2. 1991年11月
電話のベルが鳴っていることには気づいていた。
カンフォーターの中で寝返りをうち、里中将は寝返りを打ちため息をつく。
窓の外は真っ暗。実に静かな夜であった。
ケープタウンのクリフトン。ここは比較的治安の落ち着いた地域であるが、しかし油断は禁物である。
アパルトヘイトの崩壊に伴う治安が悪化——、この地に住まう者の殆どはその余波を受けていた。
ショウ自身もまた、そのような時代の流れと混乱は肌で感じ取っていたのである。
強固なセキュリティを誇る高級住宅地街に居を構えるが、だが、そう、時折ではあるが、風に乗って遠くから物騒な物音が届くのだ。
爆発音だとか、あるいは強盗に入られたケープタウンの住民の話だとか、そういうものだ。
だがしかし、今日は本当に静かな夜だったのだ。ザザァザザァと響くのは波の音。心地よいその音にショウがため息をついたのは、無機質なそれが我が物顔で交じっていたからである。
プルルルル、プルルルルという音はやむ気配がなかった。
まったく、と小さく呟く声を拾う者は誰もいない。
再びゴロリと寝返りを打つと、完全に覚醒してしまった脳で、ショウは音の行き来を観察することにした。
電話はリビングと仕事部屋にしかない。
小さな足音が遠ざかり、そしてベルが途切れる。
それから何やら応対する極々小さな声。
会話は少し長い。
何を話しているのかまでは聞き取れないが、やや抗議の声色を滲ませての応対であることだけは理解ができた。
まあ、こんな夜中だ、その気持ちも理解できるというものだ。ショウは熟睡すると言うことが少なく、眠りが浅いのは常であったが、こうして眠りを妨げられることはやはり少々不愉快であることには違いない。
であれば通常の睡眠を要される彼らは、真夜中の電話などできる限りご遠慮願いたいものであろう。
足音が再び近づいてきた。
それからトントン、と遠慮がちにノックが鳴り、ショウはそれでようやく体を縦にすることにしたのだ。
気温は二十度を下回り、少々寒かった。日中には二十四度程度くらいにはなるのだろうから、そう厚着になることも憚られる。しかしショウは迷わずソファへと放っておいたジップパーカーを羽織って扉へと向かった。
仕事中でもなし、構わないだろう。
「旦那さま……、旦那さま」
再び扉がノックされた。
「開けるよ」
壁掛け時計は午前三時を示しており、起床時刻には些か早すぎる。扉を開けると見知った顔の家政婦、メアリーが寝巻きのまま立っていた。
「申し訳ございません」
メアリーはコサ族の女性だ。この辺りでは住み込みのスタッフを雇うことも珍しくなく、メアリーもまた夫のジョンと共にこの屋敷で生活をし、そして働いている。
それにしても、こんな夜中に連絡とは珍しい。ショウは首を傾げた。
ショウは宝石商だ。尤も、手広く扱うのはプラチナであり、色石はほとんどショウ自身の趣味によるところが大きいのだが——、それはともかくとして、つまり緊急の連絡、ということは比較的少ない職業である。
まったくこんな夜更けになんだと言うのだろうと思うが、そんなことをメアリーに言ったところで仕方ない。
「こちらはまだ真夜中だから掛け直して欲しいと申し上げたのですが……、」
メアリーはアフリカ訛りの英語で伝えてきた。彼女が申し訳なさそうにする必要はないと言うのに、彼女の眉はハの字になっている。
「どこから?」
メアリーが子機を携えていないことから国際電話であることは安易に知れた。
子機での会話は国際電話には不向きだ。音質や回線に不安が生じやすいのである。南アフリカ内からの電話でない場合は、掛け直すようにとメアリーにも伝えてある。
「ニューヨークだそうです。ヘレナ・アンダーソンさまと名乗られておいででした」
やはりそうか、とショウは頷いた。
日本からではないだろう、という確信はあった。
が、馴染みの客ならば時差を充分に把握しているだろうから、こんな時間の連絡は不自然だ。ならば新規の客だろうとショウは考えたのだ。
ヘレナ、ヘレナ、とショウは小さく繰り返す。
ヘレナ・アンダーソン……、ニューヨークのアンダーソンね、と思考を巡らせながらショウは「大丈夫」と返事した。
アンダーソン。たった一人だけではあるが、心当たりがあった。
「時差が判らなかったのだろう。いいよ、出る。メアリーはもう寝て。夜中にごめん」
メアリーは眠たそうな顔で下がっていった。
