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爪先立ちのマリア  作者: 皐月
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第四話

長くなりました。

お読みいただければ幸いです。

アルの唐突な変化は、二ヶ月ほど前に訪れた。


その日、葵が所属している学会のひとつが京都でブロック大会を開催していて、遠方からも多くの関係者が集まっていた。

東京から来た准教授に、天月月神のファンなんですよ私は、などと聞かされたのはその三日前だ。

宮古というその男とは、研究分野も、それに年齢も非常に近い。

そうしたこともあって、何度か資料の貸し借りやデータのやり取りをしていたから、学会や大会で会えば必ず挨拶をしあい、時には懇親会の後に飲みに行ったりするようになっていた。

そんな縁だったので、葵先生実は天月月神と親しいそうじゃないですかどうして黙ってたんですか私ファンなんですよ!とまくしたてられれば、はあええそうですがと認めざるを得ないし、会わせて欲しいと懇願されれば肯かない訳にはいかないのだ。

幸いにもアルはさほど時間に追われていない時期で、こうこうこういう訳だと頼んだところ、二つ返事で了承してくれた。


近頃こんなことが増えてきたなと葵は思ったものだ。

アルは国際的にも評価され、初めて出版した画集は未だに売り上げを伸ばし、初版には高値までつくようになったと聞く。

認識を改める時期なのか。葵の友人である時のアルと、画家である時のアル。同一視してはいけないのかもしれない。

いずれにしても、アルが来られることを伝えると宮古はひどく喜び、当日などは、口頭発表を控えて青白くなっている学生に目もくれず、サインを貰うという色紙やペンを何度も確認して学生に叱られていた。想像を裏切られる羽目になると知らず。

そう思ったのは誰でもない、葵。

「しかし、葵先生が画家の先生とお友達とは。こう言っては失礼でしょうか?何となく意外でしたよ」

宮古は待ち合わせの店で眼鏡の曇りなどを拭きながら言った。

普段は落ち着いた男で、いつでも泰然と構えている癖に、今日の彼は何度も時計を確かめる。葵はかなり心配していた。どうもアルに対して過大な期待をしているらしい。

だが、これから来るのは、小洒落たレストランにもクラシックなバーにも、草臥れたジーンズと皺の寄ったシャツで出入りする女だ。

変わり者であるとは伝えたが、画家と言うのはどこかそうしたものです、などと知った風なことを言う宮古がアルのその変わりっぷりを目の当たりにしてどうするか。

見ものでもあった。

だが、あからさまにがっかりするのではないかと心配なのだ。がっかりする宮古もだし、されるアルもだ。気持ちのいいものではないだろう。何だってこんな面倒くせぇことを、と嫌になってくる。

「自分でも意外ですよ」

「ですよねぇ。でもまあ、私はそのおかげで彼女にお会い出来る訳ですし、何ら文句はありませんとも」

浮かれる宮古と一緒に、新たな酒を注文する。八時の待ち合わせなのに、宮古が急かすので三十分以上前に着いており、結局先に飲み始めてしまった。届いたビールのグラスは、早くも汗をかいている。

「ところで葵先生、どこかの誰かに告白されたんですって?」

危うく酒を噴出するところだった。

「・・・どこでそんな話を?」

「えっと、先生のゼミの女の子に聞きました。正確には、控え室で喋っているのが偶々耳に入りました」

「立ち聞きですが、趣味が悪い」

「訂正しましょう。聞いたんじゃありませんよ、耳に入ったんです。で、美人ですか?」

葵は断固としてノーコメントを貫いた。ほんの一週間前の出来事なのに、何と早耳なのだろう。宮古も、そしてその女学生もだ!

「そうそう確か、出入りの印刷会社の女性でしたね。半年前に担当が替わってから随分親密そうだったとか。学生さんは、大好きな葵先生が取られるんじゃないかという危機感を抱いてアンテナを張っていたらしいですよ」

「どいつもこいつも・・・」

「いやいや、羨ましい話です。おもてになる」

よく言う、と葵は苦々しく呟く。そういう宮古こそ、こんな遠方まで噂が聞こえてくるほど、女に対してはマメらしい。携帯電話の九十九%が女性名だという話もある。いつもきっちりとネクタイを締め、皺ひとつないシャツをお召しになっていて、どう見ても神経質なタイプなのに何故女にモテるのか、葵は不思議で仕方がない。

ちなみに葵は全くの逆で、ネクタイも着けていれば構わないんだろうという認識しか持っていない。

顔か?顔なのか?

