罪人と姫君
一番最初に目に入ったのは、ぼろぼろな革の靴の先端だった。
少しだけ視線を上げる。逆光に照らされた人影が自分を見下ろしているようだった。
「……よお」
一生懸命出したはずの声には力がこもらなかった。
ちくしょう、こんなところでくたばるわけにはいかねえんだ。首領は俺に生き残れと命じた。生き残れば我らが理想は息絶えることはないと──
地に伏した身体に力をこめる。だが、腕も脚もまるで金属の塊に変化してしまったかのようにぴくりともしなかった。
人影は身動きだにしない。
「水、くれよ……」
かろうじて動かせるのは自分の口。それすらも吐息に混じりそうな──
人影が一歩退いた。そのまま光に融け、消える。
逃げたのか。……それも致し方ない。ここにあるのは、死にかかった正体不明の男。
死など既に覚悟していたことだ。だが、奴等に一矢も報いず死ぬということが許せなかった。
今までに殉じた仲間達に向ける顔がない──
朦朧としていた意識が不意に引き戻される。
口許に冷たい感触がした。
唇を濡らす水。しかし心地よい冷たさはうまく喉に流れていってくれない。
戻ってきてくれたのか。だがもう俺は──
†
男はがばっと身を起こした。──身体が軋んだ。
「目を覚ましよったか」
背後から見知らぬ声を聞き、男は慌てて振り返る。
「頑丈じゃの。ツムに連れられてきたときはくたばるのを見送るだけかと思ったものだが」
そこにいたのは、小柄な老人だった。
「……助かった」
「いや、礼には及ばん。すぐ出てってもらわねばならんからな」
「……?」
「お主の怪我を治療していたときに、胸のそれに気づいてな」
その言葉で男は納得する。──この胸には、『罪人』の焼印があるのだ。
「お主、反勢力のモノじゃろう? 本来であれば村の長として、そのような素性のモノを入れるわけにはいかん」
「……そう……だな」
国家に反逆した者は処刑されることはない。『罪人』の印を身体につけられ、市民の身分を剥奪され地に放たれる。例え子供であろうとも。そして『罪人』に同情し加担した者がいれば、例え自身が罪を犯していなくても彼らもまた罪人と見なされるのだ。
怪我を治療してくれただけでも、かなりの恩義だった。
「悪かったな。すぐでていく。──感謝する」
「礼なら、ツムに言え」
そう言って、老人は部屋を出て行った。……入れ替わりに、子供が部屋に入ってくる。
フードを目深にかぶった姿は、朦朧とした意識で見た逆光の人影と一致した。
「よ、おっさん! 身体大丈夫か?」
「『ツム』、か」
……おっさんと言われたことについては追及しないことにした。
「うん、おっさん何でボクの名前知ってるの? ……あ、じーさんに聞いたのか」
「ああ。助けてくれて感謝する」
「いや、ボクじーさんに教えられた通りにしただけだから。『困っている奴は助けてやれ』ってさ」
ツムはにっこり笑ってそう言った。……その表情を見て心が決まった。
俺の事情にこの子を付き合わせるわけにはいかない。
「じゃ、俺はもう行く」
「えー?」
ツムは素直に驚いた顔をする。
「起きたばっかりなのに、もういっちゃうのかよ。……じーさん何か言ったのか?」
「いや。自分で決めたことだ」
「……そっか……」
「悪いな」
「ううん。おっさんにも事情があるんだよね」
すこし拗ねたような顔でツムは横を向いた。
「じゃ、ボクそこまで送っていくよ……」
「要らん」
そう答えたとき。……きな臭い臭いが鼻についた。
「火事だ────ッ!」
外から叫ぶ男の声が響いた。
ツムが身を翻す。──そのまま開いていた窓の桟を飛び越え、外へ駆け出していった。
†
ツムの姿を追い、男も外へ飛び出した。
正面に見えた火は既に家を半分覆い尽くしていた。あちらこちらからも煙が昇っている。
──火を放たれた──?