彼女の姿が消えた頃、ショウは親機に向かって歩いた。
ニューヨークは現在午後八時のはずだ。
「お待たせしました、」
『ミスター・サトナカ?』
ショウ・サトナカと名乗る前に彼女はゆったりとした口調で尋ねてきた。国際電話に不慣れなのかもしれない。タイムラグを計算に入れずに話しているのだろう。
「ええ。そうです」
『初めまして、ヘレナ・アンダーソンと申します。トーマス・アンダーソン、といえば判るかもしれないわ。私はトーマスの妻です』
エコーのかかった声が身元を告げる。
まさか本当にあのアンダーソンだとは——、ショウは少しばかり面食らいながら平静を装った。職業柄ポーカーフェイスは得意だ。声音をそう装うものまた同様。ショウは「ええ」と返事した。
「お噂はかねがね」
トーマス・アンダーソン。ショウもその名前ぐらいは耳にしたことがあった。ニューヨークで現在、最も注目度の高い富豪である。新興のヘッジファンドの設立者で、僅か数年で時代の寵児へと上り詰めた男だ。
その妻からの電話——、なるほど、とショウは考えた。
ショウは宝石商としては少々異端な存在である。その自覚も大いにあった。
プラチナで生計を立てているものの、副業としての宝石商の顔が一人歩きしているのである。
どんなものでも用意する日系アメリカ人の宝石商。自分にまつわるそんな噂が囁かれているのは知っていた。
ニューヨークの富豪の一部の無茶な依頼に応じた過去がそんな噂を増長させているようだった。
つまり、ショウに連絡を寄越すとは、ショウの手腕を知る誰か——、過去に取引をした富豪やジュエリーデザイナーからの紹介に違いない。
あるいは。
(もしくは、あの|Old bastardの仕業か)
あまり思い浮かべたくない顔を脳裏から追い出し、ショウは「それで?」と電話の向こうへと促す。
『突然の非礼を許してね。知り合いの宝石商にサトナカならもしかしたら、と言われたの。ミスター・スタインよ。ご存知でしょう?』
「ミスター・スタイン?」
スタインの知り合いは一人しかいない。
ユダヤ系の初老の男であった。だが一応は、とショウは尋ね返した。
奥歯に力が入りそうになる。
『デヴィッドよ。ミスター・デヴィッド・スタイン。ご存知よね? わたくし、彼にあなたへと繋ぐためと紹介料をお支払いしたのだけど……』
わたくしの話、彼から聞いていないかしら? そう言いたげな様子である。
デヴィッド・スタイン。ショウはその人物をよく知っていた。ニューヨークのトップディーラーである。
やはりか、とショウは苛立ちを覚えた。
「……、ええ、存じております——、彼とは私の師を通しての知り合いです」
決して親しくはないし、愉快な間柄というわけでもない。
端的に言ってしまえば、ショウはスタインが嫌いだ。
あの老獪は「若手宝石商に経験を積ませてやっている、などと耳触りのいいことを言いながら、面倒な仕事をショウに度々押し付けてくるのである。
その上、ショウを紹介したという名目で、必ず紹介料を依頼人から巻き上げるのだ。
本当に嫌な老人である。
『よかった。私、あなたに仕事をお願いしたいのだけど』
「どういったご依頼で?」
ロクなものではないことは容易に推測される。なにせあのスタインの紹介だ。うんざりとした気持ちを覆い隠して、ショウは尋ねてみせた。
色石ならば結構、プラチナならば万々歳——、ところがだ、富豪の依頼というのは大抵の場合、とんでもない大きさのダイヤが欲しいだとかそういうものなのだ。
どう足掻いてもショウのコレクションでは対応しきれない依頼である。
コレクション——、在庫はセキュリティのためにそう多くは抱えない方針であるが、機を逃すと二度と出会えまい、というものについてはその限りではない。
これは自分の趣味だ。これは今手に入れないともう二度と手に入らないから——、そんな言い訳をしながら集めた相当数の石たちが、地下には眠っていた。
金庫に眠る宝石は、代表的なものはダイオプテーズにタンザナイト、ツァボライトガーネット……、それからなんと言ってもファンシーカラーダイヤ。
ダイヤはそう多く確保できるだけの資金はないから、せいぜいが5カラット程度である。
個人的なコレクションという側面が非常に強い石たちであるが、基本的にはいつかは売り渡すものという認識でいるものだ。
