きみだけに 下
頼み事はね……―
『好きな子がいるんだ。だけど、まだ好きって伝えられてない………俺は伝えたい。生きて……伝えたい』
タクシーを拾おうとした冬に秋は用事があるからと断ったのだった。
そして、冬と落合は短い休日にできることは済ませたいからと、さっさと琴原家に帰った。
「え?用事?僕も付いてく!」
病院を出て背伸びをし、大欠伸をした秋に修一郎がへばりつく。
「ヤダ。付いてくんな。直ぐ帰るし」
しかし、今にも泣きそうな修一郎を一瞬戸惑いながらもひっぺ剥がす秋。
「秋の浮浪症は皆知ってるよ!今日じゃなきゃダメ?今日はお家で寝た方がいいよ」
まだまだ負けられない修一郎。
「ねぇ、秋……―」
「一人で歩ける時に一人で歩かせろ」
秋がスニーカーを鳴らして歩き出すと、背後からいつもはぐだぐだと諦めない修一郎の声が聞こえる筈が静かになる。
「修一郎?」
不審に思って彼が振り返ると、黒のパーカーの帽子に顔を隠した修一郎がその場に踞っていた。細く幼い四肢が更に小さく丸くなっている。
「おい!修一郎!」
来た道を駆けて戻った秋は慌てたように修一郎の顔を上げさせる。
「体調が悪いのか!?」
「…………」
肩を掴んで顔色を見る秋。俯いた修一郎はしゃがむ秋の胸に額を当てた。
「……修一郎?」
「秋、僕は秋が好きだよ」
「お前は相変わらず……」
「好きだから……『一人で』なんて言わないでよ」
一粒……また一粒と落ちる雫。ジーンズの膝を濡らす修一郎は高くしゃっくりを鳴らした。
「僕がいるのに。秋は僕がどんなに秋が好きか知らないからそんなこと言えるんだ……」
秋の手が止まる。
開いた手のひらには爪の食い込んだ跡が残る。唇を噛んだ秋はゆっくりと腰を屈めた。
彼の目の前にはふるふると振動する黒髪。ぴょこんと跳ねた髪が萎れているようだった。
「何で俺が……好きなわけ?」
「なんで……?」
真っ赤な兎の瞳。
修一郎が顔を上げると、秋は立って修一郎に背を向けていた。
「なんでって……なんで?」
「だって、小さい時とか夏にべったりだったじゃん」
後ろ向きのまま手を差し出す秋。修一郎がそっとそれに触れると、秋が乱暴に強く握り締めた。
「あ…秋っ」
秋はぐいぐい修一郎を引っ張る。
「ちょ……はやっ…………」
「黙れ。しばくぞ」
「しばく!?あ、秋……暴力やだっ!」
そこには病院の裏手に回り、壁に修一郎を押し付けた秋がいた。前髪で秋の表情は修一郎には分からない。
「秋……っ」
「答えろよ。お前は何で俺が好きなんだ」
答えを求める勢いのある口調。
「あ、あの……」
「俺はお前は夏が好きなんだと思ってた」
「え…………夏?」
あまりのことに修一郎が首を傾げると、茶色い瞳が真剣に修一郎を見詰めていた。修一郎は暫し秋の言葉を整理すると、じっと見詰め返す。
普段ならここで視線を逸らすはずの秋が逃げなかった。
「夏は男として尊敬してる」
修一郎の真摯な返答は秋をげんなりさせたようで、秋の目が皿になる。
「俺は何?女?」
もうどうでもいいオーラの秋に、修一郎は話す順番を間違えたと頭を左右に振った。
「あ、秋は親友で……夏も親友で……」
要領を得ない言葉は秋を益々落ち込ませる。
「お前の中の俺って、一体何?親友でしかない俺と親友で男として尊敬されてる夏って、俺がお前に好かれるわけが全然分かんないんだけど。まさか……同情…―」
「冗談でもそんなこと言わないでよ!」
なあなあになっていた会話で、修一郎が聞き捨てならないと珍しく怒鳴った。秋が咄嗟に「ごめん」と謝る。
