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爪先立ちのマリア  作者: 皐月
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第二話

背の高い男は、端正な顔立ちだけでなく雰囲気にすら滲む不機嫌を隠そうともせず、ジャケットを車の助手席に放り投げた。

そして、煙草に火を点ける。紫煙を燻らせ体全体を包む虚脱感に溜息を吐く。


年の頃なら三十歳前後、黒髪を適当に後ろに流し、男にしては厚めの唇からフゥと紫煙を吐き出した葵和夜―日本でも有数の最高学府である明橋大学法会学部准教授―は愛車の機嫌を伺うようにエンジンをかける。

教授から有難いお小言を頂いた後の葵は相当に不機嫌であった。

しかも、それに輪をかけて。むしろ今日に限って、同僚とも言える准教授たちからこぞって捻りのない嫌味を直接的に、或いは間接的に押し付けられた。鉄面皮とあだ名されるほどに、葵は冷静であることを常に己に課していた。人前では必要がない限り殆ど笑わないし怒るということもしない。感情の起伏というものが実に乏しい人間である。

また、整った容姿がそれに輪をかけるのだろう。

存在をひとまわり大きく見せる。

だが、葵は彼らに全く注意を払わない。興味がないこともあるが、必要が無かった。

葵にとって彼らはいないも同然だった。

それがどれだけ残酷なことか、誰に幾ら言われても理解は出来ない。

自分はそういう人間なのだ。

そして残念ながら、葵は見つけてしまっていた。人を切り捨てて憚らない部分までするりと馴染んでしまう人間を。そんな相手が傍に居てしまったら、自分はもう他人を求めずに済んでしまう。残酷なままで生きていけてしまう。

傍に居たのなら、どんな孤独の圧力にも耐えていけるだろう。


そもそも葵は若くして准教授にまで上りつめたこともあり、嫉妬や羨望の的になることは日常の一部である。

それでも、やはり他人の悪意ないし敵意は、無意識の内にまるで精神を磨滅するかのような疲労を与えた。

しかも、畳み掛けるように助手からは今にも怒り狂うんではないかと思われる形相で、要らぬ情報を貰ってしまった。


葵はシートからぼんやりと紫煙に滲む外を眺める。

夏も終わりに差し掛かった夕焼けが、車中を満たし始める。

(廃車寸前の仮にもベンツを貰い受けた時も、この頃だったな)

よくよく見ると相当にぼろく、しかもあちこちとへこみの付いた年代物であることに気付いてはいた。それでも研究の手前、車はあるに越したことはない。不便ではあるが研究費用をこれ以上割きたくないと考えていた葵にとって、車を譲ると言う知人の申し出は(その頃は)天からの恵みにもひとしかった。その仮にもベンツを見て、十年来の親友は「なかなかどうして、アートな見た目にも関わらず大事にしとるんやね」と笑った。

その親友のことを思い出し、先ほどまでの不機嫌が幾分か収まっていることに気付き、葵は独り苦笑した。

しかし葵は理由を持って、解決したくもない疑問を持って、親友の元へ車を走らせなければいけない。全くもって、不本意極まりない。

だが、仕方ない。車を走らせよう。親友の元へ。


オレンジ色が少しずつ紫へと色を変えていく。

(夜が近いな)

そして、葵はハンドルをきった。


そもそもの出会いは十九歳の頃に遡る。

まだ新歓コンパが引きも切らず、鴨川デルタが即席の宴会場と化す頻度が高い5月の折のことだ。法学部の葵は、あらゆる講義に聴講生として顔を出し、専門学部生顔負けの授業態度に教授陣の覚えも良かった。

だから、人文学部の講義開始前に葵が会談教室に居ることも学校内では日常であり、いつも通りに葵は教室の一番上の隅に目を向けた。

珍しいことに先客がいた。

時計を見ると、講義開始まで時間には幾分かの余裕がある。珍しいこともあるもんだと、その一つ席をあけた隣に座る。


葵は自分が学内でどう噂されているのか全てではないが知っていた。

そのせいか、俄かに賑やかになった構内ですら、葵の席の近くには余り人が座らない。そのほうが楽だ。希薄な人間関係も、他人に煩わされない生き方も自らが望んできた。他人を遠ざける傾向には自覚がある。それは厳然たる壁だ。自分と他人との。


講義開始の合図が鳴る。すると、隣の男はいきなり白紙の紙を取り出し、せこせこと何かを描き始めた。横目でそれを眺めながら、葵はそいつが男だと信じて疑わなかった。


その頃、側に寄ってくる女というのは、親の目を離れて色気づいた若者達であった。流行の化粧とニュアンスパーマな髪にファッション雑誌を真似たであろうフェミニンな服を纏う、そんな存在だった。

