人生を1回だけ巻き戻せるアプリ
午前二時三十七分。
スマホの通知音で目が覚めた。
乾いた、軽い音。
SNSでもメールでもない、聞き慣れない音だった。
「……なんだよ」
枕元を探り、スマホを手に取る。
画面の明かりが、暗い部屋をぼんやりと照らした。
通知はひとつだけ。
――不明なアプリがインストールされました。
「は?」
寝ぼけた頭が一瞬で覚める。
ロックを解除し、ホーム画面を開く。
見覚えのないアイコンが一つ、増えていた。
黒い背景に、白い矢印。
円を描くように戻る矢印。
その下に、小さく文字。
RE:TRY
「……いつ入れた?」
記憶にない。
ダウンロード履歴にも、見覚えはない。
タップしようとして、指が止まる。
嫌な感じがした。
理由は説明できない。
ただ、触れた瞬間に何かが変わるような――そんな感覚。
「……バカらしい」
苦笑して、画面を閉じる。
寝れば忘れる。
そう思って、再び目を閉じた。
だが。
眠れなかった。
頭の奥に、妙なざわつきが残っている。
あのアイコン。
あの名前。
RE:TRY。
――やり直し。
「……はは」
思わず、声が漏れる。
「そんなわけあるか」
独り言が、やけに乾いていた。
やり直し。
もし、それができるなら。
――俺は。
そこで思考が止まる。
考えたくなかった。
思い出したくなかった。
それでも、浮かんでしまう。
去年の冬。
あの日。
駅前のカフェ。
窓際の席。
彼女は、静かに言った。
『もう無理だと思う』
あの時、何を言った?
何も言えなかった。
ただ、うなずいた。
それだけだ。
それだけで、終わった。
あっけなく。
呆れるくらい、簡単に。
「……違うだろ」
天井を見上げる。
「違っただろ、あれは」
本当は。
引き止めたかった。
言葉を選んでいるうちに、
全部、終わっていた。
あとからなら、いくらでも言える。
あの時、こう言えばよかった。
ああすればよかった。
――やり直せたら。
その言葉を、無意識に飲み込む。
馬鹿みたいだ。
そんなこと、できるわけがない。
現実は一度きりだ。
誰だって知っている。
だから後悔する。
だから忘れられない。
それが普通だ。
「……寝るか」
無理やり思考を切る。
目を閉じる。
だが。
やはり、眠れなかった。
気がつくと、スマホを手に取っていた。
画面を開く。
あのアイコンが、そこにある。
RE:TRY。
「……」
今度は、指が止まらなかった。
タップする。
画面が、暗転した。
数秒。
何も起きない。
「なんだよ……」
その瞬間。
文字が浮かび上がった。
人生を一度だけ巻き戻せます。
息が止まる。
続けて、下に小さな文字。
使用回数:1
「……は?」
思わず声が出る。
ふざけている。
どう考えても、そうとしか思えない。
だが。
画面は消えない。
ボタンがひとつだけ表示されている。
開始する
「……誰だよ、これ」
いたずらにしては手が込んでいる。
いや、それ以前に。
どうやってインストールした?
ロックもかかっていたはずだ。
思考が追いつかない。
だが、指は動く。
ボタンの上で、止まる。
押せば、何かが起きる。
そんな気がした。
いや。
起きてほしいと、思っているのかもしれない。
「……バカだな」
小さく笑う。
こんなものに期待するなんて。
ありえない。
現実じゃない。
わかっている。
それでも。
――もし、本当に。
ほんの一瞬、迷う。
そして。
押した。
画面が白く、弾けた。
次の瞬間。
スマホが震えた。
慌てて画面を見る。
時刻。
午前二時三十七分。
「……は?」
さっきと同じ時間。
いや、待て。
さっきも、この時間だった。
嫌な汗がにじむ。
部屋を見回す。
何も変わっていない。
だが。
違和感がある。
「……いや」
違う。
変わっている。
ほんの、わずかに。
机の上のペットボトル。
さっきは、キャップが開いていた。
今は、閉まっている。
「……は?」
心臓の鼓動が、速くなる。
スマホを見る。
履歴。
さっき見ていたSNS。
スクロール位置が違う。
「……マジかよ」
声が震える。
偶然?
いや。
そんなわけがない。
もう一度、アプリを開く。
RE:TRY。
表示は変わっていた。
使用回数:1
「……減ってない?」
さっきと同じだ。
つまり。
今のは“カウントされていない”。
試用?
