2/あの夏はあつかった
「アレさあ」
鉄板のうえで焼かれた分厚い牛肉を、シェフが手際良くきり分けていく。かりりと焼かれた肉の表面が切られると、ピンク色の断面がより鮮やかに目に映る。肉汁がしたたり落ち、鉄板のうえでじゅっ、と弾ける。
「おお、美味そう!」
水島くんが感嘆の声をあげる。
うまそう。一五歳の水島くんも食べ物を前にすると、よく歓声をあげていた。やっぱり変わらない。
わたしは口元だけで笑いながら、「アレさあ」もう一度同じ台詞を口にする。
「ん? なに?」
肉から視線を外さずに、水島くんが聞き返す。
目の前ではシェフが肉を器用に裏表ひっくり返しながら、胡椒をやたら高いところからふりかけている。あの高さに意味があるのだろうか。わたしはいつもそう思ってしまう。
「アレ。夏休みの秘密特訓」
「おお、あれ」
今度はしっかりとわたしの方を向いて水島くんが頷く。
「びっくりだった。水島くんも、木瀬くんもすっごいヤル気で」
「夏美さんだけが、イヤイヤだったよな」
水島くんが、にかりと大きく笑う。
夏美さん。いまだに水島くんに下の名前で呼ばれるのに慣れない。
旧姓の成沢で良いよと言うと、「いや。それ変でしょ」と言う。じゃあ田所でと言うと、「それは俺らあまされものクラブの一員として違う気がする」と、言う。結局耳に慣れない夏美呼びのままだ。
「男子ふたりの間にはいるのは、正直しんどかったよお」
おどけた調子で言うと、「まあ、あのメンバーだもんな」水島くんは、かかかと笑った。自分たちがーー自分と木瀬くんが変わり者であったという自覚はあるのだ。
計画だけたてて、多分しないだろう。
それが休み前のわたしの希望的観測だった。
中学生あるあるだ。
どれほど綿密な計画をたてようが、いざ休みが始まった途端、完璧なはずの計画はぐずぐずに崩れてしまう。初日からだらけてしまう。きっとそうなるだろう。
けれどわたしの希望はすぐにも消えた。
水島くんの計画性は大人並みだった。
手書きの計画表を手に、夏休み初日の朝六時一五分に、水島くんは木瀬くんと共にやって来た。そうして、我が家の引き戸を、「おはようございます!」元気いっぱいに叩いたのだ。
もちろん親は驚いた。
普段男子はおろか、女子の友人とさえ縁遠い娘だったのだ。不信感まるだしの母に、水島くんはてきぱきと説明をした。まるで担任の先生みたいな説明口調だった。
水島くんのネームバリューも一役買った。有名な病院の跡取り息子であり、とびきり優等生だという肩書きは、親の間でも伊達ではなかった。
夜ではなく、小学生がラジオ体操をしている時間なのも功をそうした。
「あら、いいじゃない」
十分後に丸め込まれた母は、「いってらっしゃい。がんばって」
わたしの憂鬱な気分など気にもせず、背を押した。こうしてわたしの練習が始まったのだった。
※ ※ ※
「あれだけ練習が好きだったら、水島くんはもうちょい運動得意になっていそうなのにねえ」
わたしのからかいに、水島くんはビールを飲みながら、「いや。それはムリ」頭を振った。
「けど、毎日熱心だったじゃない」
境内を息を合わせて走ったり、改善策を考える時の、水島くんのまっすぐな必死さを今でもはっきりと覚えている。
そうだ。
毎日。まいにち。二人は我が家を訪れた。
がらんとした境内の、立ち並ぶ樹々の間を、不器用な形でわたし達は走りはじめた。
肩に回された木瀬くんの腕の熱に戸惑っていたのは、初日だけだった。すぐにそんなところまで気は回らなくなってしまった。
そおれ。いち、にい。いち、にい。
声を合わせて走ってはコケ。コケては走った。ジャージの膝がうすくなるくらいコケた。