実際、ニューヨークの幾人かの顧客には、その依頼内容に応じ、コレクションの一部を売り渡していた。
さて、アンダーソン夫人が、わざわざここケープタウンにまで電話をかけてくると言うことは、ニューヨークの心当たりにはすべて当たり尽くした、ということであろう。 スタインがニューヨークには存在しないと判断した石、つまり余程変わった石を求めているということだ。
アフリカ大陸では広くルビー、サファイア、ガーネットにトルマリン、タンザナイト、そしてダイヤなど採掘されるが、アンダーソン夫人がそのようなスタンダードな石を求めているとは到底思えなかった。
さあ、一体何をご所望だ、とショウは考えた。エメラルドにタンザナイト、そういうものならいいのだが、などと考える。
(色石であってくれ。色石ならすぐに見つけてやる。どんなものでも用意する)
だが残念ながら、これはあのスタインが放り投げた仕事である。今までの流れと同様に、八割方がダイヤだ。
しかも面倒なタイプのダイヤ。本当に嫌になる。最悪だ。
ダイヤならばダンペイ社——、ダンフォース・アンド・ペイン社、ダイヤの採掘から流通までを手がけるダイヤ専門の世界最大規模の総合社だ——、のサイトホルダーと強いコネクションのある宝石商に放り投げればいいものを、あのスタインはわざわざヒヨッコのショウを指名するのである。
『オレンジダイヤ』
ハッ、と息が漏れそうになるのを堪え、ショウはやっとのことで「なるほど」と答えた。
頭の中でもう一人のショウが、スタインへの罵詈雑言を叫ぶがポーカーフェイスは崩さない。
『オレンジ色のダイヤを探しているの』
オレンジ。このご婦人はご自分が何を言っておいでか理解しているのだろうか、などと思う。
オレンジ、オレンジである。よりによってオレンジ。あのクソジジイ、何してくれてんだ、とスタインの姿を思い浮かべた。
「……オレンジですか」
『ニューヨークでは見つからなかったのよ』
そりゃそうだろうよ、とショウは考えた。
さて、困ったことになった。
オレンジダイヤは流通がない。というか発見された歴史がほとんどない。
ショウの宝石商人生は八年程度であるが、同じく宝石商の父・将一に幼少期から付い回って生きてきた時間の中でも、見たことのない代物であった。
近頃はファンシーカラーダイヤが注目されてきてはいるが、しかしダイヤといえばやはり無色透明のものが最も多く採掘されているのが現状である。
イエローにピンク……、それからショウもかろうじて見たことがある、と言う程度のブルー。
公式にオレンジであると認定されたダイヤはこの世に存在しないのである。
電話口で思わず押し黙ると、アンダーソン夫人は『あなたならもしかしたら、と言われたのだけどやはり難しいかしら? 見つかる可能性は低い、との説明は、ミスター・スタインから受けているのだけど』と沈んだ声で続けた。
宝石商としては請け負いたくない仕事だ。だが無いと一蹴することもショウにはできなかった。
どこからともなく最良の石を見つけ出すアフリカ在住の宝石商。不本意ながらショウのその看板は生活を支える柱と化していた。つまり、ないものはないと依頼を蹴ることは看板に自ら傷を付けることになる。
眉間を指先で揉みながらショウはサイトホルダー、その営業窓口である馴染みの男たちの顔を思い浮かべた。
彼らに総当たりしたところで見つかるかどうか——、いや、ないだろう。オレンジダイヤが発見されたなど、前代未聞の大発見だ。
間違いなく世界中の宝石商の耳にも届いているはずのビッグニュースである。
おいおい、ショウ、お前は正気を失ったか? そうおかしそうに言われるのが関の山である。
つまりそう、絶対に断るべき仕事である——、だが、宝石商のプライドも相まって「ないです」と言うことがショウにはどうしてもできなかった。
スタインが噛んでいるというのも大きかった。あの老人の鼻を明かしたい。
ならばせめて代替案を提示すべきだ。オレンジ色に近い色合のダイヤならばいくつか見つけ出すことができるかもしれない。
存在しないのはあくまで完全なオレンジダイヤであり、イエローやブラウンの、「オレンジっぽく見えないこともないダイヤ」ならば提供できるかもしれない。
「……、ニューヨークのトップディーラーには既に当たられていることでしょう。その上で私に連絡を下さったということは、その色かサイズ……、あるいはその両方に満足が行かなかったと言うことですね」