今は乾季だ。火はあっという間に村全部を覆いつくすだろう。
ツムが足を止める。
正面には老人──村長が背を向けて立っていた。
そしてさらに正面には、黒い鎧を着た男達の姿があった。
胸には彫りこまれた大鷲の紋章。その特徴的な鎧は、彼らが騎士団──王の直下で働く身分であることを示していた。
「……無体ではござらんかな」
「禁忌を犯したのはそちらであろう。覚悟があってしかるべきだと思うがな」
「気づいたのは先ほどのことだ。そしてきゃつは村を去ると申しておる」
「証拠はない」
「そうじゃな。……そのほうがお主達にとっても都合がよかろう」
「じーさん!」
ツムが叫ぶのと同時だった。
剣が一閃し──血が飛沫いた。
「じーさん、じーさん!」
駆け寄ったツムの頭上に剣が振り上げられる。
ツムが老人の頭を抱えたまま目を瞑った。
──硬い金属の音が響いた。
腕にはめた鉄甲で男が剣を受け止めていた。
「彼らは関係ない」
男は騎士を睨みつける。騎士はあざ笑うように男を見据えた。
「『罪人』の命を助けた」
「彼らは知らなかったんだ」
「『罪人』の言葉など信じるに値せん」
……すっと、騎士が剣を引いた。
「──?」
「貴様を裁くのは我々ではない」
騎士は薄く嗤う。
「退くぞ。……」
騎士団が立ち去ったあと。
男は立ち尽くしていた。──背に非難の視線を浴びて。
火は既に村の大半を焼き尽くしていた。
「……すまない」
男は振り返り、大きく頭を下げる。そのまま無言で歩き出した。
自分の存在が村を焼き、長の命を失わせた。この事実の前には、どんな言葉も意味をなさない。
そもそも、あの子供に命乞いをしなければよかったのだ。
だが──
『逃げろ!』
直前に首領が自分に投げた言葉。
『死ぬな! ……これを』
渡された、赤い石のペンダント。
『これを、西の国のユリという女に渡してくれ──すまない、と』
──それが最後の言葉だった。
自分の身体にかぶさった身体。体温を失い、冷たい塊へと変わっていく──
首領の言葉とペンダントを渡すまでは──死ぬわけにはいかなかった。
†
とはいえ、人里を避けて獣道を歩いていくのは、幾ら頑丈な身体をもってしてもなかなかに困難なことだった。何せまともな飯を食っていない。一日かけて歩ける距離などたかがしれている。
既に陽も傾き始めていた。……このままでは、飢え死にのほうが先かもしれない。
男は木陰に座り込んだ。無理して歩いていくより、体力を温存しながらすすむほうが賢策と言えそうだった。
大きく息を吐く。
その瞬間、目の前に影が落ちた。
「みーつけたっ」
目の前にツムの顔が大きくあった。──逆さ向きで。
「……」
「おっさん、思ったより進んでなかったんだね、ボク行き過ぎて引き返してきちゃったよ」
「……何でお前が」
「追っかけてきたにきまってるじゃん」
ぶら下がっていた樹の枝からくるっと一回転してその場に下り、ツムは男の傍らに座り込んだ。
「じーさん、ボクの育て親だったんだよね。だからボク、身寄りなくなっちゃったわけで」
「……仇を討ちに来たのか」
「違う」
明快にツムは答える。
「だっておっさん、ボクの命の恩人だし」
──男は混乱する。
自分の存在が、あの老人を殺した。村を焼いた。なら憎まれこそすれ、自分を追いかけてくるなど──
「……おっさんがじーさんを殺したわけじゃないじゃん。村に火をつけたのも騎士団の奴らだし」
言いながら、ツムは背負っていた背嚢を下ろし、封を開ける。
「……あ、あった」
ツムは荷物の中から麻袋を取り出し、男に差し出した。
「おっさん、腹減ってるだろ。でなきゃ、いくらボクの足が速いからっておっさんの足に追いつくはずないもんな」
おずおずと男は麻袋を受け取る。中に入っていたのは──黒いパン。
「だが──俺は『罪人』で」
