駄女神と2つの果実
目を覚ました俺の前には、美しい曇天が広がっていた。
ウールのように濃密で、抱き心地の良さそうな雲が、光を孕んでうねり、生み出される陰影は息が止まるほど幻想的だ。
――――いや、息は止まっているのだが。
「あっはっはー。死んじゃいましたね」
こちらを覗き込む真っ白なワンピースの女性。
雲の切れ間から差し込む天使の梯子を、後光のように背負っている。
濡れ羽色の髪、スラリと長い手足、懐に収まりきらない二玉のメロン。
俺はこいつを知っていた。
芥屋。――――若い頃の友人だ。向こうは年を取っていないが。
「私は確かに友人です。生きとし生けるもの全ての、友人。この全容は膨大無比にして、万化極彩。矮小なる一個体の知性では理解しきれず、見る者にとって最も馴染み深い姿に映る。……あなたには、芥屋という少女に見えますか? 今回も」
「いいや、神様に見えるよ」
「おや、それは話が早い」
女神は巨峰の谷間から書簡をズルズルと引き出して、広げた。
「契約を履行しに来ました」
「……契約?」
「忘れたとは言わせません」
ああ。確かに覚えてる。
学徒兵舎の懲罰房で、血反吐を噛みしめながら見た夢を。
○
夢枕に立った女神はこう言ったのだ。
『大丈夫? おっぱい揉む?』
柔らかそうな胸をぶら下げて、意地悪に微笑むのだ。両腕折られてる俺に向かって。
ほれほれ、と寄せて揺らす。
『なんちゃって』
俺が手を動かせないと知っていながら、この仕打ち。
ぜってぇ許さねぇ。懲罰房で受けた折檻のどれよりも、万倍辛い。
眉に力を篭める俺を見つめて、クスッと笑う女神。
「――――わかっています。そんなことでは慰めにならないと」
彼女は金ピカなフルーツを両手に掲げて見せた。
『左が知恵の実。右が生命の実。……あなたが復讐を望むなら、力を授けてあげましょう。お好きな方を』
身を屈め、リンゴとバナナを差し出してくる。
俺が選ぶ果実は、もちろん。
――――真ん中だ。
揉んだね。揉みに揉んだね。揉みしだいたね。むにゅむにゅ、と。
骨折など知るものか。
当時の俺はバカだったから。
女神は目を白黒させ、果実を掲げたまま固まってしまった。
いい気味だ。人類を舐めるな。
復讐したい相手なんざ掃いて捨てるほどいるが、まずはお前だ!
『――――ひゃあああ!? ま、待って!? 冗談っ! 冗談ですってば! さっきのは、ちょっとした女神ジョークッ!』
「知らんっ、俺は〝これ〟にする!」
宣言した途端、腕から活力が流れ込んできた。
骨折の痛みが消え失せ、代わりにマシュマロのような弾力がハッキリと返ってくる。
掌が極楽浄土。生まれて初めての感触を貪った。
『わぁぁぁっ?! わ、私の力っ、吸われてるっ!? こんなことが……!? なんで!?』
「ふははははっ! 狂人の夢に理屈などあるものか! この俺様をバカにしたこと、後悔させてやるッ!」
『もぉぉぉッ! やめて! ……そ、そだ! お金取りますよ!? 1回10円ッ! いや100円ッ!』
ピタッと手が止まる。
しみったれた庶民の感覚が首を擡げたのだ。
100円と言えばかなりの大金。サラリーマンの月給が20円ぐらいだからな。俺には到底払えない。
それを察したらしい女神は勝ち気に微笑んだ。
『……あれ? あれれ? やめちゃうんですか? いいんですよー? 続けても。払える甲斐性があるのならねー。ぷっすすー』
うん、よし。殺す。揉み殺す。
『きゃああっ?! なんで再開っ!? 払えないでしょ!?」
「どうせ夢だし。踏み倒せるし」
『サ、サイテー! ゆ、夢だけど、これは夢じゃないんですよ!?』
「知ったことか」
『やめてやめて! これホント、やばっ! あ、謝る! 謝ります! ごめんなさい!』
「もう遅い! 絶対許さん! 元はといえば芥屋、テメーが……」
『ふあああああっ!? す、吸わないで! 力、抜けちゃうからぁぁぁっ』
・
・
・
目が覚めると、そこは元の懲罰房だった。
先程まで組み敷いていた彼女の体温も匂いも霧散して、かび臭い土の床に身を投げている。
