第一話
夏も半ばに差し掛かる頃。
生殺与奪権を握って離さない太陽が暴力的な暑さで地上をいたぶる日が続いていたが、ふと気紛れに涼しさが戻ってきた。
色素の薄い髪を風に靡かせ、アル―十年来の親友が多分友愛と多大なる皮肉を込めてつけてくれたあだ名だ―は洗車しようと思い立つ。
アルは画家として生計を立てていながら、その経歴は少々変わっていた。そんなアルが、唯一絵を教わったといえる先生から頂いた車はその当時から廃車寸前だった。
車中は外見と違って綺麗に手入れされていて、何だか愛着に近い感情が湧き、笑顔で貰い受けた。
しかし、たださえ廃車寸前といった風体なのに、埃を被っていては流石に車も可哀相だ。洗車場で『そんな車洗っても意味ないだろう』という視線を感じる気がするのは多分アルの被害妄想でしかなく。それさえ気にしなければご機嫌だった。
いつもだったらワックス掛けのあたりで嫌になるものが、今日は一気に終わらせた。珍しいと自分自身ですらそう思う。
外気に晒された水を扱った手は冷たくなっていたが、額はうっすらと汗すらかいている。気持ちのいい日だ。アルは自他共に認める引きこもりである。その気になれば何週間も誰とも口を利かずに暮らせるだろう。自覚があった。アルは孤独を愛していた。
それだけが自分の世界を、自己を完結させることができるからだ。
皮肉の応酬が大好きな親友もそんな自分を知っているだろう。
上機嫌のままアルは、カーラジオからダッシュボード、シートにマットレス、車内も掃除をし、最後に内側から窓を拭いた。するとフロントグラスがやけに汚れている。雑巾を見下ろし何故だろうと考えていたが、すぐにヤニだと気付く。
アルは殆ど、というよりは滅多に車を運転しない。そして喫煙家であるにも関わらず、車に乗っている時は余り煙草を吸わない。
そう言えば、煙草の煙は自身の空間を作るための手段だと聞いたことがある。アルが車に乗る時は、その必要がないせいなのか。
ならば。親友がこの車に乗る度に吸うマルボロのヤニがフロントグラスにこびり付いたのだろう。見た目では全く判らなかった。稀にだが、運転する時ですら汚れが気になったこともない。この汚れは見えないほどに、気付かないほどに、透明に薄く薄く、だが確実に積もり重なっていったものだった。
そうして、アルは大学で面倒くさそうに教鞭を振るい、講義をしているだろう親友を思う。アイツの姿を頭に思い浮かべると、いつも笑顔なのは何故だろう。自分に向かって多彩な表情を見せ続けた親友。不機嫌そうに顔を歪ませたり、口の端を皮肉に吊り上げたり、キッチンに立つ姿勢のいい背中、怒りで紅潮した目尻、煙草を吸う時に目蓋を伏せる癖。それでもやはり、とアルは思う。いつも一番に思い浮かべるのはあの笑顔だ。
アルが初めて画集を出したのは、寒さが厳しい冬の頃。嬉しさの余り、雪が降る中走ったことは今でも記憶に鮮明だ。
―おめでとう―
ただその一言が嬉しくて、深みを帯びていく眼差しに泣きそうになりながら、アルはただその言葉に頷いた。
彼に会いたくなった。何故か息苦しい。
胸を抑えて、依存症か何かのように、今にも震えだしそうな身体をアルは冷えた手で宥めるように摩る。
「季節のせいやな・・・」
自嘲しながら、人恋しい、そんな季節が訪れるからなのだ。きっとこれはそのせいなのだろう。
自分に言い聞かせてみても、やはり事実は変わらなかった。
今、彼に会いたい。ただ無性に会いたいと、アルは初めて思った。会って何がしたいとか、何が出来るとか。何か、という具体的な欲求がある訳じゃない。それでも、どうしようもなく会いたい。今。彼と会わずにいることは、アルの何かを渇かせた。
このまま会わずにいたらと考えると、一層胸が苦しくなる。
そして唐突に。本当に唐突に気付いてしまう。気付いてしまうと息苦しさは消えた。
それと同時に、アルは奇妙な晴々しさに切なくなった。だが、戸惑いも後悔も不思議と感じない。それはすんなりと胸の奥深くに着地して、当然のように場所を定めてしまっている。
フロントグラスに積もった汚れと同様で、自分達もそれと気付かずに時を重ねて此処まで来てしまっていた。一緒に過ごした時間はこの上なく大事なもので、誰にも、無論自分達でさえ侵害出来る物ではない。
それは動かし難い事実だ。
だからアルは、その時間達を今この瞬間でも後悔はしていないし、むしろ愛してもいる。だからこそ、思う。
今になってこんなものに気付いた事実が。ひたすらに切ないのかもしれない。
今、彼に会いたい
アルは、フロント越しに空を見上げた。夏の空は颯爽と青く高くどこまでも続いている。
アルは、彼が―――恋しかった。
たった今、アルは遅すぎる恋に落ちた。けれど。だったら、せめて。そう思わずにはいられない。愛なんて覚えなくても、よかったのに。徒花よりも咲く甲斐のない想い。だから、そんなもの。
覚えないまま、過ぎてしまえたら。よかったのに。