44.嘲る王子
「戻ってこないから心配したよ」
カウラスは無遠慮にサリアの腰に腕を回し、彼女の艶かかな黒髪を撫で付ける。
その颯爽たる姿に呆気に取られた後、サリアが弾かれたように口を開く。
「カウラス様ッ、ゴキブリは!? 反抗勢力は!? どうやってここまでこれたのですが!?」
「ゴキブリ? 反抗勢力? なんのことかな?」
二人の会話の傍、テツオは奥歯を強く食いしばる。
これは本当にまずい。最悪なタイミングで最悪な人物が来てしまった。
「廊下に夥しい数のゴキブリがいましたでしょう?」
「……なんのことだが、僕にはわからないよ」
カウラスが平坦に首を振ると、サリアが鋭い視線をテツオに向ける。
「確定ね。全部、あなたの企みだった。飲み物に幻覚剤でも混ぜた? どんな方法であんな大量のゴキブリを見せたかわからないけど──」
「お嬢様ッ、何度も申し上げます。私の仕業ではございません!」
「黙りなさいッ、誰が信用できると言うの!」
サリアは打ち捨てるようにテツオに向かって手を払う。
「最後の情けよ。荷物をまとめてグレゴドール城から出て行きなさい! 首を刎ねられる前に!」
「サリア!」
怒号を発したサリアに、打ち返すように叫んだのは──。
マリア・ブロンドールだった。
「彼の言っていたことに、間違いがあるとは思えない!」
「マリア? あなたは何を言って」
「あなたが疑っているように、ゴキブリの件は不可解だった。それは確かにそう。でも、ここで語っていた内容に、濁りがあるとは思えない!」
思わぬ援軍に、テツオは瞠目する。
しかし、冷静に考えれば得心行く。彼女にとって、テツオは同性愛を禁じたメノイラ教の教えを根本から覆す存在だ。今ここで手放すわけにはいかないのだろう。
「サリア、あなたはテッツォからの問いかけに何も答えられていないのよ! それを放置したまま追い出す気!?」
「答える必要がないッ、私たちを騙そうとした者に尽くす言葉などあるはずがない!」
「そんな態度が『優れる』ということになるの? ならないでしょう!」
令嬢二人が喧々と言い合っていると、カウラスが心底うんざりするように溜息を吐いた。
「もういいかな? 僕は待つのが嫌いなんだ。それに──」
言いさして、必死の形相を浮かべたマリアを見て、肩を竦める。
「ブロンドール家の長女か……サリア、友人は選んだ方がいいよ」
カウラスは何を思ったのか、おもむろに手を伸ばし、マリアの手首を強引に掴んだ。
「ほら、ひどいだろ?」
「──ッ!?」
その手首を手袋で拭って、彼女の傷をサリアに見せびらかすように掲げる。
夥しい自傷の痕が、無惨に、サリアの瞳の前に晒されてしまった。
「ははッ、王城で勤めてる侍女がね、何人かこんな感じなんだ。だからすぐわかった。みんな同じ方法で隠すからね」
「離してッ!」
見かけによらず力が強いのか、マリアは必死に腕を払おうとするも、カウラスの手は一切とはがれず、サリアの正面に掲げ続ける。
その傷を視界に収めたサリアは、身を硬くして瞠目していた。
「マリア……なんで……」
「愚かだろう? 《《劣っている者》》は、メノイラの光に耐えられないらしい」
カウラスは言うと、飽きたとばかりにマリアを突き飛ばし、サリアの肩を抱く。
「君が言葉を交わす価値なんてないさ。さ、行こう。パーティーの続きをしなくては」
衝撃を受けて呆然とするサリアを連れて、王子カウラスが部屋を出てゆく。
その直前──テツオは視界の端で捉えてしまう。
マリアが太ももから銀のナイフを抜き取る姿を。
「死ね……」
聞こえるか聞こえないか、小さく言った後、マリアの足が前進する。
「やばッ」
侮辱で噴火した確固たる殺意が、王子の背中にぶつけられようとしている。
テツオの足が弾かれるように動く。思考を巡らせることもなく、ただ身を滑り込ませる。
ナイフを刺しこむマリアとカウラスの背中、その間に。
「──ッ!!」
下から掬い上げるように放たれた刺突を、テツオは手のひらで受け取めた。
切先が皮膚を破り、肉を突き抜け、手の甲から赤い刃先が貫通する。
「……邪魔しないで」
「落ち着いて……下さい……」
憎悪で煮えたぎるマリアの腕を掴んで、落とした声音で訴える。
王族の前で刃物を抜き放った──その事実を覆い隠すように、テツオは血に濡れた刃先を空いた左手で包み込む。
「ダメです……マリア様……こんな方法では……」
「生きてて良い人間じゃない。あれほど醜悪な男に、サリアを渡せない」
真っ直ぐとテツオを見るマリアの目が、色のない虚なものになっている。
殺すことしか考えられない、そう言わんばかりの、暗い使命感に囚われていた。
「アイテム作成……」
テツオは誰にも聞こえぬ声で呟き、スキルを呼び起こす。
対象は、手の甲を貫く銀のナイフだ。
「あなたが強行に及んだところで、護衛騎士に抑えられておしまいです」
口で説得を続けながら、スキルでナイフの刃先を変形させる──
丸く丸く刃先を潰し、手に空いた穴を塞ぐように形を整えてゆく。
「マリア様……どうか私に、お任せ下さい」
そのテツオの必死な眼差しを受けて、マリアの瞳にわずかな色が戻る。
そして、落涙をこぼして、震えた声音で言うのだ。
「このままじゃ……サリアが……」
「わかっています……」
力強く頷いて、マリアの肩に触れる。
これが最後だ。彼女たちが背負った荷物を下ろしてやれる。
──最後のチャンスだ。
「サリア様ッ!!」
テツオは渾身の力で叫んだ。
部屋を出てゆく間際の、サリア・グレゴドールの背中に。
「最後ですッ、私の最後の戯言をお聞きください!」