虚しい底冷えに、吐く息も白い。
それと同じくらい、頭までキンキンに凍えていた。
――――冴えている、と言い換えても良い。
絶え間ない頭痛の中、独房で温めていた企てがふいに直列した。
牢を抜けだし、世界に復讐する閃きが、ここに。
暗い視界の中、映る物全ての構造が推定できる。透視したかのように、詳らかに。
この手錠の鍵穴は、どこをどこのよう弄れば開くのか。
檻の外、どこをどういけば巡回する見張りと出会わずに逃げ果せるか。
体内の複雑骨折が治り始めていることも。
今の俺には何もかもが視えた。
物質の構造、その繋がり、絡み合う因果の末までも。
まるで靄が晴れたかのよう。
初めて眼鏡をかけたあの日、あんなにも感動したのに、今はそれ無しで、さらに遠大な青写真まではっきりと見えている。ゾクゾクと身震いが止まらないのは、凍えているからだけではない。
神だか何だか知らないが、感謝しよう。今見た夢に。――――当時の俺はそう思った。
○
「一億円」
笑顔のまま怒りを浮かべた女神が、手を突き出す。
「……そんなにか?」
「耳揃えて払ってくださいね?」
だが問題ない。一億円など端金だ。
世界中から巻き上げた金が、俺には何千兆円と――――。
――――懐を探って初めて気付く死装束。サイフがない。
「……俺の金は?」
「あらあら~? 知らないんですかぁ? 常識ですよぅ? 三途の川の向こう岸に、現世のお金は持ち込めないって~」
「じゃあ、どうやって払えってんだよ」
「知りませんよ。――――払えないなら魂で償う。そういう約束でしたね?」
「きっ、汚ねぇっ! こいつ! 払えない時を狙って来やがったな!?」
「ぷすす~。なんとでも言ってくださ~い。べろべろば~」
ダメだ、この女神、確実に魂を取りに来てる。
何年もこの機会を窺っていたに違いない。
「執念深すぎる」
「おぉんっ!? 誰がどの口で……ていうかもっと恐れろ! あなたの魂だけじゃないですよ!? 『最愛の人の魂』も貰いますからね! あなたは二つとも食べちゃったんですから!」
「いや、俺が食べたのは……」
「うるさいうるさい! 思い出させないでください!」
「お前だって途中からさぁ……」
「あー! あー! あー! 聞こえませーん!」
「てか、最愛の人の魂ってなんだよ。よく思いついたな。そんなエグいこと」
「でしょう? ――――じゃねぇ! なんでそっちが他人事か! もっと泣け! 喚け! 恐れて、ひれ伏して、命乞いしろ! 情けなく土下座して『どうか妻だけは許してくれぇ』って言え! 許しませんけどねえ! あーっはっはっは!」
一人寸劇で盛り上がる女神様。その仕草と裏腹に要求は恐ろしい。
最愛の人を道連れにしろだなんて。悪魔かこいつ。
「……しかし、財産が死後に持って行けないとなると、ファラオや皇帝は可哀想だな。ピラミッドも兵馬俑も無意味だったわけだ」
「そんなことありませんよ? 天国は信仰の数だけありますから。――――もっとも、無宗教のあなたには関係ないですけど」
「……信仰の数だけ? なら、ここは?」
「まぁ、あなたの精神世界みたいなものですね」
「……ふーん」
「おっと。お喋りはここまでです。続きは後ほど。イジめてあげるときに、ゆっくりとね……。ふふふ……」
手をわきわきさせてにじり寄ってくる女神様。目が据わってる。本気の目だ。捕まったらきっと酷い目に遭わされる。
こんなことなら死後にも金を持って行ける宗教に入っておけばよかった――――。
――――瞬間、はたと閃いた。
「……いや待て。俺はちゃんと払ってた」
「え?」
「神の御許に送ってただろ? 40億も」
「単位は円ですよ。いくら人を送ったところで……」
「人の命が無価値とは言わせない」
「……じゃあ、どれほどだと言うんです? まさか、地球より重い、なんて屁理屈は通りませんよ? ここにはあなたの信仰が反映される。いくら口先を捻ろうと、思ってもないことは通用しません。――――無価値なんですよ。命なんて。大量殺人鬼のあなたにとっては。……そうでしょう?」