ドアベルが鳴ったのでちらりと確認したが、アルが来たのではなく、カップルが帰るところだった。時計はもうすぐ約束の時間になる。

これはいつものように寝坊したか、と葵は宮古に聞こえぬよう溜息を吐き、何と取り繕うべきかと頭を巡らせた。アルのあの時間にルーズなところだけは何とかならないものか。つい先、神経質な男を敬遠したばかりで何ではあるが、あれはそういうレベルを越えている。しかも理由といえば、大抵「寝てた」だ。何だ、寝てた、って。

人として有り得ない。


またドアベルが店内に響く。今度は来店した客が鳴らしたもののようだが、やはりというかアルではなかった。

「・・・ったく、何してやがる、アイツは」

思わず葵はぼやく。すると何故か応えが返ってきた。

「あら。待ち合わせは八時やなかったん?すみません、お待たせしてしもたでしょうか」

今先、入ってきた女が横に立っていた。何だ宮古が他の女も呼んだのか?そう思って葵は顔を上げた。そして傾けていたグラスの中身を思わず吐き出しかけた。辛うじて堪えたが、逆に飲み込んだビールで噎せる。盛大に咳き込む。

軽やかな笑い声とともに、ハンカチが差し出された。

「いややわ、子供みたいに。大丈夫?」

見覚えのある、それこそ子供じみたブルー系のチェックのハンカチ。

「お、お、お前っ・・・」

絶句する葵の前で、なあんの邪気もございません、と言ったような笑みを浮かべているのは、アルだった。けれど、見慣れているのはハンカチの柄だけで、後は頭のてっぺんから爪先まで、全く見知らぬ女だ。色素の薄い柔らかな髪は流行りの巻き髪、見たことのないシンプルなペンダント。ナチュラルながらしっかりマスカラの塗ってあるアイメイク、ベージュ系の艶のあるグロス。白いカットソーのスクエアな襟元から、清楚なレースのコサージュが垂れている。

極めつけはスカートだ。光沢のある素材の黒いプリーツスカートが、形の良い膝を半分だけ隠している。

この女が足を出すときは、膝下で豪快にぶった切ったジーンズか、寝巻き代わりのハーフパンツと決まっていたはずだ。

その足もごく薄いストッキングに包まれ、おまけに莫迦みたいに細くて高いヒールを履いていた。

ストッキング?漬物にラップをする時も二回に一回はくっつけてぐちゃぐちゃにするアルが?

「ど・・・どちらのお嬢さんですか」

「葵ったら、君の冗談は面白ないから止めなさいって、いつも言うてるでしょう?」

誰だ!お前!

小首を傾げるアルに鳥肌が立った。もう何が起こっているのか全く理解できない。驚きすぎて思考が止まっている。

そんな葵に業を煮やしたのか、隣で宮古が立ち上がった。

「どうぞ、天月先生。お呼び立てしてしまって申し訳ありませんでした。外は寒くはなかったですか?」

宮古の引いた椅子に、アルはやはり見たこともない歩き方ですんなりと腰を降ろした。いつもは腹の減った白熊みたいに猫背でうろうろしている癖に、やけに女らしい。

そうだ、アルが女らしい。葵はそう気付いてから、限りない違和感にぞっと背中が総毛だった。自己紹介などし合っている声も喋り方も、全然違う。いつものアルから毒舌九十%減の半オクターブ上の皮肉七十五%減だ。皮肉だけマイナス率が低いのは、宮古にカクテルのメニューなど渡されて、『優しいんですね』などと言っているからだ。あれは、『一杯目はビールを飲ませんかい!』という意味なので、そこは少しアルらしくて安心する。とは言え、その牛がネズミの皮を被っているような無理無理な女らしさが、とってつけた感満点で気持ちがいいものではない。

宮古はひたすらアルだけに話しかけていたので、以後葵が黙りこくっていても座が暗くなることはなかった。十時を過ぎる頃に、彼は上機嫌で色紙を抱えて帰って行き、葵とアルも店からマンションへと足を向けた。いつもは、繁華街の車の込み具合を嫌って少し外れでタクシーを拾うのが常であった。