テスト?
意味がわからない。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
今、時間が戻った。
ほんの数分。
だが確実に。
「……嘘だろ」
笑いが漏れる。
現実感がない。
夢を見ているようだ。
だが、手の震えは止まらない。
「……もう一回」
今度は意図的に。
ペットボトルのキャップを開ける。
スマホを置く。
数秒、待つ。
そして。
アプリを開く。
ボタンを押す。
白。
戻る。
同じ時間。
同じ部屋。
ペットボトル。
キャップは、閉まっている。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。
「マジかよ……」
本物だ。
これは。
本当に。
「……戻せる」
口に出した瞬間、現実味が増した。
夢じゃない。
思考が急激に加速する。
戻せる。
時間を。
人生を。
「……一回だけ」
画面を見る。
使用回数:1
この数字が、やけに重い。
一度きり。
やり直しは、できない。
慎重に選べ。
そう言われている気がした。
「……いつに戻る」
選べるのか?
試しにアプリを操作する。
画面が切り替わる。
カレンダー。
過去の日付が、ずらりと並んでいる。
「……マジか」
スクロールする。
去年。
一昨年。
さらに前。
どこまでも遡れる。
だが。
指が止まる。
去年の冬。
十二月二十四日。
「……ここだろ」
言葉が自然に出る。
あの日。
終わった日。
カフェ。
窓際。
彼女の顔。
『もう無理だと思う』
その一言。
あれを、変えられるなら。
すべて、変わる。
「……いや」
だが、迷いが生まれる。
本当に、それでいいのか?
別の選択肢。
頭に浮かぶ。
父親。
入院した日のこと。
もっと話しておけばよかった。
そう思った。
だが、結局。
何もできなかった。
仕事を理由に、逃げた。
「……そっちか」
どちらを選ぶ。
恋人か。
家族か。
どちらも、戻したい。
だが。
選べるのは、一度だけ。
喉が渇く。
ペットボトルを手に取り、口をつける。
ぬるい水が、やけに現実的だった。
「……決めろ」
誰もいない部屋で、呟く。
逃げるな。
選べ。
そうしなければ、このアプリは意味がない。
考える。
もし、恋人を選んだら。
あの別れを回避できるかもしれない。
だが、その先は?
本当にうまくいくのか?
同じことを繰り返すだけじゃないのか。
「……じゃあ」
父親は?
戻って、何をする?
見舞いに行く。
話す。
それで何かが変わるのか。
結果は変わらないかもしれない。
それでも。
後悔は、減るかもしれない。
「……どっちだよ」
苛立ちが混じる。
どちらも正解で、どちらも間違いだ。
だから、迷う。
だから、動けない。
ふと。
違和感がよぎる。
「……なんで」
呟く。
「こんなに、迷うんだ?」
当たり前だ。
人生の分岐点だ。
迷って当然だ。
だが。
どこか、おかしい。
もっと――
もっと、すぐ決めていた気がする。
「……は?」
頭が、わずかに痛む。
記憶の奥が、ざらつく。
何かを思い出しそうで、思い出せない。
嫌な感覚。
だが、すぐに消える。
「……気のせいか」
深く考えないことにする。
今は、それどころじゃない。
選ぶこと。
それがすべてだ。
再び、画面を見る。
十二月二十四日。
その日付が、やけに鮮明に見える。
「……ここだ」
決めた。
逃げるな。
あの日に戻る。
終わらせたままにした、あの瞬間へ。
指が、画面に触れる。
日付を選択。
確認画面が表示される。
この選択は取り消せません。
短い一文。
重い。
「……知ってるよ」
苦笑する。
もう迷わない。
ボタンを押す。
開始する
視界が、歪んだ。
音が消える。
身体が引き裂かれるような感覚。
そして。
気がつくと。
コーヒーの匂いがした。
目の前に、テーブル。
カップ。
窓。
外の景色。
冬の街。
「……」
息が止まる。
対面。
彼女がいる。
あの日と同じ服。
同じ表情。
同じ空気。
「……来てたんだ」
彼女が言う。
その声。
間違いない。
現実だ。
「……ああ」
喉が乾く。
声がうまく出ない。
戻った。
本当に。
「どうしたの?」
彼女が首をかしげる。
「なんか、顔色悪いよ」
違う。
違うんだ。
これは。
ただの再会じゃない。
やり直しだ。
ここで。
ここで変えなければ。
意味がない。
あの日と同じことを繰り返すな。
言え。
言葉を。
「……俺は」
口を開く。
だが。
止まる。
何を言う?