「いいや。違うね。――――人の命は一銭五厘。そう教わって生きてきた」
途端、小銭の雨が降り注いだ。
女神はあっけにとられて曇天を仰ぐ。
「これは一体……」
「損なわれた人命は赤紙で補充できる。だから切手一枚分の価値しかない。……冷酷な話だ。その冷酷さに、今は助けられた」
「そんな、まさか……」
「締めて6000万円。一人分にはなるだろう?」
「……それで、奥様は助けてくれ、と?」
「違う」
ここは大事なところだ。だからはっきりと言おう。
「俺だ! 俺を助けろ!」
「な、なんですって……!?」
「あいつには悪いと思うが……、これが俺だ! きっと分かってくれる!」
「こ、これを見てもそんなことが言えますか!?」
女神が大鎌を取り出す。
一度振れば空間に穴が開き、喪に服す妻の姿が映った。
「世界で唯一、あなたのために泣いてくれてる女性ですよ!?」
「何度だって言えるね! すまんっ! 俺のために死んでくれ!」
「なっ、……なんというクズ! 見下げ果てたゴミクズ!!」
「さぁ、俺を助けろ!」
「……ふ、ふふっ! ここまで愚かとは、見損ないましたよ! 良いでしょう、あなたは助けてあげます!」
大鎌をもう一振り。刃は妻を捉えて。
――――何も起こらない。
「あら……?」
「……ぷっ、ははははは! ヴァァァカめ! 俺が愛するのは常に俺一人! 最愛の人とはつまり、俺様の事よ! はーっははははははは!」
「そ、そんな……! そこまでドクズだったなんて……!」
「元々政略結婚さ! 米財界のコネが欲しかった俺と、安全が欲しかった奴らの! そこに愛などあるものか! 何の問題もなァい!」
これにて踏み倒し成功。完全勝利である。
世界一あったまいい俺に知恵勝負を挑もうなどとは愚かな神だ。
身の程を知れ。
「うぎぎぎぎぎ……! こいつ……!」
「ところで1000万円余計に払ってしまったなあ?」
「ひぃっ……!?」
「まだ10万回揉めるなぁ?」
「かっ、勘弁してくださぁい!」
鎌を盾にして及び腰の女神。
彼女がそうしたように、手をわきわき動かしながら追い詰めていく。
その横で。
『えぇ、大丈夫ですわ、お母様。私一人でも、しっかり育てていきます。あの方の子は――――』
覗き窓の中の妻が、そう言ってお腹を撫でたのだ。
「え?」「は?」
固まる女神と俺。
そういえば、あいつ、最近ちょっと様子がおかしかったような――――。
「……うふふふふふふふふ!! あら~。おめでとうございます~。出来ちゃいましたね~。『最愛の人』」
「なっ、なにをいうか。顔も見たこともない、まだ生まれてもない我が子など……」
「我が子! そうですかそうですか。なるほどなるほど。『悪党ほど血の繋がりに弱い』と申しますが、それって本当みたいですね~?」
「バ、ばばば、ヴァカな……。さ、最愛の人は、常に俺様一人……」
「試してみ・ま・す? 息子さんかな~? 娘さんかな~? 帝王☆切開」
鬼か貴様は。
「……わかった。悪かった。降参だ。子供だけは助けてくれ」
「うふふっ! よろしい!」
女神がパチンッと指を弾く。
それを合図に金縛り。瞬き一つ出来ない。
「これであなたは私のもの! 力、返してもらいますよぅ?」
煌めく美貌が近付いてくる。
艶やかな黒髪に、長い睫。可愛らしくも美しいその顔に、唇を奪われ。
柔らかな微熱が鼻先をくすぐる。
口腔に広がるレモンの――――。
「――――うェエッ?! ペッペッペッ! ゲロ不味ッ! ドブ以下! なんですあなたこれ! 無理! 女神様のマヂ浄化パワーでもこれは無理! 無理にもほどがあります! 腐った豚肉でももうちょっとマシな味してますよ! おぇぇ……っ!」
女神は唾を吐き、口を拭った。
流石にちょっと傷つくから控えてくれ。
「どんだけ人から恨まれたら、こんな汚染するんですか!?」
「テヘペロ」
「いっぺん洗濯してこいや!!」
がすっ、と蹴られて。
目の前に開いた孔から、俺は地獄へ落とされた。