だが、今夜はアルがさっさと最初の空車に乗ってしまった。上機嫌で、鼻歌など唄っている。



マンションに着いてアルがヒールを脱いでから、ようやく、直ぐに車に乗った理由を知る。両足の踵が真っ赤になっていた。

「おい、何だよその足」

「うっわあ・・・。痛いとは思うてたけど、ここまでとは。っつか、こんなんやのに何でストッキングは破れてへんのやろうね?」

「観察する前にさっさと脱いで来い、莫迦」

寝室で、音がするほど豪快に服を脱いでいるらしいのを聞きながら、葵は廊下に収納している救急箱を出した。

リビングに戻ると、いつもの草臥れたTシャツとジャージになったアルが、胡坐をかいて煙草を吸っていた。

「ほら、足出せ」

「ん」

ラグの上でうつ伏せになったアルは、手探りで灰皿を床に下ろし、煙草を吸い続けている。葵だって吸いたいのに、この態度。

脱脂綿をピンセットで挟み、たっぷり消毒液を含ませる。ちょん、と傷口に触れさせる。すると、アルは物凄い速さで蹴りを繰り出してきた。辛うじて避けられた、という不意打ちだったのだが、声もなくのた打ち回っているアルがちょっと可哀相で、葵は許してやることにした。

「動くなよ。危ないから、煙草も消せ」

「ぬほおおおおおおう、むむむ・・・・っ」

およそ文明人が発するとは思えない警戒音を発したが、大人しく煙草を灰皿にねじ込んでいる。今度は動かないようにと、その生白い足首を握る。その細さに、驚きで息が詰まった。

けれどそのことを、アルに悟られてはいけない気がした。

脱脂綿で、痛々しい踵をそっと拭く。小さく柔らかい踵。

葵は、丁寧に赤い血を拭った。薄い皮膚が赤く熱を持っていて、そこだけ光を発しているようだ。赤。警戒信号の、色彩。

「・・・あんな靴履くからだろうが。今まで履いたこともない癖に、何の真似だ?」

「んー?いや俺もいきなりアレはないって言うたんやけど、神埼さんがな、普通の女は履けるんやって言うからさあ」

なるほど、なかなかセンスの良い見立ては神崎のものだったらしい。

彼女はアルとは正反対の女だ。

女性らしさをよく知っているし、それを生かす術も知っている。

「靴だけがどうって話じゃないだろう。急にどうしたんだよ。全部新しく買ったのか?」

「そうや」

「何で」

「だってなあ?」

なんだよ、と葵は言いながら、傷テープを貼り付ける。救急箱を仕舞うと、アルはのそのそと起き上がる。そして、テレビをつけた。

「だって、君の友達に会うのなんて初めてやんか」

「ああ?初めてってことはないだろう」

「いいや、正真正銘初めてやね。共通の友人もおるし、ゼミ子らとかに会うたことはあるけど、君の友達ってのは初めてやもん」

葵ははたと考え込む。確かにその通りな気がした。葵のプライベートな交友関係というのは、ほとんどがアルの集合にすっぽり入っている。宮古はその中から珍しくはみ出した存在と言えるのかもしれない。まあ友達というほどのレベルではないが、他の関係者よりは多少プライベートな時間を費やしているだろう。

「で?それで、俺の友達だと何でああいった格好をするってことになる?」

「君が恥ずかしいんやないかと思って」

「・・・は?」

今日のアルは全然理解出来ない。最初から最後まで、何を言っているのか分からない。ぽかんとした葵に、アルは真剣な顔をした。

「可愛くなくてだらしない女と一緒におるの見られたら、恥ずかしいんやないかと思って」

「はあ?」

葵は呆れた。

「お前の女らしさと俺と、何の関係があるんだ?」

そう言うと、アルは唇を変な形に尖らせた。斜め上を睨んでいる。

「・・・ま、ないわな」

そう言い置いて、アルはさっさと洗面所に消えた。

訳が分からない。残された葵は結局アルが何をしたかったのか分からないまま、彼女がメイクを落としたつるっとした顔で出てくるまで、煙草を吸うのも忘れぼんやりとしていた。


あの日から、アルはおかしくなった。

元々おかしくはあった。それに、輪をかけて更に方向も変えて、おかしな人間になった。靴擦れしていた癖に、アルはその後何度も女の格好をして待ち合わせ場所に現われた。ワードローブも増え、毎回違う服を着るくらいだ。最初の夜のあの黒い華奢な靴はさすがにもう履かないが、それでも今までに比べたら高いとしか言いようがないヒールを鳴らしてやってくる。一度など、校内にもその格好で来て、助手の熊谷に手放しで褒められていた。


何がしたいのか、さっぱり分からない。


とても良く知っていると思っていたアルが、今では未知の生物だ。

だから、妊娠が嘘か本当かなんて聞かれても、葵にはもう本当が何かということなんて分かる筈がなかった。



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