37.知っている。
十八時、荘厳な鐘の音が遠くで三度鳴り響く。
その合図とともに、グレゴドール城の玄関前には、馬車の列が途切れなく押し寄せた。
「ようこそ、おいでくださいました」
御者が車体の扉を開く度、婦人たちの纏った香水の強い香りが風に乗り、使用人が入れ替わり立ち替わりで招待客に挨拶をしてエントランスまで先導する。
そのエントランスの端、テツオは胸の前に名簿を抱えたまま、ひたすら客人の確認作業を行っていた。
[えーっと、あれがご学友の一人で、その両親。あのお爺ちゃんは……誰だ……]
[あれはモリスさんですね。正装しているとかなり雰囲気が違いますね]
ミカゲと脳内通信を繋げたまま、テツオは辿々しく仕事をこなす。
使用人として必死に仕事をしているとたまに忘れそうになる。本来の、調査官としての役割を。
[どう? 刃物持ち込んでる人いた? モリスさんとかどう?]
[今の所は、解析スキルに引っかかっていません。その他の候補も問題ありません]
マリア嬢以外は──と、ミカゲが重々しく告げる。
彼女もすでにグレゴドール城に到着し、エントランスに入るところを見かけている。
今はボールルームの開場まで、学友との歓談に花を咲かせているようだ。
[マリア嬢の太ももに、革のベルトで固定されたナイフが一本、確認できます]
[じゃあ、やっぱり今日なんだ]
〈占いスキル〉によって見た、サリア・グレゴドールが殺される未来。
それは今日というこの日、十七歳の誕生日で間違いないだろう。
しかし、まだ確定していない未来の話だ。
異世界転生所の研究部が占った予想でしかない。
[以前も申し上げましたが、研究部の死亡占いは九九パーセントの的中率です。油断しないように努めましょう]
ウェルカムドリンクを優雅に配りながら、ミカゲが引き締めた音で注意喚起してくる。
[ごめんね、付き合わせちゃって]
本来、ナイフを取り上げてしまうなり、マリア嬢の入場を拒否すれば、この案件は終了だった。惨殺さえ阻止すれば任務は完了ということになるから。
しかし、テツオの判断でその策を取りやめにしてもらったのだ。
『サリアちゃんの心を救ってあげて』
──その、大沢アイカとの約束を果たすために。
(見てくれているか)
あの映画館で、見届けてくれているか。
テツオを赦してくれたあの優しい子は、楽しんでくれるだろうか。
「みなさま、お待たせしました!」
テツオが感慨に耽っていると、筆頭執事ダニエルがボールルームの扉を開け放つ。
いよいよ十九時。サリア・グレゴドールの誕生祭が始まる。
「さあさあ、こちらへお進みください!」
前室の熱を帯びたざわめきがそのまま扉に吸い寄せられ、高い天井に灯る煌びやかにシャンデリアが客人たちを歓迎する。
楽器を構えた楽団が一斉に鮮やかな旋律を奏で、会場の空気そのものを華やかに演出し始めた。
[そろそろ料理の運び込みをしましょう]
ミカゲの指示に頷き、テツオはしばらく会場と厨房の往復に明け暮れる。
招待客たちが各々に歓談を楽しむ最中、テツオたちはテーブルに色とりどりの前菜を山のように並べてゆく。
サリアの学友たちも自然と輪を作り、流行の香水の話だとか、来春の舞踏会の噂話だとか、いかにも貴族的な会話で盛り上がっている。
その中央、マリアだけが笑みを貼り付けたまま、カップを指先で弄んでいた。
「あ、いらっしゃったようです」
やがて誰かがそう口にすると、会場の扉が静かに開き、
公爵ドミニクス・グレゴドールと、夫人ラヴィア・グレゴドールが颯爽と姿を現した
「ありがとう、本日は娘のために足を運んでいただき、感謝申し上げる」
ドミニクスは相変わらず岩のように硬い表情で、しかし礼節を崩さず一人ひとりに軽く会釈を向けていた。
「皆様、娘のためにありがとうございますね」
公爵の深い声が会場に響くなか、ラヴィア夫人はその隣で柔らかな微笑みを浮かべ、花の香りのように緊張を散らしていた。
「…………」
ふと、ラヴィアの流し目が配膳しているテツオに送られる。
あの誘惑を振り切った夜から、ひどく気まずい関係となってしまった。男性機能不全を装ったせいか、ここ数日、彼女と顔を合わせるたび、同情の眼差しと申し訳ないとばかりの苦い会釈が送られるのだ。
[なんでだッ、なんで正しいことをしたはずなのに! こんな惨めな思いをしなければならないんだ! クソぉう!]
[テ、テツオさん?! どうしました?]
つい、心の嘆きが脳内通信に乗ってしまった。
ミカゲに[すみません、なんでもないです]と告げ、平静を取り繕う。
切り替えねば、とテツオは速やかに配膳を終え、マリア・ブロンドールを視界に収められる位置で会場の隅に控えた。
「皆々様──」
一通り、会場を回り終わったドミニクスとラヴィアが、会場の真ん中に進み出る。
「本日はご来場、誠にありがとうございます。我が娘、サリア・グレゴドールを祝福するため、遠路はるばるおいで下さった──」
会場が沈黙するなか、ドミニクスのお硬い礼節が粛々と続いてゆく。
「創造神メノイラへの健やかなる信仰、優秀にして優美を貫く姿勢、まさに彼女はグレゴドールの正統な血統、その結晶たる誇りであります」
その凛とした低声が響くと、会場で割れんばかりの拍手が巻き起こる。
「では、暖かくお迎えください! 我が娘、サリア・グレゴドールにございます!」
ドミニクスの宣言と同時に、会場の扉が静かに開いた。
すでに衣装部屋で見た、美しい深紅のドレス。その姿が堂々と広間へ歩み出る。
「美しい……」
会場の眼差しが一斉にサリアへ注がれ、息を