どう言う?
考えろ。
今度は失敗するな。
「……何?」
彼女が、不思議そうに見る。
その目。
少しだけ。
違和感があった。
「……いや」
思考が乱れる。
何かが、引っかかる。
あの日と、同じじゃない。
どこかが、違う。
何が?
「……どうしたの、本当に」
彼女の声が、少し強くなる。
あの日よりも。
少しだけ。
「……」
心臓が速くなる。
おかしい。
おかしい。
これは“再現”じゃない。
微妙にズレている。
まるで――
「……初めてじゃない、みたいな」
思わず、口に出た。
「え?」
彼女が眉をひそめる。
「何それ」
しまった。
変なことを言った。
「……いや、なんでもない」
慌ててごまかす。
だが。
違和感は消えない。
既視感。
強すぎる。
まるで。
ここに来たのが――
一度ではないみたいに。
「……話、あるんじゃないの?」
彼女が言う。
その声。
ほんの少しだけ、苛立っている。
あの日は、こんなトーンじゃなかった。
もっと静かで。
もっと諦めた感じで。
「……ああ」
頷く。
違和感を押し殺す。
今は、それよりも。
変えることだ。
「俺は」
言葉を選ぶ。
慎重に。
失敗しないように。
だが。
その瞬間。
頭の奥で、何かが弾けた。
フラッシュバック。
同じ場所。
同じ構図。
同じ会話。
――別の言葉。
「……っ」
息が詰まる。
今のは。
記憶?
いや。
知らないはずの記憶。
でも。
確かに“体験した感覚”。
「……どうしたの?」
彼女が覗き込む。
その顔が、近づく。
その距離。
その角度。
――知っている。
「……なんで」
思わず、呟く。
「なんで、同じなんだ」
「え?」
彼女が戸惑う。
当然だ。
意味がわからない。
だが。
こっちもわからない。
何かが、おかしい。
決定的に。
おかしい。
「……なんで、同じなんだ」
自分でも意味がわからない言葉だった。
だが、口をついて出た。
止められなかった。
「同じって……何が?」
彼女の表情が曇る。
当然だ。
意味不明だ。
だが。
違和感が、確信に変わりつつあった。
「……俺は」
頭が、痛む。
思考がノイズに飲まれる。
だが、その奥に。
何かがある。
押し込められていたもの。
無理やり蓋をされた記憶。
「……俺は、ここに来た」
一度だけじゃない。
「……何回も」
その瞬間。
彼女の目が、わずかに揺れた。
「……は?」
笑おうとして、失敗するような顔。
「何言ってんの」
その反応。
普通だ。
だが。
わずかに、遅れた。
ほんの一瞬。
間があった。
「……違う」
確信する。
「違うだろ」
「……何が?」
「知ってるだろ」
声が低くなる。
自分でも驚くほど、はっきりしていた。
「ここで、何が起きるか」
沈黙。
店内のざわめきが、遠くなる。
彼女は、何も言わない。
ただ、見ている。
その目で。
静かに。
「……」
心臓がうるさい。
だが、止まらない。
止められない。
「……俺は」
言葉が、あふれる。
「一回じゃない」
断片。
映像。
声。
すべてが、繋がっていく。
「ここに来て」
「話して」
「失敗して」
「やり直して」
呼吸が荒くなる。
「……また、失敗して」
何度も。
何度も。
同じ場所で。
同じことを繰り返していた。
「……はは」
笑いが漏れる。
壊れたみたいに。
「なんだよ、これ」
視界が揺れる。
現実が、崩れていく。
「一回だけじゃなかったのかよ」
スマホ。
ポケットから取り出す。
震える指で、画面を開く。
RE:TRY。
アプリを起動する。
表示。
使用回数:1
「……嘘だろ」
笑う。
乾いた笑い。
「減ってねえじゃねえか」
何回使っても。
減っていない。
おかしい。
矛盾している。
だが。
その理由も、同時に理解する。
「……消されてるのか」
記憶を。
使用履歴を。
すべて。
「……何のために」
呟く。
その問いに。
答えが返ってきた。
「——気づいたんだね」
顔を上げる。
彼女が、見ていた。
静かに。
まっすぐに。
さっきまでとは、まったく違う目で。
「……お前」
喉が詰まる。
「知ってたのか」
「うん」
あっさりと、頷く。
「ずっと前から」
背筋が冷える。
「……ずっと?」
