第2話 オレンジシティー
かつかつと銀盤の通りを歩く音が響く。
その都市では建築物の高さに厳しい制限が設けられ、日の光を遮るようなビルは数えるほどしかない。必然的に都市は地下に長く伸び、逆に、地上は整然と区画され、ゆったりとした空間が演出されている。
しかし、その演出も、街の中心にある巨大な建築物によって無効にされ、無言の圧迫感が漂っている。その建築物は都市の管理者が使用するもので、都市内の道はそこから放射状に、遠く景色がかすむほどに伸び広がっている。
都市には無数の人間が居住しているが、一度に地上に出ることができる人数は限られており、街中が人混みに埋め尽くされるようなことはない。
今、閑散とした街中を若い男が足早に歩いている。かつかつと銀盤を踏みしめる男の足の下には、何千、何万の人間が生活しているはずだった。彼らの生活を踏みにじるように力強く歩いていく。
男が、犬を連れた中年の女性とすれ違った。
その犬も、街路や建築物と同じ銀色の金属でできていたが、男に何を感じたのか、生きた犬と同じようにその背に向かって怯えたように吠え立てた。
どこか人工的な香りがする風が犬の鳴き声を乗せて通りを吹き抜ける。さらさらと音を立てる街路樹も銀色に輝いていた。都市は地平線の彼方まで広がり、かつ地下数十キロにわたって、美しく整然とした銀色の金属に覆われている。
都市の中心部から、かなりの距離を歩いていた。本来であれば、地下の箱型移動車、通称霊柩車を利用するか、エアバイクを使用した方が効率が良く、歩くこと自体、無意味で、ある種反逆的な行為だった。
男は都市内の商業地区に入った。
そこには商業店舗や娯楽施設が集中して建てられており、地上にしては人通りが多い。
地区のはずれに懐古趣味の喫茶店がぽつんと立っていて、地上の時間を遊びに費やすよりも、じっくりと味わいたいと思う人々、あるいは特権階級でいつでも地上に出ることができる人々が、二十席ほどの店内を半分ほど埋めていた。
男は一人用の席に腰掛けて人々を眺めた。店内は広く、ゆったりとしたソファーが間を取って置かれている。地上の特権である穏やかな日の光も天窓から満遍なく降り注いでいた。
電子網が発達した世界では無用の長物と言っても良い書籍を手にしている者もいれば、電子網にアクセスしている者もいる。何人かの首にはプラグが差し込まれ、眠っているかのようだ。
もちろん、食事と飲み物、会話を楽しんでいる者も多い。また、中には本当に眠っているのか、店の片隅で首をうなだれて動かない者もいた。
若いウェイトレスが男にお絞りを運んできた。これも地下の店にはない懐古的なサービスだ。ウェイトレスが問う。
「お水ですか、それともオイルにしますか?」
「水でいい。あんたはオイル派?」
「はい。AIですから」
「ふぅん。最近は区別が付かないね」
「またまた、そんな。ちゃんとマークが入ってます」
ウェイトレスは額に記されたマークを示した。それを見もしないで、男は厨房の調理師を指差し、
「あれはどうだい」
「あれは単なる自動プログラムの人形です。私みたいに、質問に応じて考えて話すようなことはできません。料理の腕前は敵いませんけど」
「じゃあ、あれはどうだい。店の隅で動かないやつ。充電中の人形かな」
「いえ、お客様です。それも水派の方ですね」
「そうか、人間か。思うんだが、人間にマークを付けた方が簡単かも知れないな」
「そうですね。効率は良いと思います」
ウェイトレスは、にっこりと笑うと男の注文を聞いて離れていった。
男の席のすぐ横では、若い男女が食事を楽しみながら談笑していた。席には水とオイルが置かれ、聞くともなく二人の会話が聞こえてくる。
「それ、美味しいかい」
「そうね。キューブ料理にしてはまずまずかしら」
「俺も食べてみようかな」
「やめときなさいよ。毒はないけど、生身で食べても美味しくないわ」
「だよね。今度は君も生身で来なよ」
「日焼けするから嫌よ。また地下でね」
男は、二人の会話から意識をずらし、店内の壁に貼られたポスターをにらみつけた。銀色のメガロポリスと林檎の絵が描かれ、
『意識移行の完全開放を! 人形に移って永遠の命を得たいと思いませんか。政府は、死を強制する移行時間の制限を撤廃するべきです』
と主張が書かれている。
男はポスターから目を離すと、もう一度、店内を見回した。男の名前はサカキという。仕事上、会わなければならない相手が来る予定なのだが、目的の人物はまだ来ていない。
ウェイトレスがコーヒーを運んできた。コーヒーカップと皿のいずれにも、生身の人間用の水滴マークが入っている。
上着のポケットから古い本を取り出すと、ゆっくりとページをめくり始めた。その本は、今はすでに廃れてしまった旧時代の宗教が聖典としていたもので、現代では、読む者はほとんどいない。
古い言葉で書かれたままで、サカキも内容は分からないままに、なぞるように読んでいる。意味は分からなくても何故か落ち着く。そういうこともあると感じていた。
彼の中に迷いはなかったが、常に、押さえつけられた怒りが表へ出ようともがいているのだった。今日のような日には特に激しくなる。
だが、迷いはない。この世界で。
喫茶店に、疲れた表情をした40歳くらいの男が入ってきた。ウェイトレスにカフェオレを頼むと、ソファーに深く身を沈める。
サカキは、立ち上がると男の席へ向かった。
「コリンズさん?」
「そうだが。何か」
急に声をかけられて、困惑したような表情をサカキに向ける。
「手順なのでね。あなた、Z2にアクセスしましたね」
「それは…」
男は一瞬、驚いたような顔をして口ごもったが、すぐに小さな声で言った。「したよ。たいした話があったわけじゃない。ただ、伝えたかっただけだ」
「結構。抵抗されると、こちらも辛い」
「そうは見えないな。だが、あんたも自由じゃない」
「何のことか分かりませんね」
サカキは、内心の動揺を隠して許可証を取り出すと、男に提示した。
「10 月22日午後2時21分、自宅電子網回線を使用してZ2にアクセスした容疑で強制処分とします」
「いいさ。逃げても無駄だ。自宅の回線を使ったんだ。こうなることは良く分かっていた」
「そうですか」
サカキは、右手に持った銃を男に向けた。引き金に指をかけながら少しためらったが、静かな発射音が響き、男は、ソファーにさらに深く身を沈めるようにして息を引き取った。
注文のカフェオレを持って、ウェイトレスが席に近づいてきた。
「許可証を執行したんですね。遺体の処分とカフェオレの代金請求方法について教えてください」
にっこりと笑いながら聞くそれに対して、サカキが言う。
「とりあえず、笑うのをやめろ」
「はい。わかりました」
と答えながら、それはまた、にっこりと笑った。