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『銀狼の恋の物語』 ⑩

(このままでは、まずい)

 

 チェーザレは倒れる彼女を抱きとめ、素早く辺りを見回しました。  

 来るべきではない。そう思っていました。  

 だが、来てしまった。  

 危険を冒しても、ここまで来ずにはいられなかった――


 それでも、彼には、姿を現すつもりはありませんでした。  

 リヴィアが諦め、戻るまで、見届けるつもりでした。  

 よもや彼女が自害しようとするなど、予想だにしていなかったのです。  

 

 あの落城の日に、自ら短剣で心臓を突き、死んでいったカテリーナ姫……  

 リヴィアの姿と、カテリーナ姫の最期の姿が重なった瞬間、チェーザレは矢も盾もたまらず飛び出していました。  

 ですが、こんなところでぐずぐずしていては、いつ、誰に見咎められるか分かりません。

   

 廃園の茂みの中へと彼女を運び、そっと頬を叩くと、リヴィアはうっすらと目を開きました。  

 その目は、涙に濡れていました。


「夢じゃ、ないのね……本当に、来てくれた……」


「ああ」

 

 この少女は、俺を騙していた。

 ジェノヴァの姫だ。あのジョルジーノの妹なのだ。  

 だが、なぜだろう。  

 この少女に対する憎しみを探し出そうとしても、心の中には、そんなものはひとつも見当たらない……


「ごめんなさい」


 リヴィアは、囁くように言いました。


「わたし、あなたに嘘をついていました。わたしはマリアじゃない。リヴィア・デ・ジェノヴァ、ジョルジーノの妹……

 でも、名を変えて身分を偽ったことの他には、何一つ、あなたを欺いてはいないわ。信じて……」


「ああ、もういいんだ」


 これ以上、聞くべきではない。今すぐに立ち去るべきだ。

 関わり合いになれば、情が移ってしまう。

 ジェノヴァの娘、スフォルツァの敵、戦い、倒すべき相手なのだ。

 だが、だが――


「もしも、俺が来なかったら、君は……いや、あなたは、死ぬ気だったのか?」


「そうよ」

 

 リヴィアは何のためらいもなくそう言って、笑顔を見せました。


「俺が、今、立ち去ったら……やはり、あなたは死ぬというのか?」


「いいえ」

 

 リヴィアの返答には、迷いがありませんでした。  

 彼女は身を起こし、チェーザレを見つめました。


「これは、わたしの賭けだったの。――わたしは、あなたを愛してるの」


 突然、口にされたその言葉に、チェーザレは心臓に刃を向けられたような気がしました。


「ごめんなさいね、でも、本当よ。

 もちろん、あなたに受け入れて貰えるとは思っていない。分かっています。あなたはスフォルツァの人だから、ジェノヴァの娘となんか……

 あのね。わたしは、今度、結婚するのです。ほとんど会ったこともない男と……」

 

 リヴィアの言葉は、一見、脈絡が通っていないようでした。  

 ですが、彼女の中には強靭な一本の論理の道筋が通っていて、彼女はそれに従っているのだという気がしました。  

 だから、チェーザレは、彼女の言葉に耳を傾けました――


「わたしはジェノヴァの娘、王族の娘です。だから、結婚するの! 国のため、兄のためよ。分かっているわ。

 農民たちのように働きもせず、騎士たちのように戦いもせず、これまで何不自由なく暮らしてきたんだもの。結婚して、国の安定に役立つ、それが、わたしの義務です」

 

 その強く、淀みのない言葉たちはまるで、彼女が自分自身に言い聞かせているように響きました。


「だからね」

 

 不意に彼女の語調は弱々しくなり、強い風に吹き消されそうになる蝋燭のように揺らぎました。


「その前に、一度だけでもいいから……叶わなくてもいいから……自分の気持ちに正直になってみたいと、思ったの……  

 それが、わたしの賭け。

 今夜、あなたが来てくれて、あなたに自分の気持ちを言うことができたら、わたしは思い切って結婚することができる。

 今夜、あなたが来てくれなくて、気持ちを伝えることができなかったら……」


「死ぬつもり、だったのか」


「いいえ!」

 

 先ほどと正反対のことを言いながら、リヴィアは笑いました。  

 その笑顔は、彼女がジェノヴァの姫であると知る以前と全く変わりのない、曇りのない、明朗な笑顔――


「だって、あなたは必ず来てくれるって、信じていたもの」

 

 チェーザレは、黙って彼女を見つめていました。  

 何かを言わなければならないと思いながらも、彼は、目の前の少女に何と言ってやれば良いのか分かりませんでした。


「あなたの、幸せを祈っている」

 

