になって阿龍の背にしがみついていた。
✳
「おお、殿。姿が見えぬから身罷ったのかと思ったぞ」
城に戻った彼らの姿を認め、縁起でもないことを言いながら大股に歩み寄って来る武者がいた。
この声は、確か……。吾狼が自らの記憶と格闘する間に、阿龍もそちらに向かい歩を進める。
「戯言を言うな、双樹。ちゃんと足はある」
「そうか、ならば安堵した。殿がおらねば周りから幾多の強者が攻めてくるからな」
そう軽口を叩くのは、阿龍の乳兄弟の双樹。
押しも押されもせぬ腹心の部下で、麓城の城主を任されている重臣だ。
そんな二人の屈託のないやり取りをやや離れたところから眺めていた吾狼の存在に、双樹は気がついたようだ。
意味有りげな含み笑いを浮かべながら、彼は阿龍の肩を叩く。
「殿も隅に置いておけぬな。どこでこのような……」
「何を言う。吾狼は圷から預かった大切な客人だ。一人前の武士にしてお返しする義務がある」
その言葉に、吾狼は耳を疑った。
自分の役目は、ひたすら与えられた雑務を卒無くこなすだけと思っていたからだ。
大きく目を見開き阿龍と双樹の顔をかわるがわる見つめる。
その時だった。
「相変わらず騒々しいこと。その耳障りな声は何とかならないのですか? 」
不意に気難しげな女性の声が響く。
あわててそちらに目をやると、僧形の女性が数人の侍女を引き連れこちらに向かいやってきた。
「……これは、母上、おくつろぎのところ失礼いたしました」
道を開け頭を垂れる阿龍にちらと視線を向けてから、女性はさも不機嫌そうに言い放った。
「そなたに母と呼ばれる筋合いはない! 邪魔じゃ! 」
ぷい、と明後日の方を向くと、女性はかしこまる吾狼など目に入らないとでも言うように通り過ぎていく。
こっそり阿龍の様子をうかがうと、その顔には言い難い表情が浮かんでおり、両の手はきつく握りしめられていた。
それに目ざとく気付いたのだろう。双樹が前触れもなく阿龍の背を押す。
「ほらほら殿、広間で朧殿がしびれを切らしているぞ。霜月尼様の憎まれ口はいつものことだろう? さあ、早く行った行った」
「……ああ、双樹、すまぬ」
未だ煮え切らぬような苦笑を残して、阿龍は合議が行われるという広間へ足を向ける。
不安げにその後ろ姿を見つめる吾狼へ、双樹は声を落として語りかけた。
「圷の嫡男殿には、つまらぬものを見せた。すまなかった」
「いえ……かえってこちらこそ立ち入った話を聞いてしまったようで、申し訳ございません」
はからずも両者の視線が交錯する。
次の瞬間、双樹の手が吾狼の頭上に伸び、その髪をわしゃわしゃとかき回した。
「……? 」
驚きのあまり、声も出ない吾狼。そんな吾狼の様子に、双樹は豪快に笑いながら言った。
「何だ何だ。男子たるものその様な弱気で、戦場に出たらどうするつもりだ? 」
「そ、双樹様、そのように大きな声を立てては、また……」
「霜月尼のことか? ならば気にするな。あの方が嫌っているのは、殿……阿龍様ただお一人だ」
一体双樹は何を言っているのだろうか。
理解できず首をかしげる吾狼に、双樹は鹿爪らしい表情を浮かべてみせる。
「……霜月尼は先代様の奥方だがな、阿龍様の母上ではない。まさかお前、知らなかったのか? 」
全く初めて聞く話である。
吾狼は思わずこくこくとうなずいた。
そうか、と小さく吐息を漏らすと双樹は背を屈め、おもむろに吾狼の耳元に口を寄せる。
「霜月尼には弥生様という姫君がおられたんだが、その……政略結婚に出されて……」
「双樹、そこまでにしてください」
先程とは異なる、どこか儚げな女性の声に、双樹は慌てて口をつぐむ。
そして今までの磊落さはどこへやら、礼儀正しく廊下にひざまずく。
「……葉月様、申し訳ございません。その……」
先程までの双樹とはうってかわって畏まった口調。
それに応じるように僅かに衣擦れの音がする。
その場に現れたのは、声そのままに儚げでたおやかな女性の姿。
けれどその面差しはどことなく阿龍に似ているようであった。
「母も、阿龍も、大切な私の家族です。そして、弥生が出されたのは、子を成せない私の咎なのですから……」
ですから、母を悪く言わないでくださいませ。
言いながら、葉月と呼ばれた女性は寂しげな笑みを浮かべてうつむく。
どうやらこの家にも、様々な問題があるらしい。
吾狼はそんなことをぼんやりと思っていた吾狼であったが、ふと葉月がこちらを見ていることに気付き、慌てて居住まいをただした。
床に片膝をつき、深々と頭を垂れる。
「申し遅れました。自分は圷城嫡男……」
「吾狼殿ですね。話は弟から聞いています。未だ慣れぬのに、弟が無理難題を申し付けたようで済まないと思っています」
「い、いえ、決してそのような……」
美しい葉月から柔らかな笑みを向けられて、思わず吾狼は耳まで真っ赤になる。
そんな彼の脇腹を、双樹は意地悪く小突いた。
「どうか、ここを我が家と思ってください。何か不明なことがあれば、双樹に何でも聞いてくださいね」
「葉月様の仰せとあれば、何なりと。例えこの生命にかえましても」
真面目くさって深々と一礼する双樹。
一瞬の沈黙の後、三人は誰からともなく笑い始める。
その楽しげな笑い声と裏表を気にする必要の無い他愛のない会話は、一向に合議の場に現れない双樹の様子を見に来た朧が乱入するまで続いた……。