第一章 善きサマリア人【画家×神父編】
20世紀初頭ポーランドを舞台にしたBL×神父×因習村×耽美小説です。よろしくお願いいたします!
プロット作成済み。8月末頃完結予定。
若き草に降る露のように、
ほのかな香りをあたりに満たし、
春を告げる雨のように、
渇いた土を慰める。
農夫の馬車が森を抜けると、折り重なった丘の向こうに青い山脈がいよいよはっきりと姿を現したが、エミルにはその雄大さに感嘆するだけの気力は残っていなかった。
道沿いに流れる渓流は穏やかにせせらぎ、春の清らかな光できらめく川面は美しかった。だが遮るものが無い高地の強い日差しは、無蓋の荷台に腰掛け、黒一色を纏った若い神父には容赦がない。
エミルは白い襟布を緩めたい衝動を堪えながら腰に手を伸ばし、カソックの襞に汗ばんだ手を忍ばせる。そしてポケットから出した懐中時計を開き、表情を曇らせた。
「すみません。あと、どれくらいで着くでしょうか?」
エミルは、ためらいがちに農夫に尋ねた。しばし馬の蹄が砂利道を蹴り、馬車が軋み、エミルの隣の農具が微かに触れ合う音だけが聞こえる。聞こえなかったのだろうかと不安に思ったその時、農夫はやっと口を開いた。
「あと少しでさ」
半刻前と、全く同じ返答だった。
エミルはため息を押し殺した。馬車が駅を出てから、すでに二時間以上が経っている。昨日、朝早くから汽車の硬い座席に背中を預け、さらに騒がしい居酒屋の宿で眠れぬ夜を過ごした身体には、この揺れはひどく堪えた。せめてあと何分かかるか分かれば多少は気が楽になるが、仕方ないだろう。
これから赴く村には、時計がひとつも無いかもしれないのだ。
「神父様は、以前もガリツィアにおいでで?」
「…いえ。そういうわけでは」
農夫がなぜそんなことを聞くのか、エミルにはなんとなく分かった。汽車を乗り継いで都会からやって来た神父が、農夫の訛りを難なく聞き取っていたからだろう。
「ですが、孤児院育ちのもので。ガリツィアから来た子供も大勢居ました」
エミル自身も、まだ方言を覚えていた自分に少なからず驚いた。だが四歳で孤児になり、ガリツィア出身のシスターや子供達と長い時間を過ごしたのだから、不思議でもないだろう。遠い孤児院での日々が、不意に脳裏に蘇る。厳しいシスターたち。
一日の隙間を埋め尽くすように訪れる祈りの時間。
そして夜、啜り泣く新入りの子供たち。涙が伝染したように広がる夜には、エミルもこの時ばかりは優しげなシスターたちと一緒に子供たちを慰めた。シスターの真似をして子供の体を抱き、
「お母様は天国から主と見守ってくださっているよ」と囁くのだ。
思えば、あの時の経験があったからこそ、エミルは神父を志したのかもしれない。勉学に励み、祈りを捧げる時間も心安らいだが、暗闇の中で子供達を慰めた時間こそが、同時にエミル自身の孤独をも癒したのだった。幼くして聖書に精通し、誰よりも面倒見の良かったエミルは、シスターたちの推薦を得て小神学校に入学した。やがて都会の大神学校へと進み、エミルはそのまま古都クラクフで神父となった。そしてそれから十年近く、あの美しい街で人々のために勤めを果たしてきたのだ。
このままずっと、死ぬまで居るはずだった。
──がくん、と馬車が大きく揺れ、うたた寝をしていたエミルは、はっと顔を上げた。
「すみません、神父様。ここまでで勘弁してくだせえ」
エミルは、馬車の上から周囲を見渡した。馬車は、渓流に架かる橋の手前に停められていた。もう着いたのだろうかと一瞬期待したが、家らしき影も、羊の一頭さえも見当たらない。橋は年季が入っているものの、頑丈そうで、馬車を通すには十分な幅があるように見える。どこかで小鳥が囀り、土埃で汚れた馬は足元の草を喰んだ。
村は、橋を渡ってすぐなのだろうか。
ガリツィア鉄道の終着駅で、村まで乗せて行ってもらうよう農夫と交渉したはずだった。それがなぜ、このような人気のない場所で降ろされるのだろう。
神父の物言いたげな視線に、農夫は気まずそうに帽子を深く被り直した。いままでポーランド最南端のこの辺鄙な場所にやってくる神父といえば、療養か、最後の勤めとしてやってくるような老人ばかりだった。それに比べて、緩く波打つ黒髪に青い目をした若い神父は、背が低く、童顔で、まるで少年のように見えた。よく見れば、痩せた頬からかろうじて二十代半ばを過ぎていると分かるくらいで、厳しい農作業で老いが早いガリツィアの農民からすれば、赤ん坊同然の肌をしていた。
「橋を渡ってしばらく歩いたら、ヤヴォルニクの村です」
神父は橋の先を見つめた。細い道は、緩やかな谷間を縫ってまだまだ先へと伸びていくように見えた。農民の暮らしを仄めかす畑の気配さえ、まだしそうにもない。なぜ橋を渡らないのか尋ねようとすると、農夫が先に口を開いた。
「勘弁してくだせえ。あそこの村には、魔女がいるってうわさです」
思いがけない言葉に、エミルは凍りついた。咄嗟に胸に触れ、十字架を切る。背筋にすうっと悪寒が走ったのは、先ほどの汗が引いたせいだろうか。
「なんということを」
「すいやせん」
神父の怯えた声に、農夫は小声で謝った。
「でも、おっかなくて。おれの村でも、他のどこの村でもヤヴォルニクの話すらしたがらない。こんなに近くに来ちまっただけでも、限界なんです」
肩を強張らせていたエミルだったが、やがて手綱を掴んで項垂れる農夫を、同情の眼差しで見つめた。今日はイースターの月曜日だと言うのに、自分の都合で、彼の村から遠く離れた場所まで馬車を走らせてしまった。他の農民たちは、今頃は農作業も早々に切り上げ、家族で祝いの食卓を準備している頃だろう。そして、都会ではまず聞かないような迷信を耳にすることは、もとより覚悟の上だった。今まで住んできた近代的なクラクフとは、わけが違うのだ。
「分かりました」
本来なら昨日の夕方には村に着いているはずだった。それが線路の倒木で汽車が立ち往生してしまい、
一泊を余儀なくされ、今朝の始発に乗り込まざるを得なかったのだ。
今日執り行う予定だった朝のミサには、どうせもう遅すぎる。もはや、焦っても仕方がなかった。
神父は、懐中時計とは反対側のポケットに手を伸ばした。農夫の期待に満ちた眼差しが、その手を追うのが分かる。皮の小銭入れから硬貨を数枚差し出すと、農夫は帽子を脱いで恭しく頭を下げた。オーストリア皇帝の横顔が刻まれた硬貨は、すぐに擦り切れたベストの懐に消えた。
「ありがとうございやす、神父様。これで家族に、腹いっぱい食わせてやれます」
