10/アルバトロスの夜
強い手だった。
おおきな手だった。
見知らぬ。背の高い。がっしりとした体格の男だった。
「おい」
野太い声で男が言った。
わたしは悲鳴さえあげられなかった。舌は恐怖で縮こまったまま、動くことを忘れていた。
派手な服装の男は、坊主頭だ。しかも、つるつるのスキンヘッドだ。同じ坊主でも、お坊さんみたいな穏やかさはない。眉毛もほとんどない。人相の悪さに、わたしは凍り付いた。
男はテレビの向こう側にだけ存在するチンピラとか、ヤクザな人にしか見えなかった。
恐怖にすっかり支配され、震えるわたしに頓着せずに、男がわたしの腕をひいた。距離が近づく。振りほどこうにも、男に掴まれた腕はびくともしない。
「おまえ。ふか中の三年だろ」
わたしの胸ポケットの記章を男が指差す。
ふかちゅうというのは、わたしの通う深越中学校の略称だ。
「そんでもって」
男は鋭い目つきで、探るようにわたしを眺めた。
「おまえあれだろ。木瀬の女だろ?」
「え?」
わたしは緊迫感のない。間の抜けた声を発した。
「やっぱそうか! 夜道だから自信イマイチだったけど、ビンゴじゃん!」
途端。男から凄みが抜け落ちる。明るい、くだけた口調になる。
「お、おそれいりますが」
男はすぐにも暴力をふるう素振りがない。
その態度に勇気を振り絞り、「どちらさまで?」と、尋ねた。
「村上」
「ど、どちらの村上さんで?」
「F組の村上大悟」
「エフグミノむらかみさん……あっ!」
わたしは改めて男を冷静に見つめた。
動揺していたし、そもそも髪型がまるで変わっていたので分からなかった。
わたしの腕を掴んでいるのは、金色のリーゼントだった同学年の村上くんに違いない。木瀬くんと共に、未だ学校に現れないツッパりの村上大悟だった。
深中のヤンキーといえば村上大吾と言われる程に、彼の名前は有名であった。
わたしは同じクラスになった事はないけれど、顔と噂は知っていた。上級生に呼びだされて喧嘩になっただの。無免許でバイクを運転して、追跡されたパトカーをまいただの。お酒を飲んで、繁華街で暴れただの。嘘か本当か定かではない武勇伝まんさいであった。
わたしは村上くんになかば無理矢理、「アルバトロス」という名の店に連れていかれた。
平らの屋根のうえに、見事な雪帽子をかぶっている、こじんまりとした店だった。窓は室内の暖房のせいで曇っていたし、扉はくろっぽい色硝子で中が見えない。普段なら入るのを戸惑うような店だった。
「ここ。サ店だから」
村上くんは慣れた感じで入って行く。
もう腕は掴まれていない。ここまでの道は、なんとなく分かる。逃げるなら今だった。
けれどわたしは村上くんの後に続いた。正直もうクタクタで、疲れていた。暖かくて、雪が防げる屋根と壁がある場所ならば、どこでも良い気分だった。
アルバトロスは、古びた内装の喫茶店だった。
お客さんは中年男性が二人だけ。カウンターに派手な顔立ちの女性が居て、煙草をくゆらせていた。
「いらっしゃい、って。なんだ、だいちゃん」
女性が村上くんを見て、名前を呼んだ。
「電話」
村上くんはぶっきらぼうな口調で言うと、カウンターの隅にあるピンク電話をかけに行く。わたしはどうして良いのか分からなくて、入り口近くに立っていた。
「だいちゃんの友達? に、しちゃあ真面目そう」
「こんばんは」
「こっち来て座れば?」
カウンターに並ぶスツールを指差す。
「あ、はい」
わたしはわずかばかり緊張しながらも、ありがたく腰をかけた。
店内の暖かさが、じんわりと身に染みる。ほおっ、と息をもらした。
「はじめて見る顔。だいちゃんの彼女?」
