7/やわらかな茶色の思いで・2
「木瀬くんのあの出来事。覚えている?」
わたしの問いかけに、「忘れるわけない」
食後の珈琲を飲みながら、水島くんがゆっくりと頷いた。
「十一月二七日」
「そんなとこまで覚えているの?」
なんて記憶力だろう。驚嘆したわたしに。「まさか」水島くんが肩をすくめた。
「さすがに、俺もそこまで記憶力は良くはない。木瀬がクラス会に来たって聞いたろ? それで中学時代の生徒手帳で確認したんだ」
「まだ持っているんだ」
わたしは実家に置いてきたままだ。きっととっくに処分されているだろう。
「ああ。手帳。学年章、成績表とかは、卒業アルバムと一緒にとってあった。それで確認できたんだ。十一月二七日。水曜日だった。その週の金曜日が卒業アルバムの撮影予定日だった」
「うん」
わたしは卓上の紅茶カップを、そっと両手で包んだ。暖かな室内には、静かな音楽が流れている。窓からは東京の華やかな光が眩い。
故郷の夜は違っていた。
少なくともわたしの知っている1985年の夜は、今よりずっと寂しく暗かった。時代は好景気へと向かっていたけれど、北海道の地方都市で、コンビニが市内にまだ一軒だけという地域だった。
外灯と、民家からもれる明かり。行き交う車のヘッドライト。道端の公衆電話ボックス。それと終電前の電停の明かり。そんな淡い。ぼんやりとした光が夜道にあるだけだった。
「それから。こんなのもあったぞ」
水島くんが鞄のなかからファイルを取り出した。ファイルに入っていたのは、皺だらけの紙だった。わたしはそっと指先で紙面の文字をなぞった。
「覚えているか?」
今度は水島くんが問いかけた。わたしはすぐに頷いた。
「忘れるわけない」
勢い込んで言う。
水島くんと二人で書いたものだもの。
もう一度紙面に目を落とす。シャープペンシルで書かれた文字は、ところどころが擦れて消えかかっている。
ジョン・レノンの「イマジン」の日本語訳。
水島くんが持ち出したお父さんのレコードの歌詞カードを、こっそりふたりで写したものだ。
※ ※ ※
歩道橋の翌日。
学校に着くと、木瀬くんの髪の毛が短くなっていた。前髪も。横も。襟足も。全部校則通りの木瀬くんを見るのは久しぶりだった。
「切ったんだ」
わたしの問いかけに、「成沢さんが言ったんだろう」
木瀬くんはそう言いながら、短くなった前髪を指で摘んだ。
「これで写真撮れるね」
「ああ」
卒業アルバムの撮影は毎年厳しい。少しでも違反していると撮ってもらえずに、後日指定写真館に自分で行き、期日までに撮らなければならなかった。
思い返せば、荒れた時代だったのだ。
ツッパっている生徒の一部は、こっそりグランドや公園の隅で煙草を吸っていた。それどころかシンナーの臭いをさせて登校して来る生徒までいた。そういう子が笑うと、短くなった前歯が覗いたりして、慌ててわたしは目をふせた。
別に暴力をふるわれたわけではない。いじめられたわけでもない。集団でなければ、気さくな男子もいた。ただ彼らの存在は常に圧倒的で、わたしが竦み上がっていたのは事実だし、全国規模で中学校は大なり小なり同じ問題を抱えていた。
彼らに比べれば、木瀬くんの問題行動などたわいないものだった。
わたしはずっとそう思っていた。
※ ※ ※
その日。木瀬くんが学年主任から呼びだされたのは、四時間目が終わった直後だった。
「なんだよもう。俺の分、誰も喰うなよな」
ぶつくさ言いながら、木瀬くんは教室を出て行った。
わたしは給食当番でパンを配っていた。
今日の木瀬くんは、髪の毛も服装もちゃんとしている。本当になんでだろう。軽い気持ちでそう思っていた。
配膳が終わり、斑ごとに机を並べて食べ始めた。
わたし達三人は、そろって違う斑だった。
やがてお昼の校内放送が始まっても、木瀬くんの席は空いたままだった。机の上で、温食がさめ始める。
なんとなく気になりだした。
牛乳を飲みながら、チラチラと木瀬くんの空っぽの席に視線を向けていると、水島くんと目が合った。難しそうな表情をしている。
水島くんも気にしているんだ。
胸がざわめきだした。
なにかあったのだろうか。
そわそわと落ち着かない気分で、わたしはいつもよりうんと早くに食べ終えた。
多分木瀬くんが呼ばれたのは、一階の生活指導室だろう。
行ってどうなるわけでもないけれど、黙って待っていられなかった。
行ってみよう。もちろん生活指導室を覗いたりはできない。ドアの前までだけ。なにもなければ、それで良いんだから。そう思ってお盆を手に、腰を浮かせた時だ。
廊下が騒がしくなった。
なんだろう。
同じように気づいた生徒が、廊下側の窓を開けた。冬のひえた空気がざわめきと共に、すうっと室内に入ってきた。
不特定多数の声が入り交じって聞こえてくる。
「ニュース! ニュース!!」
「池端がやられた」
「血、でていたって」
「うそ」
「怪我人?」
「怒鳴り声した。あれ川島だよ、ゼッタイ」
物騒な単語が、わっと耳にはいってきた。
廊下側に座っていた男子生徒が、開けた窓から顔をだした。