エミルは、痩せこけた農夫の顔を見て微笑んだ。自身も四旬節の断食明けだったが、蓄えが底をつく冬を乗り越えたガリツィアの貧しい農民たちにとっては、それ以上に厳しい日々だっただろう。
エミルは馬車を降りた。農夫から重い鞄を受け取り、そのまま手の甲を差し出す。農夫が手に唇を寄せるのをエミルは慈愛の瞳で見つめ、口を開いた。
「"主イエス・キリストに祝福あれ"」
「"永遠に"」
「主があなたと共にありますように」
決まりの挨拶に神父はそう付け加え、祝福の十字を切った。帽子を被り直した農夫は無言で会釈をしてから、手綱を厳しく振るった。馬が息を震わせ、馬車は来た道を引き返し始める。その時、馬車の軋む音に混じって、農夫が小声で呟くのが聞こえた。
「神父様にも」
エミルの顔から笑顔が消えた。まるで、エミルにこそ神の特別の庇護が必要であるかのような言い方だった。エミルは彼の「魔女」という言葉を思い出して身震いしたが、やがて重い鞄を肩にかけ、橋を渡り始める。古びた床板が、体重を受けて危うげに軋んだ。
その時突然、エミルは自分がクラクフから遠く離れた場所に来てしまったことを、どうしようもなく実感した。聳え立つような聖堂の祭壇画とも、街を軽快に駆け巡る路面電車とも、平坦に舗装された道ともしばらくお別れなのだ。だが、これもまた神のお導きだ。
エミルはこつこつと履き古した革靴の音を響かせ、やがて不慣れな土の地面へと歩みを進めた。宣教のためにガリラヤの荒野を三年間歩んだキリストに、あるいは伝道のために世界の果てまで旅をした偉大な聖人たちに想いを馳せながら。
だがいくら祈りを捧げながら歩もうとしても、やがてエミルの脳裏には"彼"が浮かんできた。
彼の髪は、いつも少し乱れていた。その頭が振り返る時、そこにあるのは快活に笑う顔か、あるいは暗く沈んだ顔なのか、決して予想がつくことはなかった。指先はいつも落としきれなかった色で染められ、油絵の具の溶き油が微かに漂っていた。
彼と初めて言葉を交わしたのは、聖マリア聖堂の告解部屋の中だった。かつてのポーランドの首都、古都クラクフには、長い歴史を誇る見事な教会がいくつもあった。その中でも聖マリア教会の司祭で居ることが、エミルにとっては静かな誇りだった。まだ神学校で学んでいた頃、新しい内装が完成したばかりの聖堂に足を運んだ時の衝撃を、昨日のことのように覚えていた。
歴史画家のヤン・マテイコが手掛けた内装は、それまで見たこともないほど独創的なものだった。青い天井は夜明け前の空のように深く、且つ鮮明で、無数の黄金の星模様に覆われていた。幾学模様や天使が描かれた壁面は色鮮やかでありながら毳毳しさはなく、シュトースによる十五世紀の
祭壇画と見事に調和していた。さながら、小宇宙のようだった。
やがて叙階され、聖マリア聖堂に配属されたことをエミルは心から主に感謝した。教会で助任司祭として長年務めてきた後でも、エミルは十字架を見上げる度に深く心動かされた。磔刑のキリストはまるで、満点の星空を昇っていくかのようだった。その瞬間、月が太陽を完全に覆い隠したという二千年前の奇跡を、今実際に目撃しているかのようだった。
それからエミルはずっと、静かに満たされて暮らしてきた。信者たちの声に耳を傾け、導き、共に祈り、主に思いを馳せる日々だった。
だがその平穏は、彼を告解部屋に迎えたあの日から、知覚できないほどにゆっくりと、だが着実に変わっていった。
「告解はいつぶりですか?」
「さあ。子供の頃以来かな」
去年の冬、クリスマスの数日後、朝のミサが終わった直後のことだった。薄暗い告解部屋の中で、エミルは戸惑いの眼差しを格子窓に向けた。無頓着そうな声で答えた青年が、向こう側で壁にだらしなく寄り掛かる姿がうっすらと見える。
エミルは、ミサの最中にベンチの片隅にぽつんと座っていた彼の顔を思い浮かべた。身なりは多少乱れていたものの、端正な顔立ちの青年で、エミルよりいくらか年下に見えた。エミル自身、実年齢通りの三十二歳に見られることはまず無かったが。初めて見る顔だったこともあり、つい気になった
エミルは、主任司祭の説教中に彼の姿を何度か盗み見た。頭上のキリストを凝視する顔は真剣で、どこか悲痛さを滲ませている気がした。
その時、彼が突然エミルの方を見て、目が合った。
本来なら、別に動揺するようなことでは無かった。教会を訪れた新しい顔に、司祭として親切に微笑みかけるくらいすれば、それで済む話だった。
だがその時のエミルは、何故か咄嗟に視線を伏せてしまった。強い鳶色の瞳に捉えられ、胸を射抜かれたような奇妙な動揺が走った。自分でも訳が分からず、信者を導くべき立場として恥ずかしかった。
エミルの困惑は、それだけで終わらなかった。ミサが終わった後、青年はすれ違いざまにエミルへ目配せをすると、そのまま空室の告解部屋の方へと赴いたのだ。そして扉を閉める直前、青年は誘うようにもう一度、エミルと視線を交わした。どこか、挑発的な眼差しだった。
エミルは躊躇した。マリア聖堂は規模が大きく、エミル以外にも何人もの司祭が常駐している。告解部屋は複数あり、司祭が既に待機している他の部屋に入ることも出来たのに、何故エミルを呼ぶのだろう。だが、まさか信者を拒むわけにもいかない。エミルは吸い寄せられるように告解部屋へと赴き、信者側と薄い壁で隔てられた小さな空間に入ると、静かに扉を閉じたのだった。
エミルは気を取り直し、司祭として彼の話を聞くことに集中した。
「教会に来るのは久しぶりですか?」
「そうだね。少なくともクラクフに住むようになってからは、一度もないな」
どうやら、あまり信心深くはないらしい。もっとも、今どきの都会では珍しいことでも無かった。
聖堂と同じ広場にあるヤギェウォ大学では最新の科学や哲学を学ぶ学生が大勢居たし、近代思想と信仰との折り合いに苦悩する彼らから相談を受けることは多々あった。さらに昨今はスラヴの古代の神々をモチーフにした芸術活動も盛んで、異端の文化へ回帰するような熱狂はしばしば司祭たちを悩ませていた。
だが、文化が花開くポーランド唯一の「自由都市」とあっては、当然のことなのかもしれない。寛大なオーストリアの統治下にあるこの街と違い、ドイツとロシアの支配下にある地域では、子供たちは学校で母国語を学ぶことすら許されないのだ。そんな現状を受けて、クラクフ市民たちの民族意識はかつてないほど高まっていた。
「でも、ここには一度来てみたかったんだ。マテイコの絵が見たかったしね」
そう言った彼の側から、ふと嗅ぎ慣れない匂いが漂ってきた瞬間、エミルはようやく腑に落ちた。
そうか。この匂いは、油絵の具か。
