第六話
少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
葵はその夜、夢を見た。夢であると、直ぐにそう認識した。
だが、認識したところで夢は夢のまま続いていく。体が起きない限りは。だから、葵はこのまま夢に漂うことにした。
多分、アルと出会ったばかり位の頃の夢のようだ。それならば、どんな夢であろうと構わなかった。何よりあの頃のアルが見られるなら。それはとてもいいことのように思えた。
知り合ってから驚くほど短い期間で二人は急速に仲を深めた。
勿論艶っぽい内容ではなく、アルの酔っ払いの介抱から、課題の手伝い、自分のアパートで何回飲み明かしたかしれない夜の数。
アルは頭の回転も速く、何より思考に柔軟性があった。
それが仲を深める一因になったことは確実だろう。ひとつの話題について議論を交わしても、同じ評価を押し付けてこないし、無理に与えようとしなかった。それが単なる馴れ合いだと判っていたのだろう。葵とアルは、あらゆる物に対して自分なりの価値観を持っていて、それ故に見解が食い違ったりすることは今でもよくある。
それでも、互いを否定せず理解してきた。
違う人間だから、違って当たり前。同じではなくても、否だからこそ、その上でアルを認めていた。
それは、今も昔も変わらない。
そして、二人で居ることが当たり前になっていることを不快に感じることも無かった。むしろ、ひとりで居ると逆にアルのことを考えるようになったりもした。何しろアルは大雑把で楽天的で呑気でマイペースで、しかも時間にルーズときた。
本人に怒っても、「やって、寝てたんやもん」と笑って返されるだけだった。そんなことを繰り返す内に、何故か自分がアルを許すようになっていたことに気付いた。
アルのペースに慣れ始めてしまっている。
それに気付いた時、自分はいつからそんな人間になったのかと葵は結構本気で悩んだ。他人と自分との壁にするりと入ってきた、存在。その存在を、認めている自分。葵は、それに恐怖に近い感情を覚えた。そんな存在がいたら、自分はもう他人に何も求めない。
そんな悩みの最中、急にアルが学校に顔を出さなくなった。
1日目はサボりだろうと考えた。
2日目は風邪か何かかと心配になった。
携帯電話を持っていないアルへの連絡手段は、住んでいる場所へ電話をかけることだけだった。そこまですることはないと言い聞かせて、葵は自分の部屋で煙草を吸った。灰皿にいつも見えていたセブンスターの吸がらは、埋もれて見えなくなっていた。
3日目は流石に必修科目やら何やら心配になった。
意を決して電話をかける。だが、繋がらない。自宅の電話で繋がらないって、何だそれは。幸か不幸か、住んでいる場所は知っていた。
いつだったか、葵のアパートへ行く最中にアルが「あそこ俺んちやねん」と言っていたのを葵は覚えていた。
しかし今まで行ったことはなかった。理由は特にない。
ただ、踏み込んではいけない場所のような気がしていた。
だが、そうは言っていられない。何せ、アルの学部仲間から明後日提出しなければ単位を貰えない課題を預かってしまったのだ。
何故俺が?理由は簡単だった。
学部の仲間の誰もがアルの住居を知らなかった為である。
アルは変わり者扱いされていたが、そのくるくるとよく変わる表情と人を逸らさない話術のためか、学内での親交は広かった。それなのに、誰も知らない?その時の感情を何と言えばいいのだろう。歳をとっても、よく判らない感情だった。優越感?それとも違う。
アルの触れてはいけない部分に触れてしまったような。
否、これからそれに触れるだろうという確信じみた思い。その予感に当時の葵はひたすら居た堪れなかった。
今思えば、怯えていたのかもしれない。
そして青い空が身を潜め始める頃、葵はアルの部屋の前に居た。
チャイムを押すが、返答はない。試しにドアノブに手をかけるとあっさりと開いた。