「あなたが最初にここに来た時から」
「……最初?」
言葉の意味を、理解するのに時間がかかる。
「何回目だと思う?」
彼女が、淡々と聞く。
冗談じゃない。
だが。
答えは、すぐに浮かんだ。
「……わからない」
「そう」
彼女は、小さく笑う。
「私も途中から数えてない」
息が止まる。
「……は?」
「あなた、毎回同じこと言うんだよ」
ぞっとする。
「同じ場所で、同じ顔して、同じように悩んで」
「で、少しだけ違うこと言って」
「……結局、失敗する」
言葉が出ない。
「だから、巻き戻す」
淡々と。
事実を述べるように。
「また来る」
「また失敗する」
「また戻る」
繰り返し。
繰り返し。
繰り返し。
「……嘘だ」
否定する。
できるわけがない。
「一回だけだろ」
「うん」
彼女は頷く。
「本当はね」
「……は?」
「でも」
そこで、言葉を区切る。
ほんの少しだけ、寂しそうに。
「あなた、使っちゃったから」
「……何を」
「“一回”を」
理解が、追いつかない。
「最初の一回で」
「あなたはここに戻ってきた」
「それは成功した」
「でも」
彼女の視線が、少しだけ揺れる。
「その後がダメだった」
「……」
「うまくいかなくて」
「また戻りたいって思って」
「でも、本当は使えないから」
「アプリが、壊れた」
壊れた?
「使用回数がリセットされて」
「記憶も消されて」
「……繰り返すようになった」
頭が、真っ白になる。
「……なんだよ、それ」
「バグみたいなもの」
軽く言う。
だが、その内容は軽くない。
「あなたはずっと」
「一回を、使い続けてる」
終わらない一回。
終われない選択。
「……ふざけるな」
震える声。
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
「終わらせるには」
彼女は、少しだけ考えて。
答えた。
「使わないこと」
「……は?」
「もう、戻らないって決めること」
それだけ。
シンプルすぎる答え。
「……そんなの」
できるわけがない。
ここで。
失敗したまま。
終わるなんて。
「……じゃあ、続ける?」
彼女が静かに聞く。
「また戻って」
「またやり直して」
「また失敗する?」
言葉が刺さる。
何も言えない。
「私は、どっちでもいいよ」
彼女は笑う。
少しだけ、疲れたように。
「もう慣れたから」
その言葉。
何よりも重かった。
「……」
沈黙。
長い沈黙。
考える。
初めて。
本当の意味で。
考える。
やり直すこと。
やり直さないこと。
どちらが正しいのか。
いや。
そんなものはない。
ただ。
選ぶしかない。
「……俺は」
ゆっくりと、口を開く。
「戻らない」
言った。
はっきりと。
「……そう」
彼女は頷く。
少しだけ、驚いたように。
「初めてだね、それ」
苦笑する。
「そうかよ」
「うん」
彼女は、少しだけ柔らかく笑った。
あの日と同じ顔。
でも。
どこか違う。
「じゃあ」
彼女が言う。
「ちゃんと終わろうか」
静かに。
穏やかに。
あの日と同じ言葉を、口にする。
『もう無理だと思う』
今度は。
止めなかった。
何も言わなかった。
ただ。
うなずいた。
「……そっか」
彼女は立ち上がる。
「じゃあね」
「ああ」
短い返事。
それで、終わりだった。
彼女は店を出る。
振り返らない。
その背中を、ただ見ていた。
追いかけなかった。
スマホを取り出す。
画面を開く。
RE:TRY。
アプリを起動する。
表示。
使用回数:1
変わらない。
だが。
もう、押さない。
指は動かない。
「……終わりか」
小さく呟く。
不思議と、静かだった。
胸の奥が。
ようやく。
止まった気がした。
その時。
画面が、わずかに揺れた。
表示が変わる。
使用回数:0
「……」
息を呑む。
そして。
ゆっくりと、笑った。
今度は、ちゃんと。
乾いていない笑いだった。
スマホの画面が暗転する。
アプリは、消えていた。
最初からなかったみたいに。
カフェの窓の外。
冬の光が、少しだけ明るくなっていた。
時間は進む。
止まらない。
戻らない。
それでいい。
それで、よかった。
(完)




