39.慟哭
弦楽器がキレの良いスタッカートを響かせ、オーケストラが演奏を終了させた。
サリアとマリアが互いに優雅な一礼をし、ホールの傍にはけてゆく。
[後ほど二人っきりで話すそうです]
[了解です。準備を進めましょう]
テツオとミカゲは視線を合わせ、互いにゆっくり頷く。
今日まで何もしてこなかったわけじゃない。あらゆるパターンを想定し、準備を進めてきた。サリア嬢の惨殺を防ぐため、彼女たちの心を掬い取るために。
「さて皆々様、楽しいひとときとは早いもので、ラストダンスの時間となりました」
ゆっくり歩を進めてホール中央に立ったのは、先ほどまで司会を務めていた執事ダニエルではなく、グレゴドール家の当主であるドミニクスだった。
「ここで、私どもグレゴードール家からサプライズ発表がございます」
言うと、ドミニクスは怜悧な目元を染み入るように瞑り、天井を仰いだ。
たっぷり間を置くその様子に、テツオとミカゲも訝しげに眉間を寄せる。
[なんだ? サプライズ? ミカゲさん聞かされてる?]
[知りません……何が起こるんでしょうね……]
テツオはすかさず、盗聴スキルを発動した。
ドミニクスの口元が小さく動いていたからだ。
『──神よ、感謝致します。あなたはグレゴドールに栄光の道を開いてくださった』
悲願、懇願、誓願、それらがすべて達成されたような、万感を溢れさせる響きだった。
そして、ドミニクスは瞳に爛々とした輝きを宿して言うのだ。
「我が娘、サリア・グレゴドール──婚約相手が決まりました!」
その発表に会場がどよめく。テツオたちも大いに動揺する。
聞かされていない。サリアの専属であるのに、何も伝えられていない。
「紹介しますッ、ソマリ王国、第一王子であるカウラス・フォン・ソマリ様です!」
ドミニクスが打ち上げるように言うと、ホールの空気が張り詰めた。
サリア嬢が王族と婚約を結ぶ。
その衝撃に、皆が身を硬直させている。
そして、カツカツと靴音が鳴り、燭台の炎が風もないのにわずかに揺れる。
会場の扉が、荘厳な音を響かせて押し開かれ、甘い香りを会場に流し込んだ。
「ご紹介に預かりました。カウラス・フォン・ソマリでございます」
そこに現れた第一王子、その立ち姿は──
白磁のような肌だ。青白いのではない。磨き上げられた象牙のように均整を保ち、皺ひとつない。金糸を束ねた髪がゆるやかに肩へ流れ、その一房ごとに光を散らすようだ。
誰もが息を呑むほど、造形そのものは完璧なもの。
──だがしかし。
その瞳だけがひどく濁っていて、テツオは嫌悪を覚えた。
腐った卵白のような粘り気のある色だ。欲望と、軽蔑と、退屈が溶け合ったヘドロを思わせる。
なぜこんな不快感を覚えるのか。直感だけで片づけられず、テツオはミカゲに脳内通信を送った。
[ミカゲさん、あの人から何か解析できない? すごい違和感……]
聞くと、すぐにさま彼女の声が脳内に落ちてきた。
[……はい。今、王子の表情筋と心拍、虹彩反応などを計測しましたが、明らかな異常があります]
[どんな?]
[〝感情の動き〟が、人間の範囲から逸脱しています]
[……逸脱?]
[笑っているように見えますが、頬の筋肉がほとんど動いていません。口角の角度が毎フレームほぼ一致しています]
[それって……人形みたいに人間の表情を模倣してるってこと?]
[その認識でほぼ合っています。『笑顔』という仮面を顔の筋肉で再現しているだけです……ダンスの振り付けのようなものでしょうか……もっと深く解析を進めます]
会場の隅、ミカゲが眼鏡に指を添え、ゆっくりホール中央まで歩む王子カウラスをじっくり観察する。
心臓の拍動八つ分。そのわずかな間を置いた後、彼女が絶句するように息を呑んだ。
[脳内に異常値を検出しました……ノルアドレナリン反応が異常に強く……エンドルフィン値も振り切れています。オキシトシン濃度……ほぼ検出できません]
[え……それって、俺が知る限りじゃ……]
[ただし……この数値だけでは、どんな刺激に反応しているのか特定できません。快楽でも、恐怖でも、支配でも……複数のケースで同じ反応が出ます]
ミカゲのその補足を受けてもなお、テツオの背筋が動揺で冷たくなる。地上波で流せないタイプのドキュメンタリー番組で見たことがある。その状態は、人間として決壊しているのではないか。
ドミニクス──何を考えている。一人娘が大事ではないのか。
「おお、なんと神聖な御姿……」
当のドミニクス、神を仰ぐような目をカウラスに注いで感嘆していた。
王子の姿を見た周囲の貴族からも、芸術品に胸を打たれるようなため息が漏れる。
この世界にはまだ、あの濁りを認識できないのだろうか。
それとも、王族という看板が、人々の目に膜を張っているのか。
テツオはマリアに視線を配る。
彼女は今、何を思うのか。
◆
王子の名が告げられた瞬間、マリアは、古い記憶を思い返していた。
会場がざわめくのを肌で感じながらも、彼女だけは戦慄を覚えていた。
ソマリ王国・第一王子カウラス──その名は黒い記憶として刻まれている。
王城に侍女頭として召し上げられていた叔母が、秘密裏に一度だけ漏らした話だ。
『あそこはね……薬臭いのよ。人の汗でも香でもない、鼻が麻痺するような匂いがする。若い侍女は近づくなって、皆が言うの。王子様のお気に召したら最後よ』
ブロンドール家でも、長女であるマリアを王族と結ばせようという動きがあった。
それに反発した叔母が夜闇に紛れて王城を抜け出し、固く封じられた口元を開き、あらゆることを教えてくれたのだ。
カウラスの薬物の乱用。若い侍女に対する目を覆いたくなるほどの性的虐待。
毎夜のように行われる、他者の心を壊すことを快楽とする秘匿された宴。
それらが行われるのは、血税を湯水のように流して建てられた豪奢な別邸。
王城で行われる、吐き気を催す汚泥の渦。
そこに、サリアの身が投じられると言う。
(イヤだッイヤだイヤだイヤだ!)