「いえ! 滅相もありません」
わたしの慌てた返答に、「面白い子」女性が口の端で笑った。
「変なこと言うなよ! ねえちゃん」
受話器を握りながら、村上くんが大声をだす。それには一向に構わず、「ふか中の制服だね」女性が言った。
「あ、はい。村上くんとは同学年です」
「懐かしい。わたしの時代と変わらない」
「あの。村上くんのお姉さんですか?」
「そう」
「嘘つけ」
電話が終わった村上くんは鼻を鳴らすと、わたしの隣に腰をかけた。
「母ちゃんの、妹。だからホントは叔母。なあ、腹減った」
「相変わらず飯まだかい。よっしゃ待ってな」
そう言いながらも、叔母さんでお姉さんは煙草を消すと、フライパンを手にした。その動作に、男性客二人が、「俺も」と手をあげる。おねえさんは無言で頷くと、冷蔵庫を開けた。
「なに? 今日」
村上くんが欠伸をしながら聞く。
「焼うどん」
油をひいたフライパンに葱やキャベツ、人参などと一緒に、輪切りの竹輪が放り込まれる。回しかけた醤油が跳ね、香ばしい匂いが店内に充満した。
いいなあ。
わたしはお腹がすいていた。けれど初対面の人に食べ物を強請るほど、人なつこい性格ではなかった。お金も持っていない。
「お前も喰うだろ。いいよな、姉ちゃん」
物欲しさが顔にでていたのだろうか。村上くんが決めつけるような口調で言った。
「え、いえ」
嬉しい申し出だけど、この状況に戸惑いが先に立った。
「食べなよ」
おねえさんが、手を動かしながら言う。フライパンの中では白いうどんが油と醤油にまみれて、てらてらと輝く。実に美味しそうだ。
「夜食兼だいちゃんの夕飯で、いっつも作ってる。あんたの分くらいあるからさ」
「あ、はい。じゃあいただきます」
「おう」
おねえさんは男の人みたいに言うと、「皿だして」村上くんに指示をした。村上くんが席を立つ。皿を出し、湯を湧かし、番茶をいれる。慣れた。無駄のない動作だった。
「そらよ」
うどんと番茶が村上くんによって、カウンターに並べられた。
「ありがとう」
「おう。喰おうぜ」
「いただきます」
わたしは手を合わせてから割り箸をわった。
こんな時間に。初めての場所で。話した事もない人達の間で食べた焼うどんは、熱々で信じられないくらい美味しかった。いつもなら苦手な葱の青い部分も、人参も。全部夢中で口にした。
「美味しい」
食べ物が喉から胃におちて行き、そこから体中が温まっていく。ありがたくて。美味しくて。なんだか涙ぐみそうになるご飯だった。
村上くんが、どうして夜道を行くわたしを追って来たのか。親しくないわたしに、なんでこんなにも親切にしてくれるのか。全く分からない事だらけだけど、本当に助かった。
「ごっそうさん」
村上くんはすぐさま食べ終わり、冷蔵庫から勝手にコーラを失敬して飲みだした。そして、「で、家出? それとも駆け落ちに行く途中?」とんでもない質問をした。
「あら! 駆け落ちなの? やるじゃない」
お姉さんがカウンターのなかで手を叩く。うどんを食べていたお客さん達が、チラとこちらを見る視線を背に感じた。
わたしは吹き出しかけたうどんを慌てて飲み込むと、「違う。ちがいますから」すぐに否定した。
「なんだ。残念」
お姉さんが次の煙草に火をつけながら言った。
「ちょっとお母さんと喧嘩しちゃって。それで家を飛び出して歩き回っていただけだから」
「本当か?」
訝しそうに村上くんが聞く。
「うん、本当」
わたしはそれだけ言うと、うどんの残りを多少行儀は悪いけれどかっこんだ。残すのは失礼だし、なによりゆっくり食べている場合ではなかった事に気がついたのだ。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
