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秋が深まるにつれて
空が暗くなるのが早くなった
最近 あの人の顔を見ていない
──今日も来なかった。
公園の遊歩道沿いに置かれている古びたひとつのベンチに、黒猫はいた。姿勢良く座るその姿は、まるでセレブにでも飼われているような態度である。
しかし生まれた時から野良生活。この公園が生まれた場所であり、生活の場所であり、きっと死に場所なんだろう。
たまに通りかかった心優しき人間が食べ物をくれるから、大して食に困ったりはしないし、自分で食料を得る方法もあるのだ。それに二、三日くらいなら何も食べなくても生きていられる。その時はダラダラしてれば良い。ただそれだけのこと。こう言った野良生活が悪いと思ったことはない。
あれは三ヶ月くらい前のことだったと思う。自分が縄張りとしているこのベンチに人間が座ってきたのだ。彼は何をするともなく一緒になって初秋の空を眺めて、しばらくして去って行った。
次の日も、そのまた次の日も、彼は毎日このベンチに座った。自分としては、縄張りに堂々と居座られることに少々苛立ったが、人間に伝わるわけもないと、諦めていた。
──しかし、ここに来るなら食べ物をもってきてもらいたいものだ。
そう思った次の日から彼は食べ物を持ってきて、自分に与えてくれるようになった。これには本当に驚いた。
──伝わった? まさかね。
彼が与えてくれる食べ物──ほとんど煮干しだったが──をありがたく頂いた。
しかしその生活も長くは続かなかった。彼がパタリと姿を見せなくなったのだ。二ヶ月くらい前のことだ。
別に彼を待っているんじゃない。自分の縄張りだからここにいるだけだ。それにまた彼が急に現れた時に、自分がいなくて心配させたらいけないだろうから。
そう考えながらここに座り続けた、この日。新たな客がやって来た。
学生服姿の彼女は自分と目が合うとすぐに近寄ってきた。何も言わずに隣に腰を下ろすと、両手足をうんと伸ばした。
「いい天気だね」
こっちを見て彼女はにこりと笑った。そんな彼女を一瞥して空を見上げた。うろこ雲の隙間から陽の光が降り注いでいる。温かな午後だ。
急に隣からゴソゴソ音がしてそっちを見ると、彼女は鞄の中からおやつの袋を取り出しこちらに見せた。クッキーのようだ。
「食べる?」
彼女は首を傾げた。黒猫は横目で彼女を見ながら、尻尾を一回縦に振った。クスクス笑って、彼女はクッキーを足元に置いてくれた。
それの匂いを嗅ぎ、少しだけ舐めてみる。甘い香りが舌いっぱいに広がった。変なものではないらしい。黒猫がまた彼女の方を向くと、彼女もクッキーを口に運んでいるところだった。
不意に目が合った。
「あ、割った方がいいか」
彼女は慌てた様子で自分のクッキーを口に放り込むと、足元に置かれていたクッキーを取り、砕いてからまた置いた。
──気が利くじゃない。
礼も込めて、ニャーと一声鳴いた。二人──正確には一人と一匹──は、サクサク音を立てながら食べ続けた。
彼女は何も喋らない。自分も何も言わ(鳴か)なかった。
冬間近の冷たい風が吹いていった。
次の日も、彼女はやって来た。昨日と同じ学生服であることから、どうやら学校帰りのようだ。今日もおかしあるんだよ、と彼女は鞄からドーナツを取り出した。
──甘いものばかり食べてると太るわよ。
そう思ったが、今日もありがたく頂いたのである。夢中になって食べていると、いきなり彼女が背中を撫でてきた。全身の毛が逆立った。少し顔を上げたが、気にしないで食べ続けた。その間、彼女は自分の背中を撫でていた。優しい手の平だ。
「人に馴れてんだねー、あんた」
これまたいきなり、彼女が両脇の下に手を入れて、自分の身体は宙に浮いた。口の端に付いたドーナツの食べカスがポロポロ落ちる。彼女の顔が間近に迫った。
「全身真っ黒」
抵抗はしなかった。この公園に来る子供に良くこういうことをされるから、慣れている。ただベンチの上にはまだドーナツの残りが置いてあるのだ。
「ん? あんたメスなの? オスかと思ってた」
彼女は腹をまじまじと見ながら呟いた。
──悪かったわね。
尻尾で彼女の腕を軽く叩いた。
「あ、怒った」
彼女は笑いながら自分を膝の上に載せ、そしてベンチの上のドーナツを取ってくれた。彼女の手の平で直接ドーナツを食べ始める。彼女の膝の上は、温かだった。
次の日、彼女は昼前に訪れた。いつもと違い普段着であるとこから今日は学校が休みなのだと推測できる。彼女は何故か少し困惑した様子だった。しかしいつも通り、隣に腰掛ける。
休みの日までここに来たが、彼女に彼氏はいないのだろうか。と思った。まぁ彼氏がいたら食料にありつけないから、いなくて良いと言ったら良いのだ。と思った。
「あんた、ずっとここにいるんだね……まぁいてくれて良かった」
今日は昼から遊びに行くんだ、と彼女は持参したビニール袋を広げた。
「今日はちょっとフンパツしたんだよ~」
そう誇らしげに彼女が取り出したのは、猫用缶詰だった。
──ぐっは! ネコカン!