それでも練習はきっちり三十分だけ。受験生なので、(主に水島くんが)そう決めていた。
「あれは楽しかったから続いたんだよ」
ビールを飲み干しながら、水島くんが言う。
その姿が水筒の麦茶をラッパ飲みしていた、一五の彼と重なる。
「普段の体育は百パー楽しくなかった。あれほとんど恥じかき時間だった」
水島くんが顔をしかめる。
わたしも同じようにしかめっ面をつくる。体育は苦手だったから、その気持ちはすごく分かる。
「でも、木瀬と夏美さんとの練習は楽しかった」
「うん」
「木瀬は運動できたけど、俺たちができなくても、あんまりイヤな顔しない奴だったし」
「うん」
「夏美さんは同類だったし」
「え? ええ? 水島くんよりはマシだったと思うけどなあ」
わたしの反論に、「そうか?」水島くんが笑う。屈託のない、明るい笑顔だ。
練習の時の水島くんは、失敗する度にどうすればできるようになるか。木瀬くんと相談しながら進めていった。時にはあまりにも理屈っぽい水島くんに、木瀬くんが文句をつけた。
水島くんは理論重視で、木瀬くんは「まずやってみよう」だった。それで口喧嘩になる事もあったけど、練習がなくなりはしなかった。
翌日にはそろって、「おはよう」「いくぞ」とやって来た。
終わると神社のちかくの個人商店でソーダアイスを買って、分け合って食べたりもした。
境内の立派な樹々のうえでは蝉がじじじと鳴いていた。
時折ラジオ体操帰りのチビっ子たちが通りかかって、「がんばれーー」なんて、わけも分からずに声をかけていった。かけられた声に水島くんが「おお」と、手を振って、それで又コケた。木瀬くんが、「集中しろ、バカ」と言っては喧嘩になる。男子って、なんであんなに喧嘩っ速いのだろう。呆れたし、おかしかった。
ふたりの喧嘩の最中。わたしは互いの足を結ぶ紐を外して、木蔭でのびていた。
ぬぐってもぬぐっても吹き出す汗が止まらなくて、背中にはりつくTシャツは不快だった。早朝のひかりが、樹々の枝先の合間でちかちか揺れていた。雲はおどろく程立派で、まっしろだった。
「夏ってこんなに暑かったんだ……」
どこにでもある。いつだってある平凡な夏なのに。初めて目にするみたいに、全てが新鮮に目に映った。
それまでのわたしは、こんな些細な事さえ知らなかったのだ。
家でひとりで時間をつぶすだけだった。
夏に走るとこんなにも身体が熱をもつ事も。汗をかく事も。全部はじめて経験する夏だった。
※ ※ ※
「たしかに楽しかったね」
「だろ? 楽しいと続くんだよ」
「木瀬くんも、楽しかったかなあ」
わたしの呟きに、水島くんが、「そうだろ」みじかく応えた。間髪入れない応えだった。
「楽しくなかったら、木瀬は来なかった。あいつは自分ルールにうるさい奴だった。木瀬はイヤイヤ誰かに付き合うってことなんて、しやしない」
「……うん」
だったら。どうして。その言葉を飲み込んで、わたしもビールに口をつける。
キリリと冷えた苦みが喉をすべり落ちていく。店内の暖房と、暖かな食事で熱をもった身体に、それはとても心地よい。
一五の時は、そろって麦茶ばかり飲んでいた。
アイスを買えば、さらにジュースを買うこずかいはなかった。まるで遠足みたいに水筒持参だった。
ビールを飲む自分たちなんて、想像もできなかった。
世界はずっとこのままで、特別な変化なんてない。そう思い込んでいた。
※ ※ ※
あの夏休み。
カレンダーに練習ありのまる印がつかなかったのは、土日と、それからお盆の間だけだった。
水島くんがひとりだけ塾の特別模試で休んだり。わたしがおばあちゃんの家に行っていたりで、三人が二人になる事はあっても続いた。
北海道の二学期の始まりは早い。八月の二十日過ぎには始まり。体育祭は九月の第一日曜日だった。