着古した衣服からも察するに、彼は売り出し中の貧乏画家というところだろう。ひょっとしたら、マテイコが十年前に亡くなるまで校長を務めていた、美術学校の卒業生かもしれない。だが、だとするとエミルは尚更不思議に思った。信心がなくとも、今まで教会に"作品"を観に来ることすら一度もなかったのだろうか。
「なかなか悪くないね。祭壇画とも、よく調和しているし」
青年が無感動に批評を続けるのを聞いて、エミルは困ってしまった。格子の隙間から、彼の薄暗い横顔につまらなさそうな表情が浮かんでいるのが見える気がした。彼は、何をしにここへ来たのだろう。エミルは軽く咳払いをし、司祭としての主導権を取り戻そうとした。
「あの。告解を…」
格子の向こうの顔が突如こちらを振り向き、エミルの言葉を遮った。
「神父様は、随分と熱心に祭壇画を見上げていたね。毎日見ていても、そんなに新鮮なもの?」
エミルは呆気に取られた。こんなにずけずけと、ましてや告解部屋で、逆に詰問されるようなことなど初めての経験だった。ミサが終わり、信者がほとんど退いた静寂の中で、祭壇画に見入っていた姿を観察されていたという事実にも動揺した。
格子の向こうで、彼の瞳が挑戦的に光っている。慣れたはずの告解部屋が、突然、呼吸もままならない程に狭く感じられた。パニックになりかけたエミルの唇は、気がつけば勝手に言葉を紡いでいた。
「亡くなった母を、思い出すからかもしれません」
咄嗟に零れ落ちた言葉に、エミルは自分で驚いた。
教会が冠するその名の通り、シュートスの祭壇画の主役もまた、聖母マリアだった。左右のパネルには、「聖母の六つの喜び」としてキリストの降誕や復活の様子も描かれているが、中央に据えられているのはあくまでもマリアその人だ。
十三メートルにも及ぶパネルの底部。立体的に刻み出された十二使徒たちの中央で、永眠の瞬間を迎えたマリアは、力が抜けたように跪いている。息子であるキリストが昇天してから長い年月が経っているはずなのに、彼女の顔は滑らかで、かろうじて生気が抜けたかのように微かに弛緩しているくらいだ。
その真上には、天使たちに囲まれイエスと共に昇天していく彼女の姿がある。両手を合わせ天を見上げる聖母は、頬がふっくらとした乙女の顔で、優しく寄り添うイエスとどこか顔つきが似ていた。
そして祭壇画の頂上には、聖母戴冠の彫刻が堂々と鎮座していた。左右に立つイエスと天父、そして頭上には聖霊を表す鳩、つまり三位一体が彼女を見守る中、恭しく膝をつく聖母の頭へと、キリストが黄金の冠を今にも授けようとする栄光の瞬間が、永遠として切り取られていた。
「母は、私が四歳の時に亡くなりました。父が事故で亡くなって間もなくチフスに罹り、随分苦しみました」
エミルの母は、信心深かった。物心つく前からエミルは母と共に祈りを捧げ、家事の合間に母はエミルに聖書の物語を教えた。塩炭鉱で働く父とは夕飯の時しか顔を合わせなかったが、毎日必ず、母と一緒に父の無事を祈ったものだった。
だが父は、事故で呆気なく死んだ。炭鉱の奥深くで発生した火災に巻き込まれ、遺体さえ回収できなかった。父が最後の審判における「復活」の拠り所である肉体を失ってしまったことが、母には何よりも耐え難い衝撃だったのかもしれない。
母はひどくやつれ、さらに家計のための凡ゆる雑役の仕事で忙殺されるようになると、病の手に堕ちるのはあっという間だった。高熱を出して寝込んだ母を、エミルは懸命に看病した。慣れない手つきで粥を作り、口へ運び、その身体を拭いてやった。胸元を拭くと、そこには薔薇の花びらのような発疹が浮かび上がっていた。
やがて状況に気がついた教区司祭が見かねて手を回し、エミルは孤児院に連れて行かれることになった。
「お母さまが治るまでの辛抱」だと説得され、家から引き剥がされたあの日に見た、寝台に伏した母の姿を覚えている。最期の方は意識が朦朧とし、死んだ父や神へのうわごとを繰り返すばかりだった母は、別れのその瞬間だけは、しっかりと目を開いてエミルを見つめていた。
静かな、落ち窪んだ目だった。顔は痩せ、薔薇疹は顔まで広がり、かつての少女のような影はもうどこにも無かった。
「孤児院に入って間もなく、母の死の知らせが届きました」
話しながら、エミルは立場が逆転してしまったかのような不思議な感覚に襲われていた。これではまるで、青年がエミルの告解を聞いているかのようではないか。だが一度話し始めると、堰を切った
ように止められなかった。今まで、母の死の生々しい仔細を、こんなふうに思い出したことは一度もなかった。母の最期に立ち会えなかったことにどれほど深く傷付いたか、エミルは信仰の裏側にすっかり忘却していたのだ。
「母も今頃は、天で栄光の日を待っているかと思うと…」
エミルは喉を詰まらせた。自分の言葉に、深く動揺していた。あのシュートスの美しい聖母像に、母の面影を重ねて見ていたことにやっと気が付かされたのだ。エミルはずっと、神の約束した「復活」の教えに救われていたのだ。
美しかった母の体が腐るようにして潰えたことが、本当はずっと受け入れられなかった。あの清らかな聖母像のように、健やかだった頃の母が天で待ってくれていることを、エミルはずっと心の支えにして生きてきたのだ。
壁の向こう側の青年は、エミルが語り終えてからも、ずっと沈黙を保っていた。エミルは唐突に我に返り、慌てて目尻の涙を拭った。司祭が信者に己の脆弱な過去を一方的に曝け出すなど、聖職者としてあるまじきことだ。激しい自己嫌悪が押し寄せ、謝罪の言葉を口にしようとした、その瞬間だった。
「すみませんでした」
やっと聞き取れるくらいの掠れた声が呟かれたかと思うと、反対側の扉が、勢いよく開く音が響いた。エミルも慌てて外へ飛び出したが、青年は外套の裾を翻して、既に足早に教会の出口へ突き進んでいた。厳かな堂内に青年の荒い足音が響き、何事かと振り返った司祭や信者たちの視線が、青年の背中に、そして取り乱した様子のエミルに一斉に向けられる。エミルは、肩を怒らせ、何かから逃げ出すかのような青年の後ろ姿を、重厚な扉の向こうに見失うまで見つめ続けることしか出来なかった。
突然眩暈がしたエミルは、息を切らしながら道の真ん中で立ち止まった。谷間は僅かに狭くなり、微かに岩肌を除かせた緑の斜面がエミルを両側から見下ろしている。肩に食い込む鞄をどさりと地面に下ろすと、持参したミサ用のワインが重たげに揺れる感覚が手に伝わった。
エミルは、膝を掴んで項垂れた。日差しは相変わらず強いのに、先ほど感じた悪寒が全身にじわじわと広がり、止まらない。冷たい汗が額から吹き出て、身体に痛みまで感じ始めていた。熱が出ていることは、もう疑いようがなかった。
