表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

永遠の控え室

掲載日:2026/05/16


 幕が開けば劇が始まる。そう言われてから、もう千年が経っていた。控え室は、最初は賑やかだった。役者たちは互いに台詞を確認し、衣装を整え、出番を待ちながら笑い合っていた。


 「だからねえ、私は前から言ってるんですよ。幕なんか待ってたって、しょうがないんじゃないかって」


 化粧の崩れた顔を鏡に向けながら、田宮フサはため息をついた。七十年前は看板女優だった。今は年齢もわからない。白粉はひび割れ、口紅は乾き、それでも毎朝欠かさず化粧をする。


「また始まったよ、フサさんの“幕はいらない論”が」


 角の丸椅子で煙草をふかしているのは、大工の棟梁役を三百年続けている大沢清吉である。腹巻き姿のまま、もう二百年ほど同じ煙草を吸っている。火はついていない。


「いらないなんて言ってませんよ。私はね、“開かないものを待ってどうする”って言ってるんです」


「でも決まりなんだから」


 若い娘役のミチルが言った。若いと言っても、ここへ来てから二百八十年経っている。


「決まり決まりって、誰が決めたの」

「演出家でしょう」

「その演出家はどこにいるの」

「……」


 誰も答えない。控え室の天井では、裸電球がぶうんと鳴っていた。切れそうで切れない。ずっとそうだった。


 隅では、老人役の徳兵衛が台本をめくっている。紙は真っ黒に擦れて、もう字は読めない。


「徳さん、まだ読んでるの」

「読んでるんじゃない、確認してるんだ」

「何を」

「出番をだよ」

「だから、その出番が来ないんでしょうが」


 フサが苛立って言うと、徳兵衛はゆっくり顔を上げた。


「フサさんねえ、人間ってのは待つ生き物なんだよ」

「嫌ですよ、そんなの」

「嫌でも待つんだ。あんたも待ってる」

「待ってません」

「じゃあ何で化粧してる」


 フサは黙った。ミチルが慌てて間に入る。


「まあまあまあ。朝からそんな」

「朝かどうかもわからないじゃないの」


 フサは鏡を閉じた。


「時計だって止まってるし、外の音も聞こえないし。これ、本当に舞台の裏なんですかね」


 すると清吉が鼻で笑った。


「今さら何言ってんだ。三百年前にも同じこと言ってたぞ、あんた」

「言いました?」

「言った。“ここ、本当に劇場なの?”って」

「そう……」

「で、そのあと皆でおでん食った」

「ああ、あったわねえ」

「大根が硬かった」

「百二十年くらい煮てたのにねえ」


 その瞬間、皆が少し笑った。笑い声は長く続かなかった。沈黙が落ちる。奥の扉を見る。舞台へ続く扉。黒くて重い扉。一度も開いたところを見た者はいない。


「ねえ」


 ミチルが小声で言った。


「もし開けたら、どうなるんでしょう」

「だから、開けちゃいけないんだよ」


 清吉が即座に言う。


「なんで」

「芝居が始まるからだ」

「始まったら、いいじゃない」

「よくない」

「どうして」

「終わるからだ」


 誰も喋らなくなった。徳兵衛が、擦り切れた台本を閉じる。


「始まるってのはね、終わるってことなんだ」

「……」

「ここは始まらない。だから終わらない」


 フサは立ち上がり、扉の前まで歩いていった。皆が息を呑む。


「フサさん」

「やめなさいよ」

「ルールだよ」


 フサはしばらく扉を見つめていた。手を伸ばしかける。だが、触れない。ゆっくり振り返る。


「……お茶、入れましょうか」


 全員がほっとした顔をした。


「ああ、もらおうかな」

「私、薄めで」

「砂糖ある?」

「ないわよ、そんなもの」


 フサは給湯器の前に立つ。湯気は出ない。何百年も壊れている。それでも彼女は、毎日お茶を入れる。誰も飲まないお茶を。そしてまた、同じ会話が始まる。


「もうすぐらしいですよ」

「何が」

「幕ですよ」

「そうかい」

「緊張するねえ」

「ほんとだねえ」


 裸電球が、ぶうん、と鳴る。扉は閉じたままだった。


「もうすぐだな」

「緊張するな」


 誰もがそう言っていた。けれど幕は開かなかった。一日が過ぎ、一年が過ぎ、やがて百年が過ぎた頃には、誰も時間を数えなくなった。


 台詞は擦り切れた。何度も繰り返され、意味を失い、ただの音になった。衣装は古びた。それでも脱ぐことは許されない。役を降りることはできないからだ。


「まだか?」


 誰かが聞く。


「もうすぐだ」


 誰かが答える。

 そのやり取りも、何百年と繰り返された。


 「勝手に開けてはいけない」


 いつからか、そういう決まりになっていた。 あるとき、一人の男が言った。


「開けてみよう」


 空気が凍った。


「やめろ」

「ルールだ」

「台無しになる」


 男はしばらく黙っていたが、やがて笑った。


「じゃあ、待とうか」


 それからまた、時間が流れた。


 誰もが役のまま老い、役のまま朽ちていった。それでも消えはしない。控え室に留まり続ける。台詞はもう誰も覚えていない。それでも口は動く。意味のない言葉が、延々と空気を震わせる。