わたし達は水島くんの姑息な提案で、リハーサルの時はわざとゆっくり走った。
「性格悪いよな」木瀬くんが言った。
「水島くんだしね」わたしもふざけて言った。
「ふふん」水島くんは、どんけつになっても得意げだった。
「敵の視察をするのは、まっとうな手段のひとつだ」
意識する事もなくわたし達は、いつの間にかすごく近い者同士になっていた。
木瀬くんが、どうして一緒にするつもりになったのか。
水島くんが、どこまでクラス中を見返したかったのか。
そういう事を話したわけではない。どちらかと言えば全然内容のない、たわいのないおしゃべりばかりしていた。
ガンダムの再放送が、夕方に始まったけど塾で見られないと水島くんがぼやいたり。
中森明菜より。チェッカーズより。絶対ビートルズなんだと木瀬くんが力説したり。
わたしが持っていた「りぼん」の漫画を、男子ふたりがわりと真面目に読んだりした。
一五歳のわたしは二人に恋愛感情はもっていなかった。そう思う。一緒にいると楽しくて、すごく自分が自由になれる様に思えた。ふたりはわたしにとって仲間だった。
特別な。大切な。道しるべみたいにかがやく仲間だった。
あの夏の時間は今でも宝ものだ。
もし人生の転機というものがあるのならば、あの夏はたしかにそうだった。
気弱で、くずで、集団のなかで自分の立ち位置がはかれない「あまされもの」のわたしが、生き生きとできた。わたしだけではたどり着けなかった場所に踏み出せた。そこに行けたのは三人という、いびつなのに完璧にちかいかたちがあったからだ。
いち、に。いち、に。
幼いかけ声が頭のなかで蘇る。
ビールでほろ酔いになって、四十五のわたしも短く呟く。
「いち、に。いち、に」
水島くんの力強い声を覚えている。
木瀬くんの真剣な眼差しを覚えている。
幼かったわたしは、二人と一緒に変わりたかったのだ。
もっと自由に。もっと強く。このふたりと共に変わりたかった。
「いち、に。いち、に。いちーー」
※ ※ ※
「ーーに。いち、に、」
スタート直前。三人で足を揃えて、その場で足踏みをした
木瀬くんは速い。
けれどそれは、両隣のわたし達を考えない速さではなかった。
三人のなかで断トツに背がたかくて、速い木瀬くんを真ん中にする作戦は当たるはずだ。
「短距離みたいな瞬発的な速さは考えなくてよいと思うよ」
練習のなかば。木瀬くんが言った言葉を、わたしは足踏みをしながら思いだしていた。
「息を合わせる。それが一番大事だ。それさえできれば練習した分、俺らに勝算はある。信頼なんてあやふやものはいらない。そのかわり三人のうち誰も置いてけぼりにしない。三人で合わせて走れる速さと歩幅を、徹底的に覚えるんだ。そうしたら、絶対ビリにはならないはずだ」
笑えるくらい低い目標だった。けれどあのホームルームの時。いつまでも埋まらないふたりだけの名前を黒板から突き付けられて、しょげていたわたしには、木瀬くんの「ビリにはならない」という言葉は目標となった。
もうすぐ本番が始まる。わたしは白線に立って頭上を仰いだ。
空が青い。
九月の北海道の空は澄んだ青だ。湿度は低くて、さらりとした風が吹き抜ける。
「やるぞ」
水島くんが言った。
「焦ることないから」
木瀬くんが言った。わたしはふたりの言葉に、無言でおおきく頷いた。
スタートラインで肩を組む。
八グループが走る。まだ子供が多かった時代だ。景気は上向きで、時代そのものが爆発的な力を秘めていた。
一五歳のわたしは緊張で身体が震えそうだった。
スタートの合図が、たからかに鳴らされた。
わたし達は、共に声をはりあげた。
「そおれっ」
それはわたし達の、挑戦の一歩だった。