思えば、夜まともに眠れていないのは、すでに二日連続のことだ。昨日のクラクフでの「復活の主日」のミサは、慣習どおり夜明けと共に執り行われた。新しく生まれ出た太陽の光が聖堂に差し込む様子は感動的だったが、夜中から準備に追われる司祭の体力は削られる。不眠不休のまま旅に押し出され、焦燥と緊張に晒され続けたエミルの身体は、とっくに悲鳴を上げていた。
だが、ここで止まるわけにはいかない。それに、ここまで来れば村までそう遠くはないはずだ。自分を奮い起こしたエミルはやっとの思いで顔を上げると、鞄を拾い上げ、重たい脚を引き摺りながら再び歩みはじめた。
新年が明け、公現祭も終わり、街の非日常感もようやく薄れたある日のこと。朝のミサを終えたエミルは、クラクフの中央広場をあてもなく歩き始めた。先月から休みをとってないことを主任司祭に咎められたエミルは、今日は聖堂から完全に離れて過ごすよう、半ば強制的に命じられてしまったのだ。
いざ休みだと言われても、エミルは何をして良いのか分からなかった。聖堂の静寂で過ごすことが何よりの安らぎであったし、迷える信者たちの話に耳を傾け続けることは時に心身を疲弊させもしたが、やりがいがあった。
それに、忙しくしていないと、余計なことを考えてしまいそうで怖かった。特に今は、告解部屋での失態と、あの青年のことが繰り返し心に浮かんで仕方がなかったのだ。
彼はあの日以来、一度もマリア聖堂を訪れていなかった。
エミルは、案の定青年のことを思い浮かべてしまった自分に気が付き、ため息をついた。
今日は、美術館にでも行こうか。
エミルはそう思いついた。チャルトリスキ美術館なら、聖堂のすぐそばにある。久しぶりに巨匠たちの宗教画を眺め、静かに一日を過ごすのも悪くないだろう。
そうと決めたエミルは、いつも持ち歩いている祈祷書を片手に、フロリアンスカ通りの角を曲がった。旧市街の中央通りは相変わらずの人通りで、賑やかだった。空気は刺すように冷たかったが、よく晴れた冬の青空が気持ち良い。歴史あるタウンハウスの一階に組み込まれた飲食店や小売店のウィンドウをのんびり眺めながら歩いていたエミルは、ふと足を止め、しまった、と心の中で呟いた。
目線の先に、「ジャマ・ミハリカ」があった。新進気鋭の芸術家たちが好んで集うことで有名な、活気のあるカフェだ。貧しい画学生の絵と引き換えに食事を提供していることもあり、店内はいつも進歩的な若者で溢れかえっていた。開店直後の今も、ガラス越しに遅い朝食を取る彼らの姿が見えた。
そして、カフェの外壁に寄りかかり、今まさに紙巻煙草に火を着けようとしている鳶色の髪の青年は、他でもない、あの若い画家だった。
エミルは頭が真っ白になった。物思いに沈んだ様子で煙を吐き出す画家の顔を、しばしの間、金縛りにあったように見つめたが、我に帰ると咄嗟に方向転換をし、その場を離れようとした。だが、黒一色の神父の姿は、街中では案外目立つ。背後から石畳を蹴る足音と、青年の焦ったような呼びかける声が聞こえたのは、ほぼ同時だった。
「──神父様!」
エミルの胸は苦しいほどに締め付けられ、だが同時に、どうしようもなく踊るような感覚に襲われた。
観念したエミルが立ち止まり、ゆっくりと振り返ると、青年は息を弾ませながら追いついたところだった。煙草は捨ててきたらしかったが、彼の身体からは煙の残り香が微かに漂い、あの油絵の具の匂いと混ざっている。久しぶりに鼻腔を擽る香りに、エミルは胸が締め付けられるような切なさを覚えた。
「良かった。その…」
青年は被っていた帽子を手の中で揉みながら、言いづらそうに俯いた。
「あの日のことを、ずっと謝りたかった。でも、教会に行く勇気がなかなか出なくて」
走ったせいか、あるいは凍てつく外気のせいか、青年の頬と鼻頭は林檎のように赤い。端正な眉を寄せ、必死に言葉を探っているようだった。
「気づいているかも知れませんが、僕は…キリスト教に思い入れがある方とは言えなくて」
青年はそこまで言うと少し黙ったが、すぐに意を決したように顔を上げた。
「でも、あの日の僕の態度は完全に八つ当たりでした。それも、年下のあなたに。恥ずべきことだ。本当に、申し訳ない」
そう言って、青年は深々と頭を下げた。
エミルは一瞬で顔を赤く染めた。実年齢より若く見られることは今に始まったことではないが、賑やかな往来で男に頭を下げられる状況の異様さも相まって、余計に恥ずかしさが込み上げる。エミルは慌てて青年の肩を叩き頭を上げさせると、もごもごと自分の年齢を伝えた。
青年は呆気に取られたような顔をした後、破顔して口を大きく開けて笑った。
「四歳も年上とは!これは、失礼しました」
エミルは青年の笑顔を見上げ、釘付けになってしまった。あの告解部屋で挑戦的に目を光らせていた時とはまるで違う、人懐っこい、惹きつけられるような温かい笑顔だった。ひとしきり笑った後、若い画家はいくらか改まってエミルを見つめた。
「神父様は、甘いものはお好きですか?お詫びに奢らせてください。チーズケーキが有名ですよ」
彼はそう言いながら、背後のカフェの扉を親指で指し示した。
エミルの心は揺れた。節制の日々を送るエミルにとって、甘味の誘惑は確かに抗い難い。だが今はそれ以上に、この青年ともう少し言葉を交わす機会こそが、ひどく魅力的に思えてならなかった。
「…それに、良かったら、聖書についてもお聞かせ願いたい。あなたと話をして、初めて興味を持ったかもしれない」
青年の真摯な言葉に、エミルはすぐに言葉を返せなかった。だが、例えば若い婦人と二人きりで繰り返し会うならともかく、相手は聖書を学びたいと願う青年だ。ユダヤ人のラビと定期的に議論を交わす司祭さえ珍しくない都会なのだから、芸術家の青年とカフェに入ることくらいは、神の目から見ても許されるだろう。
それなのに、何か不道徳なことに手を染めているような後ろめたい気分になるのは、何故なのだろう。
胸の違和感を無理矢理振り払ったエミルが小さな頷きで了承すると、青年はほっとしたように笑った。
「ありがとう。ええと…」
「…エミルです」
青年の尋ねるような視線に応じるように、エミルは名乗った。鳶色の瞳に真っ直ぐに射抜かれながら、青年の薄い唇が「エミル、」と味わうように低く囁く。聖職者となって以来、神父の肩書なしで名前だけを呼ばれるのは、本当に久しぶりだった。不意に熱い息を直接吹きかけられたかのように、
エミルのうなじの皮膚がぞくりと粟立った。
