第三話
連絡もなしにアルが借りているマンションのビジタースペースに車を止め、九階に上がる。インタフォン越しに来訪を告げると、妙に快活な声をしたアルが応え、しばらくして鍵が開いた。
「よう、いらっしゃい。なんや、えらい不機嫌そう」
「うむ」
「まあ入り、俺が愚痴でも何でも聴いちゃるから。もーっ葵ったら、俺がおらんかったらダメなんやから!」
どうやら作品を描きあげた後らしい。
筆を持ったら最後、寝食忘れて描きあげてしまうという、集中力が傾いている傾向が強いアルのことだ。今回もそうなのだろう。寄れたシャツや腕に絵の具が付いている。その後のナチュラルハイなテンションで葵を招き入れたアルは、頭のてっぺんで結んだ前髪をぴよんぴよん揺らしながらリビングへと駆け戻っていく。
以前に葵が、そのちょんまげ止めろよと言ったところ、ごく普通の顔で『これは妖怪アンテナや』と返されてしまったので、以後はもう突っ込まないことにしている。
そんなことを考えながら、リビングのドアに消えた後姿の、最後に見えた踵のおそろしいほどの華奢な形に、葵は眩暈を覚える。
二ヶ月ほど前、夏も半ばを過ぎた頃にも葵はその同じ踵を見て。同じことを考えた。十数年にも及ぶ付き合いの中で。天月 月神が女だということをはっきりと意識した。
最初の瞬間だった。
「ほんで?どないしたん?」
テーブルに身を乗り出して大きな目を輝かせているアルから葵は微妙に視線を逸らしつつ、シンポジウム用の論文についてこう言われた、ああ言われたと、かいつまんで説明をした。
ジャケットを脱ぎ、靴下を脱ぎ、両方まとめて放り投げる。アルは葵の話に頷きながら、思い付きをぽんぽん喋る。それを葵は端から却下していく。
そうしながら、論文について、主観的な視点と、客観的な視点を同時に持ちながら、俯瞰し、肉薄する視点を得ていく。
葵は気付いていた。
おそらく、苛立ちは払拭されたことに。
話を聞くうちにアルもそれと気付いたらしく、ことんと首を傾げる。
「ま、あれやな。大変そうではあるけれども、そないに難航しとるって訳でもなさそうやないの」
「まあな」
「そら良かった。じゃあ何で君は、あんな不機嫌やったん。ちょっぴり肩透かしやんか」
葵は溜息を吐いた。
そして氷も無しにグラスに注がれただけの麦茶を、ぐいと飲み干す。
ぬるい。だが、ないよりは、幾分かマシだ。
「俺が不機嫌な理由はそこじゃない。否、訂正させてくれ。不機嫌なのは俺じゃない」
「はん?」
「事件は我らが母校、明橋大で起こったんだ」
「なんや、ゼミ生が独断と偏見で校内を封鎖したんか」
「否、封鎖されたのは熊谷助手の心の扉だ。しかも俺だけ限定で」
「ああん?」
さっぱり理解出来ないと言うようにアルは眉を寄せる。葵はそれとなく深呼吸をした。喉がやけに渇く。
「お前が妊娠した、と叫んで逃げていった。ちなみに僕の女神が穢されたとか抜かしてたな」
葵は平静を装って言い切った。アルはきょとんとし、それからすぐに口笛を鳴らしてニヤリと笑う。
ああ、失敗したな、と葵はため息を飲み込んだ。
装った仮面はアルには通じなかったらしい。まさに道化だ。
「そりゃ大事件やなあ」
アルは喰えない女だ。葵は、長い付き合いからそれを嫌というほど知っていた。
女というものは、感情を隠すことが出来るし、顔で嘘を吐く。
そしてアルはそれに加えて、人を騙すことが好きで、それが嵩じて職業になったくらいだ。腹黒いことこの上ない。しかも腹の黒さを天使の顔で覆い隠す。
葵はそんなアルに何度か「面白いから」という理由だけで騙され、煮え湯を飲まされたことがあるので、疑り深くなっている。
そしてアルは笑いながら怒ることすら出来るので、今ニヤリとしたからといって、面白がっているとは限らない。
葵がそれらを知っていることをアルも知っているのだ。結局本心は見えない。葵は注意深く、アルの顔を見る。
「で?」
「なんや」
「いや、感想は?」
「さあなぁ、そもそも、何がどうなってその話が出たんや?」
「ソースってことか?いや・・ちょっとそこまでは聞けなかった」
「おや、葵にしては手抜かりやないか」
莫迦野朗。
腹の中で毒づく。友人で親友が妊娠したなんて、平気な顔で聞いていられるもんか。
「俺だってその場の空気くらい読むんだよ。とても聞ける雰囲気じゃなかったし、事の真偽はお前に直接聞けば済むと思ったしな」
「空気読みすぎ、でも空気読めてないで、葵君。っていうかその流れで熊谷君がどうたらって言う話になんねん」
「だから・・・誤解があるんだろ」
殆ど投げ遣りな調子で告げる。喉の渇きが増す。口内がやけに粘つく、言葉が喉と舌に張り付いて上手く音にならない。
そんな葵を横目に、アルがこくんと小首を傾げながら、誤解、と繰り返す。
そうだ、誤解だ。
「だから、よく分からないが、熊谷君はお前を気に入ってるんだろ。それでその・・・相手は俺だと誤解したんだろうさ」
「あはん。成る程」
自分でも腹が立つほど歯切れが悪い。アルがニヤニヤしているのは、そういう態度を面白がっているからに違いない。獲物を狙う猫のように、笑っている。
確かに、今まで自分達の間には一切なかった話題だ。
子供とか、将来とか、セックスとか。タブー視していたという訳でもないが、他に話すことなら幾らでもあり、他にすることも幾らでもあった。入り込む余地がなかったのだと思う。
噂の事実の是非について、婉曲な問いを先アルは何気なくかわした。はっきり聞けない自分にも腹が立つ。それに、いつもは無駄に先読みするアルが答えをはぐらかしている。その事実が、何より気に入らない。
「早めに否定しておけよ」
「え?相手が君やってことを?」
「莫迦、そんなことは俺が一番よく知ってる。噂の実情を、だよ。すぐに手を打たないと校内どころか関西一帯に広まっていくぜ?」
なんだか居た堪れなくなった。自分からこの話題を出したことを後悔する。話を切り上げるつもりで、語尾が終わる前に立ち上がりキッチンに向かった。相変わらず手当たり次第な買い物をするアルの冷蔵庫を眺め、何を作ろうか考えた。
「すると君は、嘘やと決め付けとる訳やね?」
背後からの声に、ぐるりと振り向く。
「・・・・ああ?」
尋ね返しながら、テンションの上がったアルの手元に今夜はビールがないんだなと、そんなことにぼんやりと気付いた。