生命の甘露
いくらESSの新歓コンパだからといって、罰ゲームが「明日まで使用言語は英語」はひどいと恭平は思う。大体恭平はまだ一年生で、商学部で、英語の偏差値にはなかなか目を見張るものが――逆の意味で――あって、……つまり英文科だの国際科だのの先輩方と一緒にされてはこまるのだ。
「よーし恭平君二次会行こー! カラオケ!」
ぐいっと恭平の腕をつかんで引きずったのは、さっきの英単語しりとり(固有名詞禁止)で恭平をこてんぱんに打ちのめした……なんと言っただろう、とにかく先輩だ、女の。「先輩! もう飲めないですってば! もう無理です! 勘弁してください!」「君、先輩の酒断るの?」のコンボを見事にかまして、ただでさえストックの少ない単語を根こそぎかっさらってくれたのは、果たして戦略だったのかどうか、恭平にはよくわからない。
「ちょ、俺もう無理です、ホント!」
泣きつく恭平の足は、実際今しがた居酒屋の向かいにあるカラオケに行くだけでもふらついていた。それでも先輩は容赦がない。英語でしゃべるんでしょ、と怖い顔をされて、恭平は本当に泣きそうになった。
「えーと、えー、あ、あいきゃんとどりんく、えにーもあっ! 先輩ー!」
「No, you can! 男は気合だよ恭平君。――あ、カンパリオレンジ私の! あと恭平君ジョッキイッキやるってさー!」
うおおー、と室内は異様な雰囲気に包まれて盛り上がり、隣の男の先輩にジョッキを押し付けられて断るに断れない。ここは体育会系の部活だっただろーか、だとかこういうのはアルコールハラスメントとか言うんじゃないだろーか、だとかいう思いが一瞬頭をよぎり、――恭平は覚悟を決めた。目の据わった恭平を見て、先輩がニタリといやらしい笑みを浮かべる。そうして日本語禁止令の出ている恭平の代わりに、先輩は勝手にコールを始めてしまった。
「それでは柴田恭平、一杯空けさせていただきまーす! あ、きょーちゃんのーちょっとイイトコ見てみたい〜!」
ヤケクソのような速さでジョッキ生ビールを飲み干した後、恭平が最後に見たものは、先輩が真っ赤なカンパリオレンジでイッキをやっているところだった。
――やっちまった、と頭を抱えたかった。入学式早々飲みつぶれて誰かの下宿に転がり込んで、しかもその「誰か」は女の先輩と来た。大学合格で運を使い果たしたんじゃないかとちょっと疑うくらいのひどさだ。
俺何もしてないよなあ、と横でタオルケットにくるまる先輩を見ていたら、先輩はまるで恭平の視線に気づいたようにふぅっと目を開けた。ぱたぱたと可愛らしく何度かまばたきをして、きょとんと恭平を見つめる。
「……ぐっどもーにんぐ、先輩」
とりあえず日本語禁止令を出されたことは覚えていたので、恭平はなんだか間抜けだと思いながらもぎこちなくそう言った。
「あ、えーと……おはよ」
なんだか先輩の返事は、恭平よりももっとぎこちなかった。しかもそれ以上何も言ってくれなかった。気まずい。しかもなんか俺疑われてないか、と恭平は冷や汗を背中に感じた。
色気も何もなく見つめ合ってどのくらい経ったころか、ふとピーピーピー、と携帯の音が鳴った。あ、私だ、と先輩はつぶやいて、その辺りに転がっていたバッグから携帯を出して止めた。どうやらアラームだったらしい。それから先輩はうげ、と顔をしかめてあわただしく立ち上がった。
「ごめ、私今日一限あるんだ。君は?」
言いながら台所の方に行って、冷蔵庫を開ける。恭平がちらりとのぞくと、その中はおどろくほど空っぽだった。先輩はどうやら自炊をしない人種らしい。
「あいどんと――えーと、はぶ、」
「ちょっと待って、っつかなんで君英語しゃべってんの? そもそも君誰? ESSの人?」