「僕は、ヤンです。しがない貧乏画家だよ。ヤシェクと呼んでくれて構わない」
ヤシェクは少しおどけた笑顔を浮かべ、微かに絵の具で汚れた手を差し出す。エミルは一瞬躊躇したが、やがてそっと手を伸ばして握り返した。ヤシェクの熱く乾いた手が、エミルの冷えた手を包み込むように握った。
俗世の友情とはこんなにも温かく、そして魅惑的なものなのだろうかと、エミルはヤシェクと出会って生まれて初めて感じていた。
もちろん、神学校時代にも親しい学友は居た。だが彼らが一番重んじていたのはあくまで主との関係であり、聖職者同士の関係はどこか一線を画したものだった。だがヤシェクとは、カフェに足を踏み入れたその瞬間から、まるで長年の友人のような親密さで心が結びついていくようだった。
「ミハリカの洞窟」というその名の通り、窓がないこのカフェは一度奥に居座ってしまえば、昼か夜かも忘れてしまいそうな空間だった。アール・ヌーヴォー調の品の良い調度品に囲まれ、大勢の客がゆったりと煙草を燻らせる薄暗い照明の中、エミルは途中から皿の上のセルニックを食べることも忘れ、向かいに座ったヤシェクの話に聞き入った。創作をめぐる彼の生き生きとした語り口は、これこそが自分の本質だとばかりに、強い熱意に溢れていた。
ヤシェクは壁中にかけられた風刺画や油絵の中から彼自身の作品を指し、「僕が詳しいのはこの神々さ」とエミルにスラブ神話の登場人物たちを紹介した。昨今の他の若手画家と違わず、ポーランド南部のタトラ山脈の厳烈な自然に魅入られた彼は、雄大な山々を舞台に自らの心象風景を描いているらしい。暗い森の奥、朽ち果てた荒屋の扉の隙間から、盲目の白い目でこちらを睨みつける、骨と皮に痩せ細った老婆はバーバ・ヤーガ。真夜中の墓地から這い出でて、二重に生え揃った歯を剥き出しにして大口を開ける蘇りし死体は、シチシガ。それらは、いかにもおどろおどろしい異端の怪物という趣だった。
エミルは思わず眉を顰めて渋い顔になってしまったが、それを見たヤシェクは「ただの表現だよ。古い御伽話の、可愛い妖精たちさ」と軽快に笑い飛ばした。エミルも、つられて薄い笑みを浮かべた。
けれど、激しい憎悪を撒き散らすかのような妖怪たちは、一体彼のどんな心の一面を表しているのだろう、と思いを馳せずにはいられなかった。
その後二人で美術館に赴くと、彼はそこでも解説をしてくれた。絵が生まれた背景や技術など、今まで考えもしなかった事実は絵を何倍も興味深くした。反対に、聖書の物語をエミルはヤシェクに語って聞かせた。レンブラントの「善きサマリア人のいる風景」の前で、エミルはこの話への思い入れを語った。
「善良な行いをする人こそが主の前で正しい人である。これほどに美しく、単純な真理があるでしょうか」
二人は肩を並べ、黙ってその風景画を眺めた。
一見、夕暮れの不穏な空が半分を占める、自然を題材に描いたように見えるその作品は、よく見ると人間たちによるドラマが小さく描き込まれていた。
強盗に襲われ傷ついた旅人を唯一無視することなく、自らの馬に乗せ、彼の背中を優しく支えて歩く異邦のサマリア人。そして、関わり合いを恐れて見て見ぬ振りをし、足早に立ち去っていく司祭やレビ人たち。道は平野を辿り、木立を抜け、よく見ると山間の村に向かって伸びているらしい。宿屋までの彼らの道のりは、まだまだ遠いようだった。
エミルは、いつもサマリア人のように無私の慈悲を授ける存在でいられたらと、今一度願った。
ヤシェクはその絵を見つめながら、ぽつりぽつりと自身の生い立ちについて話し始めた。郊外の中流家庭の生まれで、厳格な父は法律家であったらしい。信心深い家庭ではあったが、ヤシェクからすれば、時に法律の抜け道を探し出して依頼人を勝たせる父親の職業は、お世辞にもあまり道徳的とは思えなかった。
「ひどく偽善的に思えてね。そのくせ父の言う信仰は、罪悪感で押さえ付けてくるようで、息苦しかった」
そうして画家を目指して勘当されたってわけさ、とヤシェクは戯けて付け加えたが、エミルは笑うことが出来なかった。その率直な吐露に、胸を打たれた。時にキリストの教えが脅迫的に捻じ曲げられ、歪んで伝わってしまう難しさをエミルも日々実感していたのだ。
美術館の中の静かな回廊をしばらく黙って歩いた後、考え込んでいたエミルはやっと口を開いた。
「日々、皆さんの告解を聞いていると、この世を清く生きて行くことの難しさを思い知らされます」
俗世で生きるということは、絶え間ない苦難の連続だ。エミルたち司祭のように、俗世の汚れから守られた聖堂で、毎日祈って暮らしていけるわけではない。
「誰だって、出来ることならいつでも善きサマリア人でありたいと本当は願っているはずです。ですが、旅人を救わなかった祭司もレビ人も、そして旅人の着物を奪った強盗でさえ…その日を生きて行くことに必死だったのかもしれません。この世界に肉体を持って生きる人ならば、誰だってそうなのです」
エミルは、ヤシェクの反抗の理由が分かるような気がした。ヤシェクは俗世の逃れられない罪深さに、その繊細な感性ゆえに耐えられなかったのだ。
今思い返せば、ヤシェクの描いた一見恐ろしい妖怪たちの瞳はみな、深い悲しみを湛えている気がした。
「誰しもが主の前には等しく罪人です。だからこそ、私たちは自分の罪を深く自覚し、少しでも主の光に近づけるよう努力するべきなのです。あなたのお父様も、その葛藤の中にいらっしゃることを祈ります。」
ヤシェクはそれ以上言葉を返さず、黙ってエミルの話を聞いていた。やがて、柔らかな微笑みを浮かべて、じっとエミルを見つめた。
「神父様も、罪を犯す?」
「もちろん、日々犯していますよ」
エミルは真面目な顔で強く頷いてみせた。
「今日は、あのセレニックとコーヒーについて懺悔しなければなりません。ケーキに耽溺するに飽き足らず、飲み物にまでクリームと砂糖を入れすぎてしまいました」
ヤシェクは不意を突かれたように、喉の奥でくつくつと嬉しそうに笑った。エミルも、そんな彼を見て微笑んだ。
けれど本当は、エミルはヤシェクのことも懺悔しなければならない、と心の奥底で思っていた。この若い画家に少しでもよく思われたい、価値ある聖職者として見てほしいという、酷い虚栄心を痛いほどに自覚していたのだ。
「いつでも、ミサでお待ちしています」
別れ際、そうやんわりと告げてから、エミルは美術館の出口でヤシェクと別れた。彼に背を向けた瞬間胸に切なさを覚えたが、振り返りたい衝動を堪えて、聖堂に向かって歩き始めた。冬の日は既に傾き始め、夕陽がクラクフの街を赤々と照らしていた。