『ええ。欲しいのは5カラット以上のサイズのものよ。娘の髪に合わせた色が欲しいの』
5カラット、その上色を合わせたものだと、とショウは閉口した。だが口は持ち前の動じなさから勝手に「御息女の髪の色は?」などと尋ねていたのだ。
『ストロベリーブロンドよ』
なんとまあ、手に余りそうな仕事である。
「……そうですね……、こちらも御息女のお髪の色を拝見しませんとなんとも」
ただ、簡単な仕事ではないということは明白だ。ショウはそのままの言葉をアンダーソン夫人に伝えると、彼女は『判っているわ』と返事した。本当に判っているのかどうか。
トリートメント石を求めていないことは明らかだ。娘の髪がどんな色かは判らない。
だがニューヨークのトップディーラーが揃ってサジを投げるような色合いであることは間違いがないのだろう。
ディーラーたちが差し出した代替案に、アンダーソン夫人はどれも良しとせず納得しなかった——、となると現状、この世にあるかどうか怪しものを探すことになるのだ。
「——、長期にわたる旅になると思います。もしかしたら数年単位」
『——数年?』
「……不都合が?」
『来年八月に娘が結婚するのよ。それまでに間に合わせたいと考えているの。歳をとってから思いがけず授かった子よ』
そうですか、でも残念ながらそんなダイヤはありませんね。期間も短すぎですしね。お力になれず申し訳ありません。またのご利用をお待ちしています、ではさようなら。
そう軽快に挨拶を交わして断りを入れられるリミットは超えていた。
(しくじったなあ……、クソ)
ショウはもうすでに請け負う素振りをアンダーソン夫人へと見せてしまった。もう断れない。
今は十一月だから猶予は九ヶ月ほどしかないと言うことだ。まったくもって難しい依頼だ。こともなげに出していい依頼ではないと、おそらくアンダーソン夫人は理解していない。
だが無理だなどと言えようか。
母が娘のために、娘の婚姻に合わせて贈りたいダイヤを「ないです」の一言で投げ出せるほど、宝石商のショウはドライにはなりきれなかったのである。
仕方ない、やるしかないだろう。
「……判りました。やってみます。ただ、見つからない可能性は非常に、非常に高い。そこだけはご理解いただきたい。あなたが探しているものは、存在自体が疑わしいものです」
『判っているわ』
「また、ダイヤは高額であるため、目星をつけた石の色味と同じ色合いの、別の色石をサンプルとして提示させていただくこともあるかと思います。それはご了承いただけますか?」
『勿論よ。では、引き受けていただけるのね』
「繰り返しのご確認となりますが、夫人の探す色合いの石が見つかる可能性は、」
『判っているわ。とても難しい、でしょう? 受けていただけるだけで有り難いわ。ミスター・スタインに感謝しなくちゃね』
そこは感謝しなくていい。
ショウの腹にイラッとしたものが込み上げた。
『ミスター・サトナカも本当にありがとう。ではお願いね。娘の髪色が判る写真が必要よね。クーリエで写真を送るわ』
喜ぶでもなし、ごく普通に当たり前のように返事をしてくれるではないか。ショウは苦笑しつつ、二、三のビジネス会話を経てそれから電話を切った。
さて、彼女が本当にアンダーソン夫人であるのかの確認も兼ねて一つ電話を入れねばならないだろう。
ショウは記憶にある番号をダイヤルしながら、それから奥歯をカチカチと噛み締めた。父に悪い癖だから辞めるよう言われたのを思い出し、イーッと口角を横に広げ止める。
ケープタウンは午前三時半、ニューヨークは午後九時半ごろだろうか。早寝が鉄則の爺さんが起きているかどうかは判らないが文句の一つくらい言わねば腹の虫が収まらぬと言うものだ。
ショウは相手の応答を待った。8コール、相手は出ない。チッと舌打ちをした所でようやく繋がった。だがすぐの応答はない。そう、国際電話であるからだ。
『ハロー?』
相手は呑気にあくびつきの返事だ。
怒りのゲージが高まる。
「聞こえているか、ミスター・スタイン! やってくれたな! 無茶な仕事を押し付けやがって!」
怒気を孕んだ声で怒鳴りつけると、その人、デヴィッド・スタインはおかしそうに笑って『なんだい、ショウの坊やか』と言い放ったのである。
何が起きたのだ、とジョンがスコップを持って駆けつけるまで、十秒も掛からなかった。