(アイツの頭には危機感というものが欠如しているに違いない)
本人が聴いたら憤懣やるかたないようなことを思いつつ、中を伺う。
「失礼します。明橋大学の葵と申します」
返答などは期待せず、一応の礼儀として声をかけてみる。期待通り、返答は一切ない。だが玄関に、脱ぎ捨てましたと言わんばかりの、草臥れて踵が無残にも擦り切れているスニーカーが転がるようにあった。アルがいつも履いていたものだ。踵を潰して履く癖があるから、間違いない。
(中には居るみたいだな)
お邪魔しますと呟き、葵は歩を進める。大学生が住むには随分高級そうなマンションだ。外壁や作りなど、シンプルながら趣向を凝らしているのが判る。だが、所々にある何も飾れていない額縁は何なのだろう。そんなことを考えつつ、リビングへと続くだろうと予想して、目の前の扉を開く。葵は一瞬、言葉を失った。視界に広がるリビングのセンスの良さに、思考が停止した。あの大雑把なアルが選び、配置したとは到底思えない。
しかも見るからにデザイナーズ家具ばかりだ。アルの性格から考えて、それらを好むとは考えられなかった。
(なんなんだ、一体・・・)
葵は呆然としながら、リビングを見渡す。二つの扉が目に入る。
ひとつには月が彫られた木製のプレートがぶら下がっていた。葵は躊躇なく、そのドアノブに手をかける。確信があったからだ。
この扉の向こうにはアルが居ると。内側に少し引いてみると、油のような匂いが鼻をついた。嗅いだことのある匂いだった。
それに気付く前に、葵はドアを開けた。
そして、息を、呑んだ。
正しくは、息が出来なかったのかもしれない。
もしくは、呼吸を忘れたのかもしれない。
葵は、目の前に広がる光景に、ただひたすら息を呑んだ。
十畳ほどもある室内はキャンパスや絵の具で埋められていた。
床には、デッサンと思われる紙とセブンスターの空箱、山となった灰皿が所狭しと散らばっている。壁にも、鉛筆で殴り描きしたようなものから、下絵段階と思われるキャンパスが散りばめられていた。
(まるで、宝石箱のようだ)
様々な色彩で溢れる部屋。躊躇しながらも、生来の好奇心の強さが一歩一歩を踏み出させる。心臓の音が聞こえるようだ。
どくどく、どくどく。
そんな中、ぽつんと置き去りにされたようなイーゼルに気付く。
そして、その前には毛布に包まりながら眠るアルがいた。
つい、苦笑が漏れる。
筆を握りっぱなしのまま気持ち良さそうに目蓋を閉じているアルに何故か安堵感を覚えた。部屋の片隅にあるソファではなく。イーゼルの前で寝ている辺りが実にアルらしい。
しかもそのソファは多分ベッドとして使用しているらしいと予想される。幾重にも重ねられた毛布。
それが冷え性のアル用だと物語る。
葵はアルの前まで歩みを進めた。大きめの窓から差し込む光がオレンジに変わっていく。起こすべきか否かを迷いながら、葵はイーゼルに置かれた横に長いキャンパスに目を向けた。
その瞬間、全てを奪われた。
感覚、思考、理性、呼吸、視界、聴覚、神経全てがそのキャンパスに向かっていた。
そこには、差し込む光を撥ねつけるほどの凄絶な蒼が広がっていた。青い海に最期まで光を失うことなく沈み行く太陽と夜が迫っているのだろう、海とは対象的な蒼い闇が描かれていた。
凄烈ともいえるほどの蒼。
表現のしようがないほどの、世界。
世界の終わりを内包しているような錯覚すら覚える。
眩暈がする。
途方もない。
(これが、アルの世界――)
初めて胸の軋む音を聴いた。
左胸が鼓動で痛い。
叫びだしたいような、優しく包み込まれたいような、突き放されたいような、突き放したいような。
目を閉じる前にねだるキスのような、そんな淋しさ。
よく判らない感情が胸を締め付け背筋を這い登ってくる。
天井が落ちる錯覚。
底が抜ける錯覚。
(・・・アルは、この蒼に、何を、重ねた?)
