第七話
目覚めは不躾とも言える携帯電話の着信音だった。
葵はあの後結局、非生産的な会話を楽しみながら酒を酌み交わし、いつも通りにキャラメルブラウンのソファで眠った。瞬きの間に消えてしまえと願った夢の内容は、残念なことにしっかり記憶されていた。ただでさえ悪い目覚めが、余計に悪くなる。
鳴り止まない着信音。
苛ただしくマルボロを口に運びながら、ディスプレイを眺める。そこには『安部』の名前。阿部は神崎の同僚であり後輩だ。お人好し選手権なんてものがあったら、即一位になるのではないかと思うほど、人がいい。
そんな阿部は、現在あのアルの担当を任されている。嫌な予感がひしひしとする。
いっそ無視してやりたいが、そうもいかない。そう思い煙草に火を点けた。
「はい、葵です」
「あ、あ、あ、あ、あ、あお、あお、葵先生いいいいい」
ビンゴ、と複雑な心境で、嫌な予感と握手を交わす自分の錯覚が見えそうな気さえする。アルの妄想癖が本当にうつったかもしれない。それは本当にどうしようだ。
「おはようございます、安部さん。どうされましたか?まずは落ち着いてください」
電話の向こうでは、半泣きの安部の声が響いている。葵はどうにかこうにか宥めすかし、用件を聴く。その瞬間に青ざめる。はっと見た自宅用電話機は受話器が横に置かれていた。在宅で不在かよ。通話を終え、溜息をひとつ。白髪が増えている原因の一端が健やかに睡眠を貪っているだろう寝室へ行くため、身体を起こした。その拍子に毛布が落ちる。それひとつで。葵は先までの不快がなりを潜めていることに気付いて苦笑した。
「どうしようもねぇな・・・」
殺風景ともいえる寝室の中央にある、ひとり分には大きいダブルベッドでアルは布団を抱え込むようにして寝ていた。壁に背中を預け、葵は呼びかける。
「グッモーニング、アル」
「・・・」
丸まっている布団が、その丸さを増す。アルは、多分無意識にもぞもぞと布団の中に潜り込んでいく。その様を見て、溜息をひとつ。
「・・・」
「誤魔化しても無駄だぞ。狸寝入りも無意味だ。」
近くで名前を呼ばれていると気付いても、布団の塊からは全く起きる気配が感じられない。仕方なく、ベッドに近寄る。
「・・・」
「そろそろ三点リーダーの使用にも飽きただろう?起きろよ、目が溶けちまうぜ」
「・・・葵?」
「横着して寝ながら確認すんじゃない」
「何やの、眠いんやからほっとけ」
寝起きの悪いアルは、そういうと布団に潜り込む。頑として、布団から出る気はないらしい。アルは葵の声と匂いで再びとろとろとした眠りに入ろうとしていた。寝汚いとか図太いとか、葵に言われる所以である。
「アル。いい加減にしないと床に引きずり降ろすぞ」
葵の呆れたような溜息に、夢うつつの状態でありながらアルは唇を鳴らして抗議する。
「阿部さんから伝言。本日の打ち合わせの件、覚えていますでしょうか?だとよ」
ぼんやりとアルの耳の中に葵の言葉が響く。
「・・・本日?」
「そう、本日。今日。Today」
「うっそ」
「めでたいね、ようやく脳まで届いたか?いい子だから起きろ、今は水曜日の午後一時だ」
ぱっと目を開く。真っ先に、至近距離で覗き込んでいる葵と目が合った。笑いを含んだ視線はからかいを多分に孕ませていた。ほんの数秒見詰めあい、そしてアルはようやく完全に覚醒した。
それからの行動は早かった。
身なりを整え終わっていた葵は、バタバタを走り回る音をバックミュージックに珈琲を飲みながら、煙草の煙を深く吸い込む。ばれなかった。至近距離で見詰め合った、あの瞬間。溢れてきそうだった。その正体は分からない。まるで、表面張力を破るような。
あの思いは、何なんだ。そんな思考に耽りながら、アルがソファに体をぶつけ、ガラステーブルに脚をぶつける様を横目で確認する。
相当だな、と紫煙とともに葵は吐き出した。ようやく着替えてきたアルに、告げる。
「送って行く。今のお前に運転なんかさせられない」
「おう。最初からそのつもりやで」
「・・・さいで」
完璧な女性を匂わせるような格好ではなく、いつも通りの白いTシャツにジーンズ姿のアルが顔を出す。サイズこそ合っているが、すっぴんで男か女か分からないような。
いつものアルだ。そのことに半ば安堵し、半ば不愉快になった。
「ほら運転手、早う!」
遅く起きたのはアルの方なのにまるで気にしていないような図太いところが、アルらしい。これは誰の模倣でもなく、アルの生来のものだろうか。葵はそんなことを思う。
夢から抜け出ていない気分だった。