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『銀狼の恋の物語』 ④ 

 チェーザレにとって、辛い日々の始まりでした。

 彼は傭兵部隊を率いる将軍の任を与えられましたが、マイセンの命を守るためとはいえ、祖国とも思うスフォルツァを裏切っているという意識が常に彼を苦しめました。


 だが、喜ばしい知らせもあったのです。

 ルカシュ姫とトリノー姫が、あの襲撃を逃れてレーテ女王の城にたどり着いたこと。

 そして、マイアスたちの弔い合戦と燃えるスフォルツァ勢の強襲によって、あの城が奪還されたこと……

 これらの情報が、軍議の席でもたらされました。


 チェーザレは内心で深く安堵しますが、マイセンの身柄がジョルジーノの手に握られていること、そして、自分が今、ジェノヴァに仕えていることを知れば、ルカシュたちはどう思うだろうか――

 それを考えると、彼の心は重く沈みました。


 スフォルツァの人々とは違い、ジェノヴァの者たちは、彼の容貌をあざけって『金の目の魔物』と呼びました。

 敵国の出、蛮族の将軍――そんな囁きが、常につきまといます。


 心許せる友もなく、敵意に満ちた視線の中で過ごす日々。

 隙を見てマイセンの身柄を奪い、懐かしいスフォルツァに帰ることができたらと、幾度考えたかしれません。

 しかし、ジョルジーノはマイセンを厳重に監視させており、チェーザレは、その姿を近くで見ることすら許されませんでした。


 鬱屈した思いを晴らすように、チェーザレは、以前にも増して剣技の鍛錬に没頭するようになりました。

 しかし、そうやって限界まで肉体を追い込んでも、眠りに落ちれば、あの悪夢の日の光景が眼前にまざまざとよみがえります。

 夜中にうなされて跳ね起き、もう眠る気になれずに、抜き身の剣を手に庭に出て、夜が明けるまで鍛錬を続けることもたびたびでした。


 ジェノヴァの宮廷での心休まらぬ日々は、彼の容貌を陰気で、凄みのあるものに変えていきました。

 こけた頬に暗い顔つき、凄絶な眼光にはまさしく魔物のような鬼気があり、荒くれの傭兵たちでさえ、指揮官であるチェーザレには、決して逆らおうとしませんでした。


 こうして一年近くの時が流れた、ある朝。

 チェーザレは、奇妙な出来事に出くわします――

 

   *


 ジェノヴァの宮廷の、あまり人の寄り付かない一角の廃園で、チェーザレは早朝から剣術の鍛錬に明け暮れていました。

 そんなとき、彼はふと、異質な気配を感じます。

 野生の獣のように研ぎ澄まされた彼の感覚は、何者かの視線を察知していました。

 きっとそちらに目を向けると、朽ち果てて蔦に覆われた遠くの柱の陰に、誰かがさっと隠れるのが見えました。


 何者だろう、と思いますが、それきり気にも留めずに、再び鍛錬に没頭します。

 ……しかし、ふと意識を戻すと、そのたびに、柱の後ろから人影が覗いているのです。  


 ジョルジーノの手の者が、自分を監視しているのでしょうか?

 しかし、このような鍛錬風景など見たところで、何の益もないはず。

 それとも、物見高い貴族が、名高い『金の目の魔物』を一目見てやろうというのでしょうか?  

 不興を覚えたチェーザレは、その日は早々に鍛錬を切り上げ、その場を去ります。


 しかし、それからというもの、その何者かは、たびたび姿を現すようになりました。

 チェーザレが廃園で鍛錬をしていると、きまって同じ柱の陰から、こちらをうかがっているのです。


 心の均衡を保つための儀式を邪魔されて、チェーザレは苛立ち、ある日、一計を案じます。

 そ知らぬ顔で鍛錬を続けるふりをして、謎の人物が柱の陰に姿を見せた瞬間、猛然とそちらに駆け寄りました。

 捕らえて、自分の様子を探っている目的を聞き出そうと思ったのです。  


 しかし、その場にたどり着いたときには、すでに、謎の人物は一足違いで逃げ去ったあとでした。

 この廃園は、迷路のようになった庭園と隣り合っており、謎の人物は、その高い生垣の中に逃れたようです。


 獲物を追う狼のように、怒りに任せて生垣の中に踏み込んだチェーザレは、そこに、謎の人物の痕跡を見出しました。  

 それは、貴族の持ち物であるレースのハンカチ。

 イニシャルの刺繍はありませんでしたが、ごく上質なものでした。

 鼻を近づけると、かすかなイリスの香りが漂いました。

 そして、それに混じって、薬草のような独特のにおいが……


 チェーザレは、首を傾げます。

 謎の人物は医師か、それとも病人なのでしょうか?

 ハンカチを見下ろし、彼は計略を巡らせました。


 謎の人物を謎のままに終わらせるつもりは、彼にはありませんでした――


   *


 その夜。

 月明かりに照らされた廃園に、蝋燭の炎がゆらゆらと動いていました。

 フード付きのマントに身を包んだ人影が、顔を左右に振り向け、地面をすかして見るようにしながら、ゆっくりと進んでいきます。

 と、廃園と迷路園との境で、白く地面に浮かび上がるものがありました。

 ハンカチを見つけて、その人物はほっとしたように、早足でそちらに近付きます――


 その瞬間、横手の茂みに潜んでいたチェーザレが飛びかかります。

 ハンカチは囮で、彼は、落とし主がそれを取りに戻るのを待っていたのでした。


 相手の手首を捕らえ、引き倒そうとしたところで、チェーザレはぎょっとします。

 その手首は、今にも折れてしまいそうに華奢でした。


 押し殺した恐怖の叫びが上がり――

 同時に、こちらを振り仰いできた顔は、歳若い娘のものだったのです。



*****



途中に出てくる「イリスの香り」は、塩野七生さんの著作にも登場する、ルネサンス時代には「フィレンツェを代表する」といわれていた香りだそうです。


 私は一時期「香りもの」に凄く凝ったことがあって、塩野さんの物語に登場した「イリスの香り」とはどんなものなのか? と探し求めていました。

 これまでに実際に香りを確かめた中で、イリスを使ったもののうち、一番好きだったのは「イプサ」という平たい青いボトルに入った香水でした。


「この香りを試したいんですけど」


 と、どきどきしながらカウンターでお願いしたこと、その香りの素晴らしさにうっとりしたことを覚えています。

 しかし残念ながら、私が香水を自分で買おうと思うような年齢になったときには、すでに廃番になっていました……

 儚く優しい、パウダリーな香りは私には全然似合わないものでしたが、香りとして本当に大好きだったので、廃番になってしまったことが今でも残念です。

 

 大人になった今では、塩野さんが語ったイリスの香りは、「サンタ・マリア・ノヴェッラ」というフィレンツェの老舗が創るコロンに近いものだったのではないか――なんと今も・・売っている・・・・・!――と目星をつけているのですが、思い出のイメージが万が一、壊れたらどうしようと思って、いまだ手を出せずにいます。



(なお『銀狼の恋の物語』は、まだ続きます……)

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