世界が弾ける、錯覚。
「月神!起きてるの!?」
不意に玄関から聞こえる声に葵の鼓動は思い切りよく跳ねた。
それでも、足はここから離れてはくれない。視線を外せない。
近付いてくる声に気付いていながら、それでも葵はキャンパスの前から動くことが出来なかった。
「あら?」
葵の存在に気付いたのだろう。声の主が不思議そうに此方に向かってくる気配がする。何か問われるだろうかと、ぼんやり思う。
だが声の主は、葵の隣に立ち、静かに絵を眺め始めた。それならそれで、構わなかった。葵はこの蒼に魅入られていたのだから。
そして、隣人の呼吸が止まる音を聴く。
静かに静寂が満ちる。
呼吸する間も惜しい。
焼き付けたい。
この世界を。
「・・・素晴らしい」
(全くだ)
どれくらい時間が経ったのだろうか。隣人のその言葉で夜の気配がしていることに葵は気付いた。
それに隣人も気付いたのだろう。薄めの紅を引いた唇の前に細い指先を立て、裾を引かれる。何となく名残惜しいまま、葵はその部屋を後にした。
葵はリビングに通された。促されソファに座ると、白い湯気が柔らかく上がる、見るからに温かそうな珈琲を出される。葵はそれに手を伸ばすことなく、目の前に座る女性に視線を向けた。
「申し訳ありません、勝手に上がりこんでしまい。明橋大学社会学部の「葵 和夜」と、申し、ます?」
名前の部分だけ声が二重になる。
それに驚き、葵は語尾に「?」を付けてしまった。
そんな葵に、にっこり笑いながら女性は名刺を差し出す。そこには『画商』の文字があった。
「初めまして、葵和夜君。私は月神の幼馴染で同居人の神埼マリア。今後ともどうぞ宜しく」
目元涼しげな、整った顔立ちの美人。だが、笑顔の裏に何かを潜ませていそうな雰囲気を持っている。それが葵の神崎に対する第一印象であった。
出された珈琲は静かに湯気を立てている。まだ葵の飲み頃ではない。
なぜなら葵は猫舌であった。葵は思う。
アルならば。アルならば、程よい温かさの珈琲を出してくれていた。
そう、不意に気付く。
「月神から話はよく聞いてるわ」
鉄面皮で気分屋で我儘で口が悪くて無愛想で女にモテる女嫌いで頑固で融通が利かなくて頭と顔と声だけが取り得の男ってね。
(最期のほうですらフォローになってない気がする・・・)
「あなたは・・」
「神崎よ」
「・・・神崎さんは、彼女の・・・」
「パトロン。というより、そうね。青田買いってところかしら」
「・・・青田買い」
言葉の意味をなぞるように復唱した葵に、神崎は笑みを浮かべる。
「月神の絵を見たでしょう?あの子には才能がある。それも大きくて言葉の意味も無に帰するほどの才能が。彼女の中には眠っている。私はそれを愛して、買っているの」
「だから同居を?」
その時。一瞬だけ神崎の瞳が切なそうに揺れたのを葵は見逃さなかった。哀しそうに、何かを撫でるような、そんな瞳だった。
「・・・月神には兄がいてね。まぁ、もう死んでしまったのだけど。その兄が明橋大の人文学部だったのよ。あの子は美大に入るのを止めて、兄の後を追うように、大学を変え、服装まで兄そっくりにしたわ。口調も何もかも、当時の兄のように、全てを模倣したの」
(それは知らなかった)
素直な驚きがあった。アルはアルだと思っていた。それが他者の模倣であったとは、裏切られたような気分であった。