翌日のミサが始まると、エミルは祭壇の上から、他の信者たちに混じってベンチに腰掛けるヤシェクの姿を見つけた。本当に来てくれたことが嬉しくて、エミルはたまらず笑顔を投げかけた。ヤシェクは照れ隠しのように口を歪ませてから、そっとエミルに微笑みを返した。
道はいつしか渓流沿いから離れ、エミルを取り囲む景色は、ゆるやかに波打つ草原へと姿を変えていた。
疲労でかすむ目が、ふと道の先に黒い大きな塊を捉え、エミルの胸は期待でどきんと跳ねた。エミルは気力を振り絞って歩みを早めたが、すぐに落胆した。道に面したそれは家には違いなかったが、藁の屋根はとっくに腐り落ち、土台と柱の一部しか残っていない、うらぶれた廃屋だった。
裏切られた期待に、エミルの心が今度こそ折れそうになった、その時だった。優しい風が草原を渡り、潤いを含んだ濃厚な土の匂いがエミルの鼻先を掠めた。
急いで少し先の分かれ道まで辿り着いたエミルの胸は、今度こそ希望で大きく膨らんだ。
畑だ。
草原のなだらかな斜面の向こうに、幾筋もの畝を描いて、鋤き起こされた黒々とした土が一面に広がっているのが見えた。都会暮らしのエミルにも、今が農民にとって種を植える時期だと言うことくらいは分かる。人の手が入った土地に、エミルはようやく辿り着いた。きっと、この丘をもう少し進めば、村だ。
安堵の息を吐き、そのまま道を辿ろうとしたエミルは、ふと足を止めた。分かれ道のもう一方は、青い草原を縫うようにして上り、その先の鬱蒼とした森へと続いていく。エミルは森の境界に目を凝らし、じっと耳を澄ませた。梢の向こうから、かすかに、だが確かに聞こえてくる音。神の家の場所をエミルに知らせるように鳴っているのは、間違いなく教会の鐘の音だった。
エミルは導かれるようにして踵を返すと、暗い森を見つめながら細い上り坂をゆっくりと歩み始めた。
ある日の午後、ヤシェクと旧市街を囲む緑豊かな歩道を散歩していると、彼が不意にエミルをスケッチしてみたいと言い出した。二つ返事で了承すると、では「今から来るか」と尋ねられ、エミルは彼の自宅に招かれているのだと初めて気が付いた。
てっきり外のベンチかどこかでスケッチをされるのかと思い込んでいたエミルは、やはり断るべきかと悩み、しばし黙ってしまった。エミルはただでさえ、ミサの後にこうしてヤシェクと時間を過ごすことが、あまり頻繁にならないように自戒していた。彼との友情に執着し始めていることをエミルは自覚していたし、何より一人の信者と過剰に距離を詰めすぎることは、やはり控えるべきことだった。
だが、期待を滲ませてエミルを見つめるヤシェクを見た瞬間、せっかくの友情にひびが入ることへの恐怖が、聖職者としての自覚を上回ってしまった。今回だけにしようと固くそう誓いながら、エミルは彼の提案を受け入れた。
古いアパートの軋む階段をやっと登りきると、ヤシェクが「清貧なら僕も負けてないよ」と冗談めかしながら扉を開け、エミルを招き入れた。確かに、神父寮のエミルの個室と似たような狭さだったが、そもそも私物が少ないエミルとは違い、俗世のひとり者の男らしく、乱雑に散らかっていた。ベッドや床に散らばった下着やシャツを部屋の隅に放り投げてから、ヤシェクは壁に何重にも立てかけられた大量のキャンバスを、次々と無造作に裏返し始めた。密かに彼の本格的な油絵を見ることを楽しみにしていたエミルだったが、それらが露になるにつれ、ミハリカに飾られた作品などは、客に配慮した大人しい部類でしかなかったのだと悟った。
まず目を引いたのは、森の暗い水辺から這い出る水の精ルサウカの姿だった。
一糸纏わぬ女の青白い肉体は、美しさや艶かしさと言うよりも、目を背けたくなるような生々しさが強調されている。ルサウカの絵は連作で数枚あったが、女の裸体に向けられた画家の視線は、どれも冷徹で厳しいものだった。
だが、何よりも強くエミルを魅きつけたのは、満月の凍てつく光に照らされて、今まさに森の境界から足を踏み出そうとする瞬間のレーシーの絵だった。
時に旅人を誘い込んで害をなす森の番人は、巨大な枝角を生やした白髪の老人で、またも完全な裸体であった。皺だらけの顔に反して、不自然なほどに猛々しく、強靭な体つきをした男の肉体。だがエミルは、その筋張った男の身体から目を離すことができなかった。
「神父様には、刺激が強すぎたかな?」
揶揄うような、いつもの軽快な声と共に、ヤシェクが振り返る。その瞬間までに、エミルは視線を逸らしそびれた。
女の裸体ではなく、レーシーの姿を凝視しているエミルの視線に気が付いたヤシェクの顔から、笑みが消えた。ようやく弾かれたように顔を背けたエミルの心臓は、肋骨を突き破りそうなほどに激しく鳴っていた。それとは反対に、部屋の空気は耐え難いほどに静まり返っている。
「…ここに座って」
ヤシェクは顔を伏せたまま呟いた。彼が部屋の端から引き寄せた椅子に、エミルは言われるがままに腰掛けた。
エミルは指定されたポーズを取りながら、何とか心を落ち着けようと必死だった。祈祷書を膝に置いて座ったエミルの斜向かいで、ヤシェクは黙ってイーゼルに立てかけた木炭を紙に滑らせている。
木炭が紙を擦る音が、部屋に規則正しく響く。ずいぶん長い間そうして固まっていると、やがてエミルの緊張は疲弊へと変わり、気が散り始めた。すると、目の端にちらつくヤシェクの視線がどうしても気になってしまう。耐えかねたエミルは、ヤシェクの視線が紙に向けられた隙をつき、つい彼の方に視線を泳がせてしまった。
すると、ほぼ同時に彼もエミルの方を見上げた。真剣な眼差しと真っ向からぶつかり、エミルは咄嗟に視線を逸らし、俯いた。
「顎、もっと上げて」
静かに命令するような声が降ってきた。エミルは反射的に従い、顔を持ち上げる。奇妙な動揺のせいで、顔から火が出そうなほど熱かった。どうか、窓から差し込む西陽で、彼に悟られないようにと祈った。
その時、ヤシェクが突然立ち上がった。椅子が床を擦る荒い音に、エミルはびくりと肩を揺らした。
「失礼」
短く呟き、彼がエミルの肩に軽く触れた。手の平で少し強めに押され、姿勢を整えられる。エミルは自分の胸の鼓動があまりに煩くて、もはや何も考えられなかった。
次の瞬間、ヤシェクの長い指が、エミルの耳にかかる髪を整えるように漉いた。指先はそのまま輪郭をなぞり、顎に添えられる。そのまま、僅かな力で顔の角度を調整された。その刹那、彼の指の腹が、愛おしむように肌を撫でた気がした。
「今日はもう終わろう」
突然指先が離れたかと思うと、ヤシェクはそう宣言して、身を翻す。エミルは唖然と彼の背中を見つめた。