生き地獄に、彼女が投げ込まれようとしている。
どれほどの凌辱が行われようと、王城がこの国の頂点だ。
裁く者がいない。訴えたところで、血生臭い手段で握り潰されてしまう。
(クソックソクソクソ!)
マリアは煮える憤怒を瞳に灯し、優雅に歩く王子カウラスと周囲の反応に視線をやる。
人形のように整った顔に浮かぶ薄ら笑いを、皆が称賛している。常用している薬物の香りを誤魔化すために纏った甘い香水、その匂いに女性陣がうっとりと目を蕩けさせている。
(気持ち悪い……)
我が物顔で歩くあの男は──薬物中毒、性犯罪、それらを告発する者をことごとく葬ってきた醜悪な王族ども、その血を繋ぐ嫡男だ。
サリアを、そんな血統の母体にしてなるものか。
「では、若き二人に、ラストダンスを披露して頂こう」
ドミニクスの生き生きとした活声が響くと、カウラスの腕が、サリアの腰に回される。
空いた手を互いに繋ぎ合わせ、音楽に合わせてダンスホールを優雅に泳ぎはじめる。
(イヤだ! 触れるなッ、サリアに!)
噴火するような焦燥がマリアを支配し、彼女は駆け出そうとした。
王族を突き飛ばせばどうなるか、ブロンドール家はどうなってしまうのか。
知ったことか。このままではサリアが汚染されてしまう。
(……ダメ……)
しかし、先ほどテッツォに掴まれた右手首に痛みが走り、マリアの思考に冷水が浴びせられる。
進めようとした足を止め、視線を彷徨わせる──腰に剣を携えた王族の騎士が数名、会場に配備されている。それらが視界に入り、さらに理性を手繰り寄せる。
(今じゃない……)
そうだ。今は冷静になる必要がある。公衆の面前で王子に危害を加えれば、ただマリアは取り押さえられてお終いだ。
意味がない。そんな刹那的な方法では何の解決にもならないのだ。サリアを残して退場することになるだけだ。
「見て、あのショックを受けたような顔」
「これでグレゴドール家はブロンドール家より上の階段へ登ったことになりますからね」
「サリア様に先を越されたことが耐えがたいのでしょう」
周囲から、コソコソとした婦人たちの囁き声が聞こえた。
今のマリアの顔を見て、良い気味だとでも言うように扇子の奥で口元を歪めている。
お門違いも良いところだ。いっそ笑えてくる。
周囲への嘲笑を落とし、マリアはサリアが颯爽と踊る姿を捉える。
彼女は──笑っていなかった。
(ねえ、わかるでしょ?)
聡明なサリアならわかるはず。その男の醜悪さを見抜けているはずだ。
ましてや、今一緒に踊っているのだ。肌で感じるだろう、リズムの合わなさを。
一歩、二歩とホールを踏み締める度に、サリアの眉がヒクついている。
会場を広く使いたいサリアの所作を、カウラスは一切許さず、ホールの中央にばかり留まって踊っている。
まるで、自分の鳥籠に入っていろと言いたげな、息苦しいダンスを強要させられている。
(我慢できる? もう……できないでしょ?)
父親であるドミニクスとメノイラ教の教えに準じて生きてきた。
その彼女の服もほつれて、肩に穴が開きそうになっているのを、マリアは知っている。
サイズが合っていないのだ。自分も彼女も、寸法の違うドレスを着せられてきた。
トドメとばかりに、貼り付けた仮面で覆われた性犯罪者との婚約。
我慢させるのも、大概にしろ。神の前では娘の内なる悲鳴も聞こえないのか。
額に汗を浮かべるサリアを見つめ、ギリリと、マリアは口元に鈍い音を鳴らした。