 やがて口から出たのは、拙い祝福の言葉――


「あなたの夫となる男は、きっと、優しい男だろう」


「話したこともない相手よ。世間では冷血公と呼ばれているの。私より、二十五も年上です」


「だが……あなたの……兄上は、あなたが不幸になるような縁組はなさらないはずだ」


「どうかしら?」

 

 リヴィアの口調は、奇妙にさばさばとしていました。  

 彼女はつい先ほど、自分の喉を突こうとしたのです。  

 一度、死を覚悟したことで、彼女の中にこれまでには無かった何かが生まれたようでした。


「兄はわたしのことなど、本当は大して気にかけていないわ。だから、今夜だって、こうして抜け出してくることができたのです。兄は昔から、命令すれば、わたしが何でも言うことを聞くと思っているの。今だって大人しく眠っていると思っているのでしょうね。笑ってしまうわ。  

 あのね、わたし、胸の病があるのです。いつだったか、あなた、わたしのハンカチからお薬のにおいがするって言っていたでしょう。

 わたしはきっと三十まで生きない。兄は、わたしが使い物になるあいだに、私の結婚というカードを切っておきたいだけ」


「だが……あなたは綺麗だ」

 

 思わず、チェーザレはそう言いました。

 リヴィアが驚いたように目を見開き、チェーザレ自身も狼狽しました。

 俺は突然、何を言い出したのか――? 


「あなたは夫に愛されて、きっと幸せになれるだろう。

 俺だって……もしも、俺が、ジェノヴァの男だったら……いや、スフォルツァの男でなかったなら、きっと、あなたを、愛さずにはいられなかっただろう……」


「……そうなれるかも」

 

 不意に、リヴィアはそう呟きました。  

 彼女が胸に飛び込んできたとき、チェーザレは、思わずその細い身体を抱きとめていました。  

 リヴィアはチェーザレの胸に顔をうずめて、囁くように言いました。


「ねえ……わたしを連れて、逃げてくれない? どこだっていいわ、この国から出て、自由になれるなら――」

 

 チェーザレの表情が歪みました。  

 透き通ったような表情とは裏腹に、彼女の言葉には、血を吐くような響きがありました。  

 そうだ、どうして、彼女を受け入れてやらない? この娘自身がそれを望んでいるのだ――  

 チェーザレの腕は、リヴィアの肩を抱こうとするかのように上がりましたが、すぐに、その手はだらりと下ろされました。


「そう、あなたには、できないわね」

 

 リヴィアは笑って、そっと彼から離れました。


「あなたは、祖国を裏切るような人ではない。そういう人だと思ったから、愛してしまったのかも。

 それに、あなたには、あの子がいるんだもの……」

 

 あの子。  

 ――マイセン殿下か!?  

 その考えが浮かんだとき、チェーザレは反射的に、彼女の両肩を掴んでいました。


「知っているのか!? どこにいる! ご無事なのか!」


「教えてあげてもいいわ」

 

 チェーザレの激昂を受け止めて、リヴィアはいまや恐ろしく冷静な顔つきをしていました。  

 その目には、遠い遠い異国にあるという女の顔をした獅子の彫像のように、底知れず、計り知れない光がありました。  

 我に返り、思わず気圧されたように手を離したチェーザレに、リヴィアは哀しげに微笑みました。


「でも、その代わり――わたしのわがままを、あとひとつだけ叶えてほしいの。

 まるで甘いお菓子みたい。ひとつ手に入れれば、もうひとつ欲しくなるのね。

 でも、これが最後。本当、本当よ……」


*****



 この場面は、この物語を書き始めた当初から書きたかったシーン・ベスト3のうちのうちのひとつでした。


挿絵(By みてみん)


 私の気合いの入りようを示すように、当時描いた「イメージ画」も現存しています。


 以前の「スフォルツァの銀狼、ジェノヴァの老狐に敗れる」の絵よりは、かなり後になってから描いたものなので、自分で言うのもなんですが、その時よりも上達していますね!

 

 絵師さんにとっては「ブッ倒れるレベル」かもしれませんが、少なくともその時点においては「この絵は歴代らくがきの中でも、最高の出来だな!」と自負しておりました。(自己肯定感が高い)


 そして、なぜこんな中途半端なカットなのかというと、バランスを考えずに大きく描きすぎた結果、ここまでしか紙に入らなかったからですね……(ちなみに紙はA4のコピー用紙。でかっ!)

 

 ペン入れをしたバージョンもあるのですが、私の腕前ではペン入れをすることによって微妙に表情が変わってしまい、自分では「ペン入れ前」のほうが好きだということで、こちらを展示しておきます。


 さて、リヴィア姫の「あとひとつの願い」とは一体?

 彼らの運命は、果たしてどうなってゆくのでしょうか……


(『銀狼の恋の物語』は、まだ続きます……) 

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