「ひでぇ、それないですよ先輩! 先輩が罰ゲーム決めたんじゃないですか!」
思わず日本語で怒鳴ると、先輩は冷蔵庫から牛乳パックを出そうとした格好のままフリーズした。あーなんかちょっとそれは覚えてるかも、といまひとつ自信のなさそうな声に、恭平はため息をついた。昨日もよくよくアレな人だとは思ったが、「アレな人」という表現は今朝の先輩にこそ進呈しようと思った。
「ごめん、私実はもう一次会でお酒入ってたんだよね……その前にもちょっとカケモチの方であってさ。悪いんだけどあらためて自己紹介して」
もちろん英語でね罰ゲーム中なんだし、と――都合よくその辺りの記憶だけ持っている先輩に――釘を刺されて、恭平は出かけた声をぐっと飲み込んだ。小銭ばかりの財布をさぐるようにして、頭の中の単語帳をめくる。自己紹介のページは――なんとか、それなりにすぐに見つかった。
「まいねいむいず、キョーヘイ・シバタ。あいむふれっしゅまん、あんど……び、び、」
「belong?」
「そうです! っと、えー、びろんぐとぅーESS!」
言い切ると、先輩はうんうん、とちょっと笑ってうなずいた。昨日のイッキの前とはちがった笑顔の先輩は、なんだかひどく魅力的に見えた。
「そっかー、ホント忘れててゴメンね。しかも潰れちゃってさー。あ、牛乳飲む? 開けていいよ、コップ取ってくるから」
わたされた牛乳パックを開けて、つい癖でくん、と匂いをかいだ恭平は、一瞬意識を飛ばしそうになった――なんだこの匂い。ヨーグルトかよ。実際にはそれはヨーグルトなどという生易しい匂いではなく、もっと凶悪なシロモノだったと恭平は後になって思ったほどである。
「先輩ダメです! これ腐ってます!」
思わず――日本語で――悲鳴を上げると、先輩はえーっと叫んで牛乳パックを引っつかみ、恭平と同じように匂いをかいでみてなんだか遠い目をした。その顔がちょっとばかり青ざめていたように見えたのは、恭平の気のせいではなかったと思う。
「お、俺買ってきます、牛乳」
顔色を失くした先輩にうろたえて、恭平はスニーカーをつっかけて近所のコンビニに走ろうとした――が、先輩はその袖をぐっとつかんで止めた。え、と振り返ると、先輩は疲れた顔で笑っていた。
「も、いーや……今日は一限サボる。マジでそんな気力なくなったし」
「え、別にそりゃ俺はいいですけど……」
言いながら、うながされて床の座布団に腰を下ろすと、先輩は牛乳の代わりに水をコップに入れて出してくれた。それから自分は流しにもどって、腐った牛乳を流し捨てた。
牛乳パックをゆすぐ先輩をぼんやりと見つめている内に、そういえばと恭平は思い当たった――恭平は、実は先輩の名前を思い出していない。先輩は俺のこと忘れてたけど、俺もあんま先輩に文句言えないなあ。怒られそうではあったけれども、名前の知らない相手としゃべるのはあまり気分のいいことではなかった。
「……あの、先輩。すっげ失礼なこと聞いていいですか」
「んー、いいよー」
「……先輩の名前、なんでしたっけ」
「前島。前島雫。雫先輩でいーよ」
さらりと答えてくれた先輩に、恭平はほっとした。しかも前島先輩じゃなく、雫先輩と呼んでくれなど、新歓早々自宅に転がり込んできた男の後輩相手には破格の待遇だ。つい数十分前とは反対に、俺って運いいかも、などとさえ思う。
「――そうそう、でもさ、恭平君?」
牛乳パックをステンレスの台に干し、振り返った先輩は、昨日と同じようにニタリと笑っていた。
「これでお相子だからね」
それがつまり、先輩が昨日の仕打ちをすっかり忘れていたことと等価だよ、という意味だったのだと恭平が気づくのは、実にそれから一ヵ月後のことだった。