「陽が傾いて、光が変わったから。続きはまた今度」
そう言って、彼は黙々と道具の片付けを始めた。エミルも、やがて黙って身支度をし、外套を羽織った。エミルが別れの言葉を呟き、部屋を出て行くまで、彼は一度も振り返らなかった。
慣れない地面で足をもつれさせ、何度か獣道を見失いそうになりながらも、エミルはついに鬱蒼とした森を抜けた。
視界が開けた丘の頂上。そこに、村全体を見渡すようにして、白い石造りの教会は静かに佇んでいた。
一本の立派な楓が寄り添うようにして立ち、その足元へ木陰を落としている。
近づいていくと、見かけよりも教会は荒廃していることが分かった。建設当初は立派だったかもしれないが、壁の漆喰は割れて剥がれおち、雨風に削られ、薄汚れている。
だが、いくら零落しようとも、そこは神の家だった。
エミルは立て付けの悪い扉に体重をかけて押し開けると、肩から降ろした鞄を足元に置いた。湿ったような匂いがする堂内は聖マリア聖堂より遥かに小規模で、天井や壁も薄暗い。だが静謐な空気に足を踏み入れた瞬間、身体の痛みや悪寒が、すうっと抜けていくかのようだった。エミルは正面の十字架に向かって、真っ直ぐに歩んだ。床板が軋み、エミルの足音が堂内にこだまする。木彫りのキリスト像は、都会と比べて素朴ながらも、全てを受け入れるような安らいだ表情を浮かべていた。
エミルは祭壇の前に跪き、深く頭を垂れた。旅の無事を感謝し、主に祈ろうとした。
だがエミルの心に浮かぶのは、ヤシェクのことばかりであった。
あのアパートでの一件以来、ヤシェクはぷっつりとミサに来なくなった。
エミルは時折、ヤシェクと通ったカフェの前や、彼と歩いた通りをあてもなく尋ねたが、彼の姿はどこにもなかった。胸に燻る言いようのない恐れもあり、エミルはなかなか彼の自宅を訪ねることはできなかったが、二週間が経つ頃には、エミルはいよいよ心配になった。それに、心身の汚れを洗い流す四旬節が始まる前に、どうしてもヤシェクに会いたくなった。
古い階段を登り、勇気を振り絞って扉を叩くと、やがて無精髭を生やし、血走った目のヤシェクが顔を出した。
彼の目に、微かな驚きと動揺の色が浮かんだ。だが彼は扉を開け放したまま、エミルを迎え入れることも拒むこともせず、無言で部屋の奥に入っていった。
ひりつくような空気を肌に感じながら、エミルは中に足を踏み入れた。部屋は以前来た時よりも、さらに酷く荒れて散らかっていた。部屋の片隅には、何枚かのキャンバスとともに、あの日エミルをスケッチしたであろう絵が引き裂かれ、打ち捨てられているのが見えた。
それを目にした瞬間、まるで引き裂かれたのが自分であるかのように、エミルの胸も激しく痛んだ。
ベッドの端に俯いて座ったヤシェクに、エミルは恐る恐る近づいていく。すると突然、彼はキリストに対して、繰り返すのもおぞましい罵詈雑言を吐き散らし始めた。
彼によれば、キリストは稀代の詐欺師であり、十字架の上で惨めな死を遂げてからというもの、教会の権力に利用され続けてきたただの死体に過ぎなかった。死後復活するという空虚な約束で大衆を唆し、日々の祈りで思考を奪われた聖職者たちは身内だけの結束を固め、あぶれた弱者や異教の民を虐げてきたのだ、と。キリスト教の血塗られた歴史と偽善について彼が批判するのを、エミルは唖然として聞くことしか出来なかった。
ヤシェクはふと語りを止めると、やつれた顔に歪んだ笑みを浮かべてエミルを見つめた。
「可愛いエミレク。君たち司祭は、結局男が大好きなのさ。聖堂の裏では、皆仲良くやっているか?」
激しい怒りと屈辱のあまり、エミルはどうやって部屋を飛び出したのか、その瞬間の記憶さえ白く吹き飛んでいた。
彼がエミルのことを愛称で呼んだのは、それが初めてのことだった。これまでの彼はどんなに砕けた調子で話そうと、最低限の敬意からか、呼びかけだけは「エミル神父様」と丁寧だった。よりによって、侮辱の意味を込めて愛称で呼ばれる日が来ようとは、夢にも思わなかった。
すっかり頭に血が上ったエミルは階段を勢いよく駆け降りていった。だが、階下へ進むにつれて、少しずつ平静を取り戻して行った。
彼があそこまで酷い言葉を並べるのは、きっと内面が激しく苛まれているせいに違いないと思った。
ヤシェクが芸術家らしい繊細な感性を持っているのは確かで、その分、少し気分に浮き沈みがあることには気が付いていた。今回のようなことは初めてだったが、彼はこれまでも創作に行き詰まり、どこか気が立っている姿を見せたことがあった。出来ることなら、エミルはヤシェクの話に耳を傾け、縛られた魂を解放してやりたかった。
そして何よりも、エミル自身が彼を許したかった。こんな形で、彼との友情を終わらせたくない。
エミルは踵を返し、再び階段を登り始めた。
開け放たれたままの扉にゆっくりと近づくと、薄暗い部屋の奥で、ベッドに座ったまま肩を震わせるヤシェクの姿が目に飛び込んできた。先程までのエミルの激しい怒りは、すっかり消え去っていた。
エミルはヤシェクのために心を痛め、みるみるうちに彼を映す視界が涙で滲んだ。
「ヤシェク…」
声を詰まらせながら彼の名を呼ぶと、ヤシェクはびくりと怯えたように引き攣らせてから、ゆっくり顔を上げた。頬をいく筋もの涙で濡らしたヤシェクは、縋るような希望を宿した瞳で、エミルを見つめた。彼は立ち上がり、大きく一歩を踏み出すと、エミルの手首を力強く掴み、引き寄せた。
その次の瞬間のことを、エミルはこの四十日間もの間、必死に心の奥深くへと封じ込めてきた。
エミルはキリストの足元にうずくまり、あのとき触れたヤシェクの唇の暖かさを思い出して顔を覆い、咽び泣いた。
あの日、ヤシェクはエミルに口付けた。そしてエミルは刹那、確かに目を閉じ、それを受け入れなかっただろうか。唇を押し付け返して、一瞬でも、その柔らかさに酔いしれなかったか。そのくせ次の瞬間には、罪の恐怖に駆られ、彼を突き飛ばして責め立てはしなかったか。呆然と立ち尽くすヤシェクに向かって、エミルの友愛の情に付け込もうとする「卑怯者」と罵声を浴びせはしなかったか。
本当の卑怯者は、誰よりも穢らわしい嘘つきは、この自分だったのに。
エミルが聖堂に逃げ帰り、後悔と自責の念に苛まれる夜を過ごした、翌朝のことだった。苦い面持ちの主任司祭から知らされたのは、ヤシェクの自殺未遂の報せだった。カミソリで両手首を深く切り、盥から溢れた血混じりの湯が下の階へ漏れ出したことで、かろうじて発見されたらしい。そして彼の部屋には、エミル宛ての手紙が残されていた。
「申し訳ありません、エミル神父。事態が事態ですので、先に中身を読ませて頂きました」
