第3話 マサラ
無機質な室内にカップが触れ合う音が響き、深く染み込むような香りが漂う。その部屋は、全面、機械とコード、光の点滅、また機械の振動と唸りに覆われ、カップを持つサカキの周囲だけが、それに飲み込まれるのを拒否していた。
「今日は地上へ行ってきたよ。喫茶店でコーヒーを飲んできたけど、やっぱり、ここのが一番だな」
返事はなく、サカキが話を続ける。
「マサラ、あんたは何もかも忘れちまったのに、美味しいコーヒーの淹れ方は忘れなかったな。管理官になって、ここに来る機会が増えたよ」
サカキは室内に設置された監視カメラを睨んだ。マサラを守るためのカメラか、マサラを見張るためのカメラか。それとも俺か。考えながら、わざと声を張り上げてみせる。
「Z指定者の行動を把握するには、電子網上の異状を確認するのが一番手っ取り早いからな」
「異状なし」
ぽつりとマサラが言う。
「あんたの頭はどうだい?」
「異状なし」
「そうかい。そりゃ良かった」
言い捨てると、サカキは自身が作成した報告書を確認した。
※※※
Z指定者に対する情報戦略(案)
1対象者
指定ファイルZ2
2通称名と行動パターン
人々の間では、畏敬や嫌悪、一部では共感を込めて、『電子網の魔女』または『ビー』と呼ばれている。後者はビーストからきていると言われるが、定かではない。
時折、女性型ドールで行動するが、他人の脳に入り込むことは好まない。たとえ入り込んでも、意識を上書きして本来の意識を消すことはないと思われる。
3情報戦略方針
一般市民に直接的な危害を加えないため、一部ではZ2に共感を抱く市民も出てきている。今後、Z2の世評を貶める情報戦略を進めていきたい。
4支援者の排除
個人では入手困難と思われる最新型の人形や回線機器を使用しており、複数の支援者の存在が推測できる。それらを把握し、排除していくことで、直接的な確保を容易にするだけでなく、Z2の孤立化を進め、情報戦略上の優位を確保する。
5旧市街の実態把握
指定者の活動拠点であり、逃亡先である旧市街について……
※※※
不意に警告灯が点滅し、電子網上の異状を示した。
「D62エリアで異状発生」
とマサラがつぶやき、サカキは、
「どいつだろうな。俺の担当でなければ良いが」
と身体を伸ばした。しかし、次の瞬間、身につけている無線機が震えだした。
「やれやれ、ビーか」
「嬉しいのか?」
不意に声をかけられてサカキは戸惑った。いたずらな少年のような目で、マサラが自分を見つめていた。
「マサラ……」
「自分の気持ちを隠して生きていくのは大変だな。私には無縁のことだが」
「おまえ、戻ったのか?」
「戻る? 不思議な言葉だ。私はいつも同じだ。何も変わらない。世の中は変わり続け、君の思いも変わっていく。しかし、私は私でなくなったが故に、私であり続ける。君の名前はなんだっただろう。覚えているんだ。しかし、思い出せない。確かに嬉しそうだった。しかし、苦しんでいる。君の仕事は何だっただろう。私は君の顔を知っている。しかし、名前は分からない。ああ、ここは何もかもが薄暗い」
電子機器が警告音を発した。
「D62エリアで異状発生」
「マサラ! 戻って来い!」
「異状継続。管理官による業務執行を要請」
「……担当管理官、すぐに出ます」
サカキは管理省に一報を入れると、モニター室の出口へ向かった。ドアを開けて振り返ると、無言でマサラを見つめる。
マサラは放心したようにモニターを見つめていた。異状継続、異状継続と繰り返し呟きながら、機械的な動きで機器を操作している。戻ってくるわけがないと思いながらも、サカキは拳を握り締めて吐き捨てるように言った。
「俺は、お前みたいにはならない」