お皿をお姉さんへ手渡す。
「はいよ。お粗末さま」
「あの。今お金ないんです。でもゼッタイ返しにきますから。おいくらですか?」
「いいよ、そんなもん」
お姉さんはそう言ったけれど、そんなわけにはいかない。
「わたしすごく寒くて、疲れていて。それに怖くて心細くて。そんな時に村上くんに発見されて、最初怖かったんですけど、」
ここでお姉さんがくつりと笑い、村上くんがない眉をひそめて、「はああ?」ガラの悪い声をあげた。
「でもとても助かったんです。本当に助かったんです」
わたしがあまりにも勢い込んで言ったせいなのか、お姉さんはちょっと驚いた顔をした。それから、「じゃあ三百五十円」と言った。
「あ、はい」
「金とんのかよ」
そう言った村上くんに、「あんたも出世払いで払え」とお姉さんが言った。叔母と甥っ子で仲が良さそうだ。
もう少し休んでいたかったけれど、そんなわけにもいかない。お店の時計は、もう九時半を過ぎている。わたしはスツールから下りると、「村上くんありがとう。もう遅いから帰るね」そう言った。
「あんた。ふか中なら、家ここら辺じゃないでしょう? どうやって帰るのさ」
「歩いて……」
「駄目だめ。おんなの子一人で、こんな時間に危ないでしょう。だいちゃん。あんたもう帰んな。あんたでも、いないよりはマシだ」
「あ、それは大丈夫」
わたしが答える前に、村上くんが言った。
「こいつの迎え、もうすぐ来るから」
「え? どういう事?」
わたしの質問に村上くんは涼しい顔で応えた。
「水島医師に連絡しといたから」
※ ※ ※
「それを後で知った時の俺の驚きと、憤りはなかったな」
水島くんが言う。
それはそうだろう。塾から帰った水島くんに、「成沢さん、家出したみたいよ」と、お母さんが告げたのだ。
「木瀬の次は夏美さんかと、俺は絶望を感じた」
「そんな大袈裟な」
「いや。ホント。目眩さえ感じた」
「その節は、大変ご迷惑をおかけしました」
わたしは彼に頭を下げた。
「しかも一緒だったのが村上だと知った時は、ひっくり返る思いだった」
「村上くん、意外と良い奴だったけどね」
あの日の村上くんの行動はこうだった。
彼は借りのある(そう言ったのは村上くんだ)木瀬くんに会いに行き、そこで水島くんのお父さんと出くわした。
水島医師は、家を飛び出したわたしを探しまわっていて木瀬くんの家に行ったのだ。水島医師に連絡したのは、お母さんだった。
臆病者の娘が、いくらたっても戻って来ない。
塾に電話すると来ていないと言う。コートも荷物もないまま、一時間以上が過ぎた。お母さんの心配は時間の経過と共に増していき、わたしの数少ない友人である水島くん宅に電話をするという事態になっていた。
「で、医師にあった俺は、それを聞いて思ったわけ。これは木瀬に借りを返す機会だってね。ダチ公にお前を見た奴がいるか聞いてまわったらヒットした」
わたしはヤンキー間のコミュニケーション力に感心した。とてもじゃないけど真似できない。けれどわたしがひっかかったのは、そこではなかった。
「木瀬くんに借りって何?」
口にした途端、胸のあたりがことことと鳴った。
村上くんはアノ場にいた当事者だった。きっと木瀬くんの真実を知っている。
「あ、それなーー」
村上くんが口を開いた。
ピンク電話/飲食店などに、経営者が設置していた公衆電話。主に電話器の色がピンク色だった為こう呼ばれていた。
番茶/何故か北海道では緑茶ではなく、圧倒的に番茶をだされる機会が多い。そして舌を火傷するくらい熱い。