思わず胸が躍り、喜びのあまり彼女に擦り寄った。缶詰など、おこぼれを貰って以来どれぐらい食べていないだろう。
「お、喜んでる。良かった良かった、皿がないからこのまま食べてね」
彼女は笑いながら缶詰をパカと開け、ベンチに置いた。「どうぞ」と彼女が言うのと同時に、がっついた。この高級感溢れる香りが何とも言えず、匂いを嗅ぐだけで至福である。いつになく、味わいながら食べていた。
彼女が哀しそうに微笑んでいるとも知らず。
缶詰をキレイに舐め、自分の口周りもペロと舐め上げた。そこでふと疑問に思った。
何故彼女は野良の自分に缶詰まで持ってきてくれるのか。まだ出会って三日目である。それに缶詰はそれなりに値段もするはずだ。彼女がそこまでしてくれる事に、疑念が浮かぶ。
不意に彼女が視線を向けた。
「ねぇ、あんたさ…………」
ポツリと呟いて、彼女は押し黙った。彼女の表情は妙だった。妙に寂しそうだった。
一度、短く鳴いた。
「──ごめん、何でもないよ。美味しかった?」
彼女はニコリと笑い、頭を一撫でする。そして食べ終わった缶をビニール袋に入れ、口を縛った。また頭を撫で撫でされる。
「じゃ、時間ないから私行くね。また明日」
バイバイ、と立ち上がった彼女は笑って手を振った。
今日は曇り空で、今にも雨が降ってきそうな、そんな雰囲気をしていた。彼女が立ち去った後には、満腹感と疑念だけが残された。
次の日は、予想通り雨だった。黒猫はいつものベンチの下に潜り込み、雨をしのいでいた。どんよりした空模様のお陰で、今が午前なのか午後なのかはっきり区別がつかない。
──流石に雨だと……。
来ないだろうなぁ、とぼんやり考えた。
背中にポタリと雫が落ち、ぞわと全身の毛が震えた。冬間近の雨は、氷の様に冷たい。水溜まりを避けるように身じろぎした時、パシャンと水の跳ねる音がした。その音は次第にこのベンチへと近付いてくる。
チラと見上げると、いつもの彼女が自分を見下ろしていた。雨に遮られて彼女の表情はいまいち分からない。
「──雨でも待ってんだ……」
感情の掴み取れない声色で、彼女はポツリと呟いた。どうして自分が誰かを待っているのだと、彼女は知っていたのだろう。またも疑念が増えた。
彼女は自分の前にしゃがみ込み、持っている袋を開いた。
「実はね、あんた─ことお母さ──話し─ら、これ買ってきて──れたんだよ」
彼女の傘を打つ雨音のお陰で、彼女の喋る事の所々は聞き取れなかった。どうやら今日は彼女の母親からの差し入れらしい。彼女がガサガサ音を立てて取り出したのは、袋に入ったキャットフードだった。自分の足元に紙皿が置かれ、それにカラカラとキャットフードが注がれる。
「お菓子ばっ─だとあんた─身体に悪い──ね」
彼女はクスクス笑った。
気遣いは有難いが、どうしてそこまでしてくれるのか、全く分からない。自分はただの野良猫である。ただこの公園で気ままに生きているだけだ。彼女に何かした訳でもない。
──なのに何故?
