あなた、今こそ離婚した時の約束を果たしてちょうだい
ねえ、あなた。私たちが離婚するときに交わした約束を覚えているかしら。
いいえ、忘れるなんて許さないわ。絶対に思い出してちょうだい。今すぐに、よ。
だって、あの約束を守る時が迫っているのだから。
暢気者のあなたのことだから、きっと、私に言われてから思い出したりするのよね。
でも良いの、許してあげる。ちゃんと約束を思い出せたらね。
私ね、あなたと約束した通り、あれから再婚して幸せになったわ。
子供も産んだし、舅や姑も看取ったの。
夫はね、お見合いの席であなたのことを隠さずに話した私に興味を持ったんですって。
好意じゃないのよ、興味。
結婚直後に癌が発覚し、余命幾許も無い配偶者を看病もせず離婚して、男と見合いをする女なんて碌なもんじゃない、と思ったそうなの。
その通りよね。
でも、あなたとの約束を聞いて、印象が変わったんですって。
「君はまだ若いのだから、余命少ない自分に縛られず、どうか幸せになってほしい。そして、思い出してもらうのなら少しでも元気で笑っている姿を覚えておいてほしいので、どうか自分が死ぬ前に離婚してほしい」
病院のベッドの中からあなたに頼まれたとき、私、本当は断りたかった。
でも、あなたがどうしてもと望むから離婚したの。
あなたのご両親には詰られたし、周囲には軽蔑されたわ。
当然よね、最低の女だもの。
でもね、私の中で一番好きなのは、やっぱり今でもあなたなの。
お見合いの席で夫にもそう告げたわ。
「私の一番好きな人は、あの世にいます。そして私の幸せを一番望んでくれています。彼のためにも私は幸せになります。なにがなんでも幸せになって、彼に幸せになった私の人生を報告したいんです」
そうしたら夫、なんて言ったと思う?
「では、生きている人間の中で、私を一番好きになってもらえますか? そして、一緒に幸せになりませんか?」
幸せになりたいじゃなく、幸せになるって断言した私が、強く眩しく見えたんですって。あら、これ、惚気かしらね。
あなたの命日の翌日、エイプリルフールで良かったわ。だって、お参りに行きやすいじゃない。
なんで命日を知っているかって?
それは、あなたのご両親が教えてくれたからよ。
「離婚したのは息子の意思だと聞いてる。だが、私たちはどうしても息子を捨てた女だという感情が消せない。少しでも私たちを憐れむ気持ちがあるのなら、葬式に参列するのは控えてほしい」って伝言付きで。
だから、お葬式には行かなかった。そして、お墓にお参りする日も一日遅れて行くことにしたの。そうすればお互いに顔を合わさずに済むでしょう?
毎年その日に出かける私に、夫は何も言わなかったわ。黙って子供たちの面倒を引き受けてくれて、ただ「行ってらっしゃい」って言うの。そして腫れた瞼で帰宅する私に「おかえり」って言うの。
嘘をついても良い日だから、今日は特別ってなにも聞かないって。ね、素敵でしょ?
私ね、再婚してからも波瀾万丈だった。
夫の勤務先が倒産したり、再就職がうまくいかなかったり、そのうち起業してダメになりそうになったり、そのあと嘘みたいな大逆転があったり。
子供たちもね、父親の起業の忙しさや慌ただしさの中で少し不安定になったり。
でもね、私が毎日毎朝「今日も一日、皆で幸せになりましょう」って言うから、洗脳されたんですって。
「お母さんがいつでも笑顔で能天気なこというから、不安に思うほうがおかしいのかと思った」って言われたわ。
失礼でしょ? でもね、生意気で可愛いの。
今の私にならわかるわ。あなたのご両親が私のことを許せなかった理由。頭ではわかっても、心が追い付けなかったのよ。だからね、あなたのご両親にとって私は最悪の女で良いと思うの。
私なら憎まれても平気。あなたの頼みとはいえ、それだけのことをしてしまったんだし。
そうそう、約束なんだけど、いい加減に思い出せたかしら。
私には身内がいないから、私が死ぬときは先に死ぬあなたが迎えに来てってあれよ。
もうそろそろ必要みたいなの。
今はね、身内って呼べる人がいるけれど、誰も死んでいないんだから仕方ないわよね。あなた、約束した通り、私のことを迎えに来てちょうだい。
夫に遠慮? いらないわよ。だって、夫が死ぬときには私が迎えに行くんだから。
その時まで、あなたにじっくりと聞いてほしいことがあるの。たくさん伝えたいことがあるの。
なんの話かって? そんなの、あなたと別れてからの私の人生に決まっているわ。
私、とっても幸せだったの。幸せになったの。今も幸せよ。死にかけているけれど。
勿論、あなたといた時も幸せだったわ。でも、それ以上に幸せだった。
あなたが言ってくれたからよ。
「幸せになる価値のない人間なんていない」って。
天涯孤独で、誰にも頼れない、誰も助けてくれないって思いながら恐る恐る生きてきた私に、あなた、そう言ってプロポーズしてくれたでしょ?
あなたの言葉を信じて、そうなるように生きて、本当に幸せがあるって思えるようになったの。
私これでもちゃんと弱っているのよ。ベッドから起き上がるのも一苦労するくらいに。
でも、あなたに伝えておかないと、忘れられていたら困るもの。
ちゃんと迎えに来てね。
私、随分とおばあちゃんになってしまったけれど、わかるかしら。
あなたに会うの、五十年ぶりになるのね。楽しみだわ。
こんな気持ちで死ねるのなら、きっと死ぬことすらも幸せなのかもしれないわ。
夫や子供たちの時も、不安なんか感じる隙もない勢いで私が迎えに行ってあげようかしら。
あ、それはやっぱり迷惑よね。そうね、あの子たちには長生きしてほしいもの。
じゃあ、そろそろ、多分明日くらいになると思うんだけれど、ちゃんと迎えに来てね。
久しぶりに会えるの、楽しみに待っています。
勢い……それだけ