「だから何?」
ツムがまっすぐ男の顔を見る。
「そりゃ、ボクだってじーさんが殺されて悔しいよ。でもそれがおっさんのせいだというのなら、ボクのせいでもあるんだ。だっておっさんを助けてあげてってじーさんに頼んだのはボクなんだもん」
「しかし──」
「で、ボク考えたんだ。もし、おっさんがそれでもボクに罪悪感を持っているなら、もしかしたらボクの家来になってくれるかなーって」
既に、男は返す言葉を用意することもできなかった。もともと深く物事を考えることには向いていない。
「おっさん、食べないの? じゃ先にもらうね」
男が持っている麻袋からパンを取り出し、ツムは黒パンにかじりつく。
「──分かるように説明してくれないか」
「え、簡単だってば。保護者がいなくなったから代わりに保護してってだけだから」
むちゃくちゃだ。理屈が通っているような、通っていないような。
「……ボクさ」
男が黙っていると、パンを飲み込んだツムがぽつっと呟いた。
「ボクも、あの村ではヨソモノだったんだよね」
「……」
「この国の跡継ぎって誰だか知ってる?」
「……確か、王の直接の血縁はいないとのことだが……だから、今一番跡を継ぐ可能性があるのは王の妹が嫁いだ大臣が有力だと」
「実は、王には血縁がいるんだ」
「王女のことか? だが王女は幼い頃に『罪人』に殺されて亡くなったと」
そう。それから国の方針が変わり、『罪人』に対する差別が深まっていったのだ。
「王女は生きているんだよ」
ツムはパンを背嚢の上にのせると、水筒の蓋を開け口をつける。
「それがボク。じーさん──かつての王室の賢者に預けられていたんだ」
眩暈がする。
『罪人』への差別が強くなった理由──それがすぐ目の前にいた。
胸につけられた『罪人』の印が痛んだ気がした。この印は子供の頃、『罪人』の子供であるという理由でつけられたものだ。
「バカかお前。そんなことを俺に告げて、殺されるとか思わないのか」
「おっさんがボクのこと助けてくれたから」
またパンにかぶりつくツム。
「おっさん、割と義理堅いよね。だから多分大丈夫だと思った」
ツムはにっこりと笑う。
「それに──一度助けたものを見殺しにするって、多分難しいよ」
何だこいつ。
呆れた。
言っていることはむちゃくちゃだし、そのくせ自分を王女だというし、家来になってほしいとかいうし。
ただ分かっているのは、子供は男を憎んでいないし、自身がこの子供を既に憎む気持ちもないということ。
というより。
男はツムをまじまじと見つめる。
「……何だよ」
「お前女だったのか」
呟いた途端、頭に衝撃が走った。ぱこーんと爽快な音。
「まともなことを喋ったと思ったらそれが最初か── !! 」
「ガキにしちゃ口が達者だなと」
「うるさいなー、おっさん! 思いっきり気にしてることをあっさりというなよ、家来の癖に── !! 」
「お前、家来の名前を『おっさん』っていうのか」
ツムが振り上げた拳を止めてぽかんとする。
「え? 家来? 本当に家来になってくれるの?」
「『なってくれるの』もなにも、お前いま素で俺のこと家来呼ばわりしていたぞ」
それに。
男の心を決めたものは、ツムの目許に微かに残っていた泣きはらした跡。
「俺の名前は『ユタ』って言うんだ」
「ユタ?」
「親がくれた名前は『ユタカ』ってんだけどな。子供のときから親や友達には『ユタ』って呼ばれてた」
「ユタ、か」
「そう」
男──ユタは改めて麻袋から黒パンをとりだし、かぶりつく。この先俺はこの小猿のように腕白で柄の悪い自称お姫様に仕え、守らなければならない。
「よろしくな、ユタ」
「おう。よろしく頼むぜ、ツム」
「えー、違うだろ、『よろしくお願いします』だろ?」
「その言葉遣いがまともになったらな」
──それが、最初の出会いだった。