嬉しい事に変わりないが、どうしても疑問は止まらなかった。
「今日寒いから風邪ひかないでね」
彼女は優しく言い、頭を撫でてきた。
「また来るからね。バイバイ」
寒そうに赤くなった指先にハァと息を吹きかけ、彼女は立ち上がり、踵を返した。
彼女の後ろ姿へ、黒猫はニャーと短く鳴いた。その声は雨に掻き消された。
次の日、彼女は制服姿でベンチにやって来た。今日は快晴で、昨日の雨は空の色を綺麗にしてくれた。
彼女は昨日同様キャットフードを紙皿に開けてくれ、自分はそれをカリカリ食べる。その隣で彼女がスケジュール帳を開き、今日が十一月二十六日だと教えてくれた。正確には、彼女が呟いた事を聞いていた。
キャットフードも食べ終わり、すっかり満腹になって顔を上げると、彼女はスケジュール帳の一点を寂しそうに見つめていた。この前から、彼女は良くその表情をする。何故なのかは自分には分からない。
視線に気付いたのか、彼女はこちらを見てニコリと微笑んだ。
「寒いからさ、抱っこさせてね~」
自分の身体は持ち上げられ、彼女の膝に載せられた。衣越しの彼女の体温は、やはり心地良かった。自分は彼女の膝の上で丸まり、彼女は自分の背中をゆっくり撫でる。
風は冷たいが、温かな日だ。
「────私ね、あんたに言わなきゃいけないことがあるんだ」
急に彼女が呟いた。何だろうと思ったが、身動きせずに耳を傾ける。背中を撫でる手が微かに震えているのは、気のせいだろうか。
「……私のおじいちゃん……先月から入院しててね……あ、病院はすぐそこだったんだよ」
彼女はポツリポツリと話してくれた。
病院の消毒液の匂い、独特の雰囲気。看護師の話し声、見舞いに来た人の笑い声。窓から見える空の色。
点滴の速度。酸素マスク。
弱々しい笑顔。
頭を撫でてくれるしわしわの手。
優しかった、大きな手。
「……でもこの前ね……おじいちゃん……亡くなっ……っ……」
不意に背中にポタリと雫が落ちた。顔を上げると、彼女は俯いて涙を拭っていた。
「私……大好きだったのにっ……何もしてあげられなかった……」
涙声が、痛かった。
「あんたも……もうここで待ってなくて……良いんだよ……? あんたが待ってた人は…もう来ないんだよ……」
彼が死ぬ一週間程前、彼女とその家族は自分の事を聞かされたらしい。葬儀が終わって放心していた時に、ふと思い出したのだと彼女は言った。半信半疑だったが鞄にクッキーを入れて訪れてみると、彼が言っていた通り自分がここにいた。
彼女が大きく鼻をすすった。
「その日に言えば良かったんだけど……あんた見てたら何となく言えなくて」
そう言って彼女は苦笑する。
「あんたと待ってたら……もしかしたらまたおじいちゃんに会えるかも…なんて……ありえないのにね」
また涙が頬を伝った。
「ごめんね……もう待たなくて良いんだよ」
黒猫はムクリと起き上がり、彼女の顔を覗き込んだ。
──あたし、知ってたよ。
知ってたんじゃなくて、分かってたんだ。だって彼は年を取ってたから。しわしわの手が、それを意味していたから。
彼は優しかった。あんたと同じで、大好きだった。あたしは別れが寂しくて、ここにずっと座り続けていたのかもしれない。彼と一緒にいた空間を、このベンチを守っていたかったのかもしれない。
そんな時にあんたが来た。あんたは彼と同じ匂いだった。優しい匂いだった。
ねぇ聞いて。
あたしが待ってたのは、あんたなんだよ。あんたの中に、彼はいるでしょう? 彼を待たなくても、あんたが連れて来てくれてるでしょう。あんたの中の彼も、あたしの中の彼も、同じひとなんだから。
大好きな、あの人なんだから。
黒猫はペロと彼女の頬を舐めた。彼女は驚いた表情でパチパチと瞬きをする。黒猫は一度ニャーと鳴いた。
彼女はフッと微笑んだ。
「あのね、私のお母さんが、あんたを家に連れて来たらどうって言ってるんだけど……どうかな、来てくれるかな」
黒猫と目を合わせ、首を傾げる。
「てゆか私の言ってること分かってるかな」
そう言って眉をひそめた。
「よし、少し離れて様子を見よう」
黒猫を膝からベンチへ下ろし、鞄を持ってベンチから数歩離れ、振り返る。黒猫はまだベンチの上だ。
「あら……残念」
ガクリと肩を落としそうになった時、黒猫がトンと地面に下りた。そして脚に甘えるように擦り寄ってきた。
「お、ついて来る? 来るか来ないかはあんたが決めるんだよ?」
尋ねると、黒猫はニャーと鳴いた。
「そっか、良かった」
ニコリと笑い、歩き出す。その後ろに黒猫がついて来た。
名前はもう決めてあるんだ。おじいちゃんがそう呼んでたから、それに決めたの。すごくありきたりで、まんまな名前だけど私は気に入ってる。
いっぱい、仲良くしようね。
クロ。
おわり
亡くなった祖父のことを考えていた時に思い付いた話です。
猫と少女でこういった話を書きたかったというのもありました。
読んで下さりありがとうございました。