「ナニ? なんかあったの?」
その問いかけに、たむろしていた集団から、小柄な男子がやって来た。胸の記章は同学年。見かけた事はあるけれど、名前は知らない男子生徒だった。
「池端が、殴られたらしいぞ」
「殴られた? だれに?」
「分かんないけど、生徒らしい」
その言葉で何人かが席を立った。男子がほとんどだった。
女子の数人が「こわーーい」と甲高い声をあげる。
わたしは手にしていたお盆を思わず机に下ろした。がしゃんと耳障りな音が響いた。
「おい」
堅い声と共に、わたしの片腕をかるく叩く手があった。
気がつかなかった。いつの間にか水島くんがすぐ近くに立っていた。
「池端って」
水島くんの言わんとしている事は、すぐにも伝わってきた。英語の池端先生は学年主任だ。そして川島先生は体育教師で、生活指導をしている。
木瀬くんは池端先生に呼ばれたはずだ。
わたしは使った食器類をそのままにして、水島くんと駆け出した。
「木瀬くんに、何かあったのかも」
「ああ。けど、デマかもしれない」
走りながら水島くんがひそめた声で言う。
「どうなのかアレだけじゃ分からない。その場に行ってみなきゃ」
二階から一階にある生活指導室に向かうにしたがって、廊下は混雑していた。野次馬の生徒でごった返しだ。
「怪我をして」「殴ったって」「本当に?」「うっそーー」「いいきみ」「けど村上だから」「これどうなるわけ?」「だれか先生呼んで来いよ」「こわいよねー」「もういるっしょ」
言葉の端はしが、尖った針みたいに耳を指していく。
ただそのなかに、木瀬くんの名前がないのだけが救いだった。
騒いでいる生徒たちの間を縫うようにして進んでいくと、わたし達の背後から大きな声がかかった。
「そこ! たむろしている生徒は今すぐ教室に戻って!」
振り返ると、数名の先生方がこちらを目指してやって来る。ほとんどが三学年のクラス担任の先生だ。
前原先生もいる。
「ほら、早く! 戻って! ほら!!」
先生たちの怒号に、固まっていた生徒たちがしぶしぶと散って行く。
「前原先生!」
水島くんはそのなかで、すばやく進路を変えた。大きな声で、はっきりと先生の名を呼びながら近づいて行く。わたしもその後に続いた。
「水島。成沢。お前等も教室へ戻るんだ」
「先生。木瀬は?」
水島くんは前原先生の言葉にかぶせるように早口で尋ねた。先生の表情が崩れる。その一瞬の変化に、わたし達は悟った。今注目を集めている進路指導室に、木瀬くんはいる。そして彼はなにかに巻き込まれている。
「木瀬くん!」
わたしは水島くんを先生の元に残したまま走った。
なにか考えがあって走ったわけではない。考える前に体が動いた。
すぐに木瀬くんの元に行かなくちゃ。その一心だった。
わるい予感が、じくじくとわいてくる。居ても立っても居られない。
けれどわたしが進路指導室にたどり着く前に、扉は開いた。
まず出て来たのは、厳しい顔をした川島先生だった。
いつもジャージ姿で、大きな体。厳つい顔をした川島先生は、わたしにとって怖い存在だ。そしてそれは他の生徒にとっても、大体同じ意見であった。
わたしは歩を止めた。
川島先生の眼光に気圧されたのもあるけれど、その後ろから、ぞろぞろと連れ立って出てきた集団の姿に足が竦んだ。
男子ばかりが数人。皆、肩を怒らせ、興奮しているのか険しい目つきをしている。
丈がうんと短かったり、逆に基準よりもながくしている学ラン。
腰の位置でズレ落ちそうにしながら履いている、異様に太いズボン。
同学年でも一番目立つ、ツッパりグループの男子達だった。
わたしの横に、遅れて水島くんが立った。
ガラの悪い集団に挟まれるようにして、木瀬くんがいる。
「木瀬……」
水島くんのあえぐような小さな声が、すごく離れた場所から聴こえてくるようだった。
きちんと切った髪の毛。問題のない制服姿。
場違いな集団に、間違って紛れてしまったような木瀬くんの姿に、胸が震えた。
木瀬くんはどこか呆然とした顔つきをしていた。そんな顔は木瀬くんに全然似合わない。木瀬くんは、明るくて、屈託がなくて、自由な雰囲気が似合っている。わたしはたまらなくなった。
「木瀬くん!」彼を呼んだ。
木瀬くんが顔をあげた。
わたしと水島くんを見る。
わたしは、ちょっとだけ片手をあげた。木瀬くんが応えるようにして手をあげようとした。
「木瀬!」
川島先生が意味もなく怒鳴った。
木瀬くんの肩がびくんと跳ねた。困ったような顔つきで、木瀬くんはわたし達から視線を外した。他の男子生徒数人が、挑むみたいな目つきでわたし達を睨みつけた。
「水島。成沢。もどりなさい」
前原先生が、ひどく静かな声で言いながらわたし達の前に回る。先生の姿に木瀬くんが遮られる。
「でもーー」
「戻りなさい」
わたしの言葉を、やはり静かに。けれど口を挟む事を許さぬ断固とした声で、前原先生は遮った。
「……はい」
「はい」
木瀬くん達が廊下を曲がって、視界から消えて行く。
わたしはそれを、何も出来ずに見送った。