その感情自体、身勝手なものだと判ってはいたのだけれど。
「でも、才能があった。周囲が放っておけないほどの、ね。」
「守って、いるんですね」
口にしてから、しまった、と思う。そんなつもりはなかったのだが、響きが皮肉を多分に含んでいたことに葵は気付く。これは紛れもない八つ当たりだ。
「あら、可愛い台詞」
神崎はそれを笑う。からかうような声音。鈴のような声がよく響く。
「思ってもないことは言うものじゃないわよ?そうね・・、エゴを押し付けてるだけよ」
エゴ、と葵は心中で繰り返す。その言葉に間違いはないだろう。守っている。他人から、周囲から。
アルのために、神崎自身のために。
「そう、エゴ。ふふ、不法投棄を見過ごせなかっただけかもしれないわ。綺麗なものを捨てて置けないの、私。貧乏性だから」
喰えない女性だ。そう思いながら、葵は所在の知れない苛立ちを覚えていた。神崎は薄く笑っている。瞳は揺らいでいた。
「私はね、」
静かな、密やかな、先ほどとは明らかに異なる声に、葵はカップに伸ばそうとしていた指を止めた。
「月神の兄、火神と付き合っていたの。だから、彼女が兄のように振舞うことに・・・」
その先は、互いに紡げる言葉がなかった。安堵感を得たのか、不安を感じたのか、その両方なのか。または別の何かを感じたのか。
それは、互いに分からなかった。
だが、葵はその事実に少なからず憤っていた。無論、身勝手な怒りも甚だしいものだ。自分だけ、彼女を知らなかったようではないか。
今までの時間が嘘だとでも言うのか。
半ば、八つ当たりのように口から出た言葉に、むしろ。
「その、お兄さんはセブンスターを愛煙されていましたか」
「ええ、そうよ」
むしろそれ以上に、哀しくなった。では、本当のアルは何処にいるのだろう。見えない部分が多すぎて、判らない部分が多すぎて。
感情が混乱していくのが判る。不在の証明が、明確すぎる。
それでは、存在の否定ではないか。否定、拒絶、拒否。存在の絶無。
臓腑が葵自身を焼く。
それが、許されている事実に、現実に、葵の臓腑は熱さを増す。
アルは、何処にいるのだろう。
ひとり、密度の濃い孤独の暗闇の中で。裸足で立っているのだろうか。深く、奥深く、底なし沼の中でひとり蹲っていないだろうか。
淋しくないのだろうか。寒くないだろうか。痛くないだろうか。怖くは、ないのだろうか。それを察したのか、神崎は口を開いた。
眼差しは柔らかさを帯びていた。優しく、どこまでも優しかった。
「月神はそれでも、あなたのことを話す時とても嬉しそうに話すの。面白い奴だって。楽しそうに。まるで年相応の子供みたいに」
神崎の眼差しは葵に向いているようで、向いてはいなかった。ドア越しのアルを見ているのだろう。慈愛という言葉が相応しい、その眼差し。それが、葵の苛立ちをほんの少し柔らかくした。
この人も、きっと迷いの中にいるのだろう。
「さて、私はこれからまだ仕事があるのよ。月神が起きたら何か食べさせてお風呂に入れて貰えるかしら。3日は何も食べてないと思うから。宜しくお願いね」
そういうが早いか、神崎は颯爽と出て行った。
何か理不尽な「お願い」をされたが、それは仕方が無いのだろう。
仕方が無い?