すっかり青ざめたエミルは、微かに震える手ですでに開封された手紙を受け取った。皺の寄った紙に殴り書きされた彼の筆跡には、決定的な不祥事を匂わせるようなことは何も書かれていなかった。
ただエミルへの謝罪と、一瞬でも自分をキリストと和解させてくれたことへの感謝が綴られていた。
だが、エミルとヤシェクには、教会からはとっくに疑念の目が向けられていた。だからこそ、主任司祭は手紙を先に読んだのだろう。今まで聖堂に引きこもり生きてきた内向的なエミルが、突然頻繁に若い男の信者と時間を過ごすようになったのだから。あの日、エミルがヤシェクの家を訪ねるのを目撃していた住人が居たこともあり、酷い噂が広まるのは、もはや時間の問題だと思われた。
審問の席で、エミルは向かいに座った司祭たちに全てを話した。少なくとも、その時は正直に話したつもりだった。自分が俗世の関係にうつつを抜かしてしまったことは、事実である。だがそれはあくまで友情であり、それを勝手に勘違いされてしまっただけなのだ、と。
なんと恥知らずな、酷い言い逃れだろう。
こんなに遠くまで来て、エミルはやっと、そのことに気が付いていた。エミルは胸に手をあてた。カソックの内側の胸ポケットのその奥に、ヤシェクの手紙を小さく折りたたんで入れてあった。エミルは彼への気持ちを、ただの友愛なのだと、ずっと死に物狂いで誤魔化してきた。だがエミルは、こんなにもヤシェクの存在を少しでも近くに感じていたいほどに、彼のことを愛していたのだった。
深く愛すれば愛するほど、善きサマリア人でいることの、なんと難しいことだろう。
ひとしきり泣いた後、エミルの心はようやく少し落ち着きを取り戻した。ともかく、彼はまだ、生きているのだ。そのことを、心から主に感謝した。
去年、前任の司祭が亡くなったという辺境の村での職務を打診された時、エミルは感覚が麻痺したままそれを受け入れた。事実上の左遷だった。せめて、復活の主日の典礼までは居させてほしいとエミルは懇願し、主任司祭は憐れむような目つきでそれを受け入れた。長く慣れ親しんできたクラクフの街、そして信者たちに最後の別れを告げる機会をくれたのだ。だがクラクフを発つ数日前、エミルは郊外にある私立の療養所を訪れた。静かな緑に囲まれた居心地が良さそうな場所で、エミルはほっとした。彼を勘当したという父親が、入院代を払ったのかもしれない。エミルは、ヤシェクの病室を見舞いはしなかった。その代わり、自分の赴任先の住所と短い言付けを看護婦に渡すと、逃げるように帰ってきた。
──主よ。これもまた、罪なのでしょうか。
エミルが濡れた顔を拭い、手を組んで今度こそ心静かに祈っていたその時だった。ふと、教会の外から、鈴の音のような軽快な響きがエミルの耳に届く。エミルはじっと耳を澄ませてから、ゆっくりと立ち上がった。
子供たちの声だ。
エミルは軽くよろめきながら、教会の外へと向かった。
暗がりの中から重たい扉を開けた瞬間、今一度ヤヴォルニクの村全体の光景がエミルの目に飛び込んできた。大きな雲が風に流され、その切れ目から差す光が、谷間に隠された村のパノラマを浮かび上がらせる。農民の小屋から細く煙が上り、村を守るように囲む森が風に揺れ、生き物のように一斉に波打った。先ほどは感じる余裕が無かった感慨が、エミルの胸を満たした。ここで、この地の人々に仕えることこそが何よりの贖罪であり、役目なのだと思った。教会と対峙するように、川を超えた反対側の斜面には、ひときわ大きな石造りの館が建っている。この土地の地主の館だろうか。
しばらくその景色を眺めていたが、無邪気な笑い声が教会の裏手から再び聞こえてきた。エミルはその明るい声に魅かれて、壁伝いにそっと近づいていく。
そして声は急激に近づいたかと思うと、次の瞬間、少女が二人、角を猛烈な勢いで曲がって駆けて来た。
まだ幼い彼女らは楽しそうに手を繋いで姿を現したが、黒衣を纏ったエミルを見た瞬間、息を呑んでその場にぴたりと立ち止まった。裸足で、擦り切れた見窄らしい衣服を身につけているが、顔は健やかさに満ちており、眩しかった。エミルが反射的に微笑みかけると、少女たちも強張らせていた表情をふっと緩めた。
「待てーっ!」
だがその瞬間、少女たちの背後から少年たちの声が響き渡り、二人は弾かれたように再び駆け出した。彼女たちはエミルの背後に回り込み、迫ってくる足音から逃れるようにして、エミルの身体を盾にする。そして、わけも分からぬままのエミルの目の前に、突如として誰かが躍り出た。
水音が大きく響き渡り、エミルの全身が一瞬で氷漬けになったのは、ほぼ同時だった。
視界が真っ暗になり、少しの間、体の全ての感覚を消失した。まるで死を迎えたように穏やかで、このまま暗闇の中に溶けてしまいたいとさえ感じられた。だが、やがて水底から響いてくるかのように、子供たちのざわめきと、呟くような少年の声が聞こえてきた。
「サシャが、神父様殺した…」
「馬鹿言うなよ!まさか、死んでないだろ」
少年の呟くような声に、少し年上の、若い男の声が必死に弁解を返した。だが、そ
の声もすぐに不安げなものへと変わる。
「…死んでない、よな?」
エミルが何度か瞬きをすると、視力がぼんやりと戻ってきた。エミルは、いつの間にか地面の上に仰向けに倒れていた。子供たちは顔を寄せ合い、恐怖と好奇心の入り混じった表情を浮かべてエミルを見下ろしている。
身体の感覚が戻るにつれ、全身がぐっしょりと濡れそぼり、冷たい髪の毛が額に張り付いているのが分かった。そう言えば気を失う直前、バケツを持った誰かが、自分の前に躍り出たような…
ふと、群がる子供たちの隙間から、ひとまわり大きな頭が恐る恐るエミルを覗き込む。エミルは彼を見た瞬間、本能的に息を呑んだ。
天使のように美しい若者が、エミルを見下ろしていた。
盲目の父を癒す旅に出たトビアスの前に、人間の姿を借りて現れたという大天使ラファエルは、きっとこのような美しさだったに違いない。短い髪が、収穫間近の黄金の藁のようにそよ風に揺れ、蜂蜜色の優しい眼がエミルを見つめている。若者らしく頑健な顎ながらも、少年の面影を残した頬は薄いそばかすに覆われ、不安げに軽く開いた唇は、まるで薔薇の花びらのようにふっくらとしていた。
エミルは彼の中に神の顕現を見たかのように、深い感嘆と、畏れを覚えた。
この出会いは神から賜った祝福か、それとも新たなる試練か。或いは、エミルを再び破滅へと誘う、悪魔の誘惑なのだろうか。
その思考を最後に、エミルは今度こそ、完全に意識を手放した。