「じゃあ何で?」
「………………………秋は僕を守ってくれるから」
「守る?……俺が?いつ?」
そう訊く秋は守った覚えがなくて、自分の愛想のなさ以前に修一郎の主張を不思議に思っただけだった。
「秋と僕が始めて会った日のこと覚えてる?」
「幼稚園だろ?」
「秋は苛められてた僕を助けてくれた」
小さい。女々しい。
そんな理由で苛められていた修一郎の前に凛と立つ一人。苛める方は今思えば子供の戯れみたいなものだろうが、秋はその当時から、苛めた彼等に『恥ずかしくないの!?』と大声で怒っていた。
「僕とあんまり身長変わんない女の子。強くてかっこいいなって」
「女の子…………」
「最初はね。だって、秋可愛かったし……―」
修一郎は秋に眉間をでこぴんされて絶句。
「痛いよ」
「お前に可愛い言われたくない」
「もう。話が逸れたよ」
眉間を押さえた修一郎は体勢を立て直して近くのベンチに座った。秋も隣に座る。
「秋は「苛められすぎ」なんて言ってもずっと……いつも僕を助けに来てくれたよね。僕、秋の背中を見て育った気分」
小学生……はたまた中学生になっても修一郎は秋の背中を見た。
「広くて大きい背中……」
修一郎の手が秋の手を握る。
「助けてくれたからじゃないよ。僕を助けに来てくれて、僕と一緒に苛められても僕に泣き顔見せずに歯をくいしばって、くしゃくしゃの笑顔で不器用に僕を励ます秋が……僕は好きなんだ」
秋の横顔に囁くように……―
「秋、秋が好きだよ」
くすんと鼻を鳴らして修一郎は微笑み、躊躇いがちに瞼を伏せた。
「秋は?……秋は僕のこと好き?」
「……………」
秋の沈黙。
「あ……いや、無理に言わなくていいけど……」と修一郎が両手を合わせてもじもじする。
「じゃあ言わない」
「え?言わないの!?」
「さっき、無理に言わなくていいって言ったし」
「でも……」
「やっぱり聞きたい!」とは図々しく思えて言えない美少年はガックリと肩を落とした。
「修一郎」
「何?」
「俺は用事あるから帰れ」
「またそれ?僕は秋と一緒に…―」
秋が修一郎の口を手で塞いだ。
「ふぐぐぅ!?」
「決着を付けたいんだ」
「ふぐ?……ぷはっ」
ふぐふぐ言う修一郎を秋は鬱陶しくなって解放する。
「決着って?」
「俺は一人で決着を付けたい。お前が俺を好きなら」
「うん、好きだよ。でも、決闘なんて危ないことさせないよ。病み上がりにそんなことさせない」
「決闘なんて言ってないだろ」
ベンチを立つ秋。
続いて立ち上がろうとする修一郎。
「付いてくるな。終わったら…………キスしてやるから」
「…………僕はキス魔じゃない……」
しょんぼりした修一郎は秋に頭を抱えられていた。
春風に吹かれ、秋の体臭を嗅いだ彼はその鼓動を聞き取る。
乱れのない優しい音。
「キスの約束忘れないから。だから……ちゃんと帰ってきてね」
「嗚呼……絶対に帰るから」
「よぉ。退院おめでと」
待ち合わせに選んだのは姉の眠る墓場だ。
姉に決着を見守って貰うために。
「で?わざわざ呼び出して何?」
「お前に釘を刺したくて呼んだんだ」
なぁ?夏。
健康的に色付いた肌。
短髪に野球帽。
切れ長だが愛嬌もある目。
双子の弟は俺の入院前と変わったところはない。
……身体は。
この春、夏は軍人になった。
軍人になったこと自体は否定しない。
けれど、冷たくなった。
人の温かみが消えた。
夏。
お前の選んだ未来がこれなのか?
千鶴姉さんへの言葉の先がこれなのか?
