3/つよさに向かって走りぬけ
「そおれっ!」
最初の一歩が踏み出された。
不安になっても決して下を向くな。まっすぐ。前だけを見て走るんだ。
ふたりから散々注意された。右左右。足を踏み出す順番は考える必要がないくらい、身体にしみこんでいる。
「いち、に。いち、に」
走った。走れている。
まっすぐ。前だけ。まっすぐ。前だけ。
バカの一つ覚えみたいに、それだけを繰り返し頭のなかで唱えて走る。
回りなんて全然視界にはいってこなかった。水島くんと木瀬くんの声に合わせて。歩幅をそろえて走ることだけで、精一杯だった。
きつく結ばれた足がもつれない様に。そう何度も願った。
もつれてコケたのは練習で散々した。コケて立つ練習もした。でも夏休みが終わる頃には、全然コケなかった。できる。ゼッタイできる。大丈夫。三人なら絶対できる。
駆けた。コーナーの白線に沿うように、走り抜けた。
どこのだれとも分からぬ声援が、耳にとおく聞こえる。
目の前にしろい体育服の背中がある。迫る。いける。
手を伸ばしたら、きっと届く距離にある。走る。ひときわ高く木瀬くんが声をあげる。「いち、に。いち、に」
「追い抜く時は慌てるな」
練習の時の木瀬くんの言葉を思いだす。
追い抜く練習はできなかった。リハーサルでもしていない。肩に回された木瀬くんの腕に力がこもる。それだけが合図だ。
「真ん中の俺が位置どりを主導する。いいな? 俺の位置取りに文句つけるなよ。水島」
練習の時、名指しされた水島くんはほんの少しだけふてくされていた。
でもわたし達は分かっている。三人四脚の司令塔は木瀬くんだ。木瀬くんの身体の動きに合わせて、前をいくグループの、右側すれすれを走って行く。
右のわたしがぶつからない、ほんの僅かだけの距離をはかるかの様にして、木瀬くんが先導する。コワくて目を瞑りたくなる。
変わりに声をあげる。おおきな。自分でも信じられないくらい大きな声がでる。
「いち、に。いち、に」
抜けた!
抜いた! 信じられない。
走りながら、声をあげながら、泪が滲みそうになる。黒板の前の、途方にくれた時の泪じゃない。
心臓は五月蝿くて。頭のなかはまっしろで。多分顔なんてむちゃくちゃになっていそうだけれど、嬉しくて、楽しくて。叫んでしまいたい気持ちで、こみ上がる泪だ。
「いち、に。いち、に」
走ってはしって。これでもう充分だとわたしは思った。体育祭で誰かを抜かすなんて経験は、わたしにはほとんど無かった。多分水島くんもだ。だけど木瀬くんは違った。三人で走れる最大のスピードを維持したまま、木瀬くんは足をゆるめなかった。
心臓がめちゃくちゃに暴れる。口のなかがカラカラになる。それでも声を出して。歩幅を合わせて。わたし達は走った。走って、はしって。更に二組を抜かすという、わたしにとって二度と無いであろう、とんでもない事をしてぬけた。
「いち、に。いち、に」
走って。力のかぎり走り抜けて。
白線につんのめる様にして、わたし達はゴールをした。
「うおおっ!」
ゴールして、そのままコケて。倒れた足が、紐に引っぱられて痛かったけど。
それよりも、水島くんがぶっ倒れながら拳をあげたおたけびのおきさに、わたしは笑った。
木瀬くんも笑った。そろって笑った。
※ ※ ※
「うおおおっって。凄かったよね」
「夏美さんの笑い声だって凄まじかった」
わたし達は箸を止めると、ふふふと笑いあった。
「今。あんな事やったらアキレス腱きる自信ある」
水島くんが言う。
「わたしは二日後に、筋肉痛になる」
お互い年だねえ。そう言いながら、ふざけ合ってグラスをカチンとぶつけた。
「あの日の俺らの勇姿に乾杯」
「フラッグに乾杯」
あの日。
わたしは人生初めての旗を手にした。旗といっても、すごくちゃちなものだ。
細い棒に厚紙で作った三角形がついている。
一位の赤。
二位の黄色。
わたし達が手にしたのは三位の青の旗だった。
もっとも旗を直接もらったわけではない。体育委員が持っていた青の旗に誘導されて、三位の列に並んだだけだ。
わたしがいつだって、憧れと諦めの気持ちで眺めていただけの勝者のしるし。その旗は、確実にわたしの胸のまんなかの、とても大切な場所に立った。
列に並びながら水島くんは、「スゲエ、スゲエ」を連発していた。
「まさかの三位! 俺すげえ! 木瀬も。成沢も。すげえぞ!!」
「わかったから、おちつけよ」
そう言いながら、木瀬くんもいつもよりはしゃいでいた。男同士で背中をばんばん叩き合っていた。
わたしは味わったことのない満足感で、逆に言葉がでてこなかった。
今ならきっと、空だって飛んでいける。そんな気分だった。身体中が感激で満たされて、風船みたいになってしまいそうだった。
この三人なら、きっとなんだってできる。そんな根拠のない自信がみなぎっていた。
だからと言って、わたしがスーパーガールになれたわけではない。
現実のわたしは相変わらずぐずなままだったし、人付き合いも下手だった。
運動は苦手で、勉強はまんなか。さえないおんなの子のままだった。
信頼なんていらない。
木瀬くんはそう言ったけど、わたしはすっかり二人を信頼していた。二人が大好きになっていた。
それからもなんだかんだと、三人で行動したりもした。
勿論女子同士のように始終べったりと言う事はなかったけど、水島くんが偉そうに「テスト対策してやるぞ」とわたし達を自宅に誘ってくれた。