 ある日、ふと気づいた。幕が開かないのではない。初めから、ここにいる人たちは、僕も含めて、幕を開ける気がなかったのだ。


 そして、もし、今開けたら、千年の時が過ぎて、僕たちは、朽ち果てた骸骨になるだろう……。けれど、その考えはすぐに消えた。考えること自体が、役にない行為だったからだ。


 僕は椅子に座り、何度目かわからない台詞を呟く。

出番を待っている。ずっと。永遠に。


 ――幕が開く、その瞬間を。


 控え室には扉がひとつある。舞台へ続く扉だ。だが誰も開けようとしない。


「我々が求めているから、開かない?」


  キリストの「求めよ、さらば与えられん」という言葉は、あまりにも有名であり、同時に、あまりにも誤解されている言葉でもあるだろう。


 多くの人はこれを、「願えば夢は叶う」だとか、「努力すれば成功する」みたいな、自己啓発の標語のように読んでしまう。しかし、あの言葉には、もっと不穏で、もっと深い響きがある。


 そもそも、「求める」とは何なのか。


 人間は、普通、求めているつもりで、実際には、既に答えが決まっているものしか探していない。金が欲しい人は、金を求める。承認が欲しい人は、賞賛を求める。恋人が欲しい人は、恋人を求める。つまり、「求める」という行為は、多くの場合、自分の欲望の輪郭確認でしかない。


 しかし、キリストの言う「求めよ」は、そういう安全な探索ではない気がするのである。


 むしろそれは、自分が何を欲しているかもわからない状態で、それでもなお探し続けろ、という命令に近い。


 考えてみれば、キリストの周囲には、病人、罪人、裏切り者、貧者、狂人のような人々が集まってくる。彼らは、社会の中で、「自分が何者なのか」が既に壊れている人々だった。つまり、安定したアイデンティティを持たない人間たちである。


 そして、そういう人間に向かって、「求めよ」と言う。


 これはかなり恐ろしい言葉だ。


 なぜなら、本気で求め始めた人間は、現在の自分ではいられなくなるからである。


 例えば、本当に「真理」を求めた人間は、途中で、自分の信じていた常識や道徳や所属集団を疑い始める。本当に「愛」を求めた人間は、恋愛幻想の気持ちよさだけでは満足できなくなる。本当に「神」を求めた人間は、しばしば、既存宗教の安心感すら失う。


 つまり、「求める」という行為は、自己破壊を含んでいる。


 だから人間は、途中で求めることをやめる。あるいは、「もう答えを知っている」というフリを始める。思想に閉じこもり、共同体に閉じこもり、役割に閉じこもる。


 以前あなたが書いていた、「幕が開かない控え室」の話にも近いが、人間は本当は、幕が開くことを恐れている。求めるということは、幕を開けることだからだ。そこでは、今までの自分が崩れてしまうかもしれない。


 だから、「求めよ」という言葉は、優しい励ましというより、かなり危険な招待状なのである。


 しかも厄介なのは、キリストは、「何を求めよ」とは細かく指定していないことだ。


 ただ、「求めよ」とだけ言う。


 これは逆に言えば、人間存在そのものに対する肯定でもあるのだろう。未完成であり、欠けており、揺らぎ続ける存在であっても、その探索運動自体は否定されていない。


 むしろ、完成してしまった人間の方が危うい。


 「私はもう知っている」

 「私は正しい」

 「私は救われている」


 そう言い始めた瞬間、人は求めることをやめる。そして、多くの場合、その停止した場所が、その人の牢獄になる。


 だから、「求めよ」という言葉は、人生の成功法則ではなく、人間が未完成のまま歩き続けることへの許可なのだと思う。


 だが、この状況はどうしたことだろう。部屋の奥の方では、とうとう白骨化している人々も出始めているとのことらしい。僕は、怖いので、そっちの方は見ないで済ますようにしている。


 そもそも、何の演目をしようとしていたのか。何で、役者なんてしようとしていたのか。それさえも忘れかけてしまっている。人生の殆どがこの待合室で過ごしているからだ。待っている姿勢が人生そのものになった時、幕が開いても何もできないような気がものすごくするのであるが……。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