何故そう思えるのか葵自身、理解できなかった。
しかし、「お願い」されてしまっては仕方がない。
不意に背後で扉の開く気配がした。
「んあ、あれ?葵の幻想が見える。まだ夢ん中か?」
「現実だ」
肩越しに振り返ると、そこにはぼろぼろのアルがいた。もう本当にぼろぼろだった。服だけでなく顔にまで付いた油絵の具。伸びっ放しの前髪にすら絵の具が付いて所々固まっている。
けれども、なぜかそれが葵に安堵をもたらした。アルが、いる。
「お前、風呂入って来いよ」
「だって、腹減った」
「その間に何か作っとくから」
「ホンマに?よっしゃ!」
言うが早いか、風呂場があるだろう場所へ勢いよく向かう後姿を見て、自然に笑顔になる。アルのあの姿の、その全てが、模倣ではないと。確信めいた思いが、葵に笑みを浮かばせた。
さて、何を作ろうかと冷蔵庫に向かおうとした、刹那。
風呂場があると思われる方角から、勢いよく飛び出してくる気配を感じる。効果音というオプション付きで。嫌な予感ほど当たるというものだ。盛大な溜息を吐きながら、葵は目の前を脱兎の如く走り去ろうとしたアルの首根っこを掴んだ。
「葵!」
「俺は風呂入って来いって言ったんだぜ?」
「やって、描かなあかん。忘れてまう!」
その悲鳴のような声に、葵は一瞬怯んだ。手から力が抜けた。身体が、強張る。その隙をアルが見逃す筈がなかった。
「アル!」
何かから逃げるような後姿に、押し殺した声を掛けた。アルの、先の悲鳴のような声が、脳内で反響を繰り返す。叫びだしそうだった。怖かった。恐怖した。少なくとも、正常ではなかった。
それでも、間違ってはいない筈だから。異常であるとは思わない。
だからそんな、まるで覚悟したような目で悲壮な顔をしないでくれ。
「ん?何?」
幾分か落ち着きを取り戻したのか、アルは葵に視線を合わせた。
「・・・何なんだ、お前。どうした?なんでそんなに・・・必死な顔をしてる?」
葵の、何かに怯えてさえいるような顔に思わずアルは自身の頬を撫でた。必死な顔をしているのだろうか。よく分からない。アルは思う。何かを描く時はいつもそうだ。自分の感情がよく分からなくなる。ただ、描かなければと思う。描かなければならない、と。
「・・・描かんと困るんや。忘れてまう。忘れた時は、まあそんなん言っても仕方ないけど、思いついたんや。描かな」
「明日からでもいい」
「忘れたら困る」
「アル・・・」
葵が大きなスライドでアルに近付き、肩を掴んで揺すった。
思いの他、細く薄くなっている肩に驚く。
「何でそこまでして描かなきゃならない?」
言ってから、失言だと思った。むしろ、分かっていながら告げたのかもしれない。アルの存在が余りに不在過ぎて、不確か過ぎて。
それなのに脳裏に焼きついている。あの、アル自身の世界は明確過ぎて。アルの瞳に自分が映っていないことが、確かすぎて。
葵の質問は、アルからしたらふざけたもので、逆に驚いたらしい。
何故そんなことを聞くのだろう。そう表情が伝えている。
「葵?」
「何でだ」
「そんなん、君はよう分かってるやろう?」
アルの言葉に、葵は戸惑ったように目を見開いた。どうしたというのだろう。それとも俺は何か間違っているのだろうか。
そう互いに思う。少し自信が、正しく自分自身が揺らいだ。アルは慌てて葵の質問について考える。けれどやはり、答えは同じだ。
「どうしたんや、葵。お前もよう知ってるやないか」
変な葵。そう言って、笑うアルが余りに淋しくて、哀しくて。
どうしようもなくなってしまった。
先の言葉なんて聞かずに、このまま夢から醒めてしまいたい。
お願いだ。この続きは、見たくない。
祈る神も持たない葵は、それでも衝動的に夢の中で。決して届かない願いを、名も知らない誰かに叫び続ける。
受け入れたくない。受け入れてしまう自分を分かっているから。
認識したくない。認識できずとも、それでも離れることはないと知ってしまったから。
それは研ぎ澄まし究める。研究者としての志を持つ葵が、初めて「理解」を拒否した。拒絶した。
そして「可能性」という曖昧さを許した。最初で最後の現実だった。
「俺は描くことの他には、何も出来ないからやろうが」
どんなに学ぼうとも、世界の全てを知ることが出来ないなんて分かっていた。それを嘆くほど幼くはなかった。なぜなら、全てを知る必要なんてどこにもないのだ。人は全てなんて要らない。大事なことだけ、知っていればいい。
「それ以外、俺に価値はない」
扉の向こうに消えていく後姿をぼんやりと眺めながら、そう思った最初で最後の瞬間だった。
だから、そんなことを言わないでくれ。
自分の存在を、諦めないでくれ。
近々、違うお話も更新予定です。
爪先と同時進行しますので、もしスタートしましたらそちらも読んで頂ければ嬉しいです。