初めて訪れた水島くんの家は、驚くほど大きかった。勉強よりも、水島くんのお父さんが持っていたYMOのライブビデオに木瀬くんが夢中になった。
昼に隣の病院を抜け出してやってきた白衣のお父さんは、水島くんそっくりだった。おじさんになった水島くんを観ているようで、親子ってコワイなあとわたしは思ったものだ。
二学期のメインイベントのひとつ。
文化祭では、木瀬くんは舞台にあがってギターを披露した。
ほかがチェッカーズや、たのきんで盛り上がっているのに、一人淡々と歌ったのは、イエスタディとレットイットビー。イマジンだ。我が道を行く木瀬くんらしいラインナップだった。
水島くんとナイショで作った横断幕を観客席で振った。以前のわたしなら、人の目を気にして絶対できなかった。でも全然平気だった。水島くんと、「きっせくーーん」とふたりで名前をおおきく呼んだ。
舞台が終わってから、「おまえら変。横断幕がダサい」と言いながら、木瀬くんのおごりで一箱のたこ焼きをわけて食べた。
※ ※ ※
「全部。ぜんぶ楽しかったねえ」
「ああ」
「ずうっと地味な子だけで終わるって思ってた。水島くんと木瀬くんと一緒にいると、全然ちがう景色が目の前に、ぱあっと開けるみたいだった」
あかるくて。きらきらして。
勿論受験生だから勉強もしたし、テストも多かった。点数が下がって両親にお説教もされた時もある。それでも楽しかった。毎日布団にはいって瞼を閉じると、水島くんと木瀬くんとした些細な事を思いだすのが習慣になった。そうすると、こころの底があったかくなった。友達がいるって良いな。一人でにまにま笑っていた。
「夏美さんは地味女だったんだ。それにしては、」
水島くんがくつくつ笑う。
「あれは派手だったよ」
「あれ?」
「あれ。球技大会の後の黒板事件」
「ああ。あれ」
わたしは水島くんと視線を合わせると、「そうだね」同意した。
「あんなのは生涯一度。一度で良い。黒歴史だよ」
「そんな大袈裟な。俺らもう四十五だぞ。色々なイベントやらトラブル。それなりにあったでしょう」
「う〜ん」
わたしは首をかしげた。
「そりゃあそれなりに、今まで色々あったけど。あれは一五歳の、いじいじしていたおんなの子が、とんでもない事をしでかした黒歴史。大人になった今なら、もう少しうまくやるし」
「そうなんだ」
「うん。そうだよ。だからかなあ。今でもバレーボールって聞くと、一瞬ひゃっ、てなる。だってーー」
※ ※ ※
「ーーバレーボールって苦手。だって失敗がめちゃくちゃ分かりやすいんだもの」
二学期最後のイベント。
球技大会は男子がグランドでサッカー。女子が体育館でバレーボールと決まっていた。
「いいな。サッカー」
わたしはふてくされて、水島くんに、「いいな。いいな」を連発していた。
「いいだろう。サッカーはとりあえず走っていれば、それっぽいからな」
同じく体育キライの水島くん言う。
木瀬くんは、「俺は水島とちがって華麗に得意」と自慢する。
それはそうだ。なんでも木瀬くんは小学生時代ずっと地域のサッカーチームにはいっていたらしい。
わたしはふたりに手を振って、体育館へ向かった。ひとりになった途端、力が抜ける。憂鬱だった。
今のバレーボールはラリーポイント制で、サーブ権があってもなくても点数がはいる。
試合はさくさく進む。
ところがわたしが学生時代は違った。
サイドアウト制で、サーブが失敗しても相手チームに点数ははいらない。サーブ権が移るだけだ。なので試合が終わるまで、やたら時間のかかる競技であった。
しかもバレーボールは個人のミスが分かりやすい。
体育でも球技の苦手なわたしにとっては、最もキライなスポーツだった。
その日も案の定、間抜けな事ばかりしでかした。
体育祭のフラッグを手にした時のような高揚感も、わくわくもなかった。
サーブははいらず。相手には狙われ、レシーブしたはずのボールは、とんでもないところに飛んでいく。
他のメンバーがうんざりしている空気が、手にとるように伝わってきた。
ごめんねという言葉さえ、喉にひっかかってでてこない。声がだせずに、ますます萎縮していく。
とれるはずのゆるいボールにさえ、身体が反応しない。足が動かなくなる。ボールが怖い。チームの雰囲気が怖い。どうして良いのか分からない。気ばかり焦る。ミスを連発する。
そして相手のうったサーブを、わたしは後衛で、もろに顔に当てた。
「……もう。やだ」
やっと全ての試合を消化して、ひとりでとぼとぼと教室に戻った。
グラウンドではまだ男子の試合が行なわれていたけど、観に行く気力は残されていなかった。
木瀬くんは格好良くプレイしているだろうし、走っているだけの水島くんが楽しそうにしていたら、それはそれで癪であった。同じ運痴なかまなのに……
うなだれて教室に向かい、入り口でわたしは固まった。
前の扉を開けたわたしが目にした黒板には、でかでかとわたしの名前が書かれていた。
YMO/イエロー・マジック・オーケストラ。通称ワイ・エム・オー。
70年代後期から、はっぴいえんどの細野晴臣。サディスティック・ミカ・バンドの高橋幸宏。当時「教授」と呼ばれていた、後のセカイの坂本龍一で結成。
85年にはほぼ活動していなかったが熱狂的ファン多数だった。
イエスタディ。レットイットビー。はビートルズ。
イマジンはジョン・レノンの楽曲。