だから、微かに背を丸めた格好で内職をしているそいつの髪が、耳の下辺りまで伸びっぱなしになっていたり、飾り気のない明らかにサイズオーバーなシャツとジーンズだったりするだけで。女とは思いもしなかった。

むしろ、男にしては髪が長くて華奢な辺り、チャラ男っぽいとすら思った。

不意に彼が顔を上げ、そのまま背中越しに振り返る。

つられる様に、葵も彼の視線の先を追った。

先ほどまで抜けるような青い色彩だった空が徐々にオレンジに変化していく様をとり付かれたかのように、微動だにせず眺めている。追い詰められたような切迫感すら感じる眼差し。彼の周囲だけ時が止まったような錯覚。その揺るぎ無く真っ直ぐな深い孤独に葵は刹那、見惚れた。息を呑むように深みを帯びていく眼差しから視線が逸らせない。と、不意に彼の視線が揺れる。

(ああ、勿体無い)

そう感じた自分に心中狼狽しながらも、そんなことはお構いなしに彼はふぅと深呼吸をし、再び紙に視線を戻した。こちらの存在など全く眼中にない、その振る舞い。

しかし、葵は見てしまった。眼差しが揺れた後の、無垢とも言える無防備な瞳。まっさらで透明な瞳と、そして微かな笑顔。それもあり、また、決して絵を描くような種類の男ではなさそうなのに、というのがそいつの絵に興味を持った理由だった。

しかも、勝手に見てみれば、騙し絵であったりもしたものだから、益々興味を惹かれたのだ。とはいえ、問題提示なら誰でも出来る。

結局のところ描き手がどんな人間かを知るには広げた風呂敷をどう畳むのかに掛かっている。


葵は講義の後、これは作品かと聞いた。

それは、彼がどんな人間かを知りたかったからだと言える。

だがその時に知ることが出来たのは、そいつが画家の卵であることと、そして彼ではなくて彼女だったということ、だ。

あの階段教室の夕陽の下、色素の薄い髪と瞳がメープルシロップのようにとろりとしていて、今にもオレンジに同化してしまうのではと思うほど儚げに見えた。

(昔の俺は本当に大莫迦野朗だったよなと思う位に、その想像はいっそ気持ちがいい程に裏切られる)

立ち上がり向かい合った彼女は、すらりとした長身ながら、喉や手首の細さや肩が男ではないことを主張していた。

だが、女臭さを感じもしなかった。

多分それは女性らしい特徴が少ないこと、まぁ少ないと言うか足りないと言うかサイズ的にむしろ特注的な辺りが原因かもしれない。

さらには言動もたいした奇抜さで、彼女は自分を俺と呼び、化粧もせず、いつも兄と兼用だという野暮ったい服を着ていた。階段教室から喫煙所まで歩く間、彼女はよく笑った。

「明橋始まって以来の秀才って君かぁ。なんや、想像と違ってたな。想像やと、七三分けの眼鏡で色白もやし君やったのに。」

主に、校内での葵に対する噂、評判などを笑いの種にしながら、彼女は楽しそうに笑う。その度に、薄い唇に銜えられているセブンスターが揺れていた。


女らしさを押し付けてくる女たちに辟易していた葵は、変わり者扱いされていた彼女にむしろ好感を抱いた。といっても、それは決して特別な感情ではない。むしろ男同士のさっぱりとした関係を築き上げたことが、自分の人生で最大の功績だとさえ思う。

だからこそ自分達は、こんなにも長い間友人でいられたのだ。

恐らく、共有した時間は人生で最も長いだろう。二人でいること、二人で話すことというのは、もう日常だ。当たり前にあるものだ。

そんな彼女の名前を天月 月神という。学生時代から、友愛と皮肉を込めてアルと呼んでいる。それは現在も変わらない。


勿論、ひとつも変わらないことなんてない。だからアルだって学生の時と全く同じということは決してないし、自分だってそうだ。

けれどお互いの変化はお互いがその過程をつぶさに共有して来たにひとしいし、だから変わったと言っても、緩やかな速度がそれと感じさせないことが殆どだ。アルが住むマンションだって、葵とアルで一緒に探して決めたものだ。彼女が画集を出版した時にも、最初に報告が来た。葵にとってアルは唯一無二であり、変わらぬ友だ。

否、――――だったのだ。


あの時、あの踵を見るまでは。



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