「ふぅん。で?」
俺の目を見ずに携帯を弄る夏。俺は携帯を奪ってそこら辺に投げた。下は土だから壊れることはないはずだ。
「秋!」
俺を睨んで怒る夏。
もう俺には暴力では勝てないだろう。入院で筋肉も反射神経も極限まで落ちた俺と軍学校で鍛えていた夏とでは天と地の力の差。
けれど、それで夏を恐れていたらはっきりと釘を刺せない。
「修一郎が好きなのは俺だ」
あいつの想いはちゃんと確認した。
だから……―
「それで?」
「俺は修一郎の想いを受け入れるつもりだ」
「…………………」
微かにシワの寄る夏の額。
ああ、俺は夏は修一郎が――恋愛感情の有無は置いといて――とても大切だと知っているんだ。
「今更……何だよ。修一郎がお前を好きで、今更お前は何だって?」
「俺はあいつを拒まない」
ぎりっと夏の歯軋りが聞こえたかと思うと、俺は夏に襟首を掴まれていた。喉が絞まる。
苦しい。
でも、これは俺への当然の罰だから構わない。
「今更何だよ!」
なんだ。
お前はまだ激情できるんだ。
「な……つ……俺は…っ」
「黙れよ!お前はあの時から修一郎を避けてた。理由も分からなくて、あいつがどんなに苦しんでいたのか知らないくせに!去年の12月にお前があいつと医者のとこ行った夜中、あいつから電話掛かってきた。ごめんって沢山謝って、泣いてた!」
修一郎が俺を襲ってきた日だ。
あいつはできたはずなのに、口付けはしてこなかった。
「お前は今更なのかよ!あいつ、俺に電話した後、死のうとしてたんだ。お前が寝てる間、悩んで悩んで、あいつは自分の命断とうとしてたんだ!」
そんなこと俺は知らない。あの後、修一郎は自殺をしようと……。
「俺が心配で家まで行ったら部屋で手首切ろうとしてたんだぞ!誰のせいだよ!」
臆病な修一郎は自分の手首に震える手で握った刃物を翳して……―
「優柔不断のお前があいつを自殺に追い込んだんだよ!」
俺が修一郎を追い込んだ。
『本当の被害者は修一郎だ』
そんなこと……俺は分かってる。
「だけど、俺は修一郎が好きだ!」
「てめえ!ナメてんのかよ!!」
決着を付けよう、夏。
俺は夏の右ストレートを食らって無様に尻餅を突いた。起き上がろうとして、夏が俺にのし掛かり、マウントポジションを取られる。
「糞野郎!お前なんか修一郎の横にいる資格はねえよ!さっさと東京に消えろ!」
双子と言えど元々体育会系の夏は強い。腕で守っても、その腕に掛かる拳の重みは半端なかった。
「お前なんか大っ嫌いだよ、秋!!!!」
そうだ。
何が仲良し兄弟だ。
好みが真逆の俺達が、唯一互いに心を許せる純真無垢な修一郎を取り合って仲良く見せ掛けてただけだよ。
まったく。
お前が俺を嫌いなら……―
「俺だってお前が大っ嫌いだ!!!!」
俺だって夏が嫌いに決まってるだろ。
俺が渾身の力を振り絞って上体を起こすと、夏がバランスを崩して俺から転がり落ちた。
もう遠慮はいらない。
全身で夏を押さえ付けて殴る。
ぱしぱしと力のない非力な拳だけれど、精一杯殴る。
「修一郎は俺が好きなんだ!俺だって修一郎が好きだ!お前は外野なんだよ!!夏!!!!諦めやがれ!!!!」
縺れる俺達。
互いに顔を狙い、
互いに殴る。
互いに急所を狙い、
互いに蹴る。
ただ決着を付けるために。
起きたら星空が視界一杯に広がっていた。
「あー……いてぇ」
頬がヒリヒリして声を出してみたら、自分の声とは思えない掠れたしゃがれた声が出て、切れていた唇の端に痛みが走った。
一人言はやめて首だけ動かせば、夏はいない。
初めての対等な兄弟喧嘩は俺の負けみたいだ。
しかし、仮にも兄が弟に殴り合いで負けるって……―
「……情けないな」
「ばぁか」
そうさ。
俺は馬鹿だよ、修一郎。
「直ぐ帰るって言ったのに……結局、決闘してるじゃん」
「煩い。決着を付けたんだよ」
「こんなにぼろぼろになって?」
「男の魂のぶつかり合いで大事なのは意気込みと諦めない心だ」
お前、ダサいこと言うなよ。
って自分に思った。
「ダサいよ、秋」
俺は分かってるから、そういうこと素直に本人に言うな。
お前は率直過ぎる。
「でも、かっこいいね」
ダサいって言いたいのか?
かっこいいって言いたいのか?
星の灯りで修一郎の黒目が藍色に見えた。
そして、腫れた瞼の隙間に映る修一郎の笑み。
笑うな。
てか、首のそれ、俺のマフラーじゃん。
返しづらかったのか?
それとも、好きな人の持ち物だから大事にしてた?
俺が気付くの待ってた?
それにしても、
お前……―
「好きだよ、秋」
俺が好きすぎだろ。
だから、こっちは恥ずかしいんだ。
唇に柔らかい修一郎の唇。
キスする約束だけど、
キスしてるって言うより、
キスされてる。
「う~ん。ファーストキスは鉄の味だ」
それって血生臭いキスだな。
「次は秋からレモン味のキスしてよ」
「……りょーかい」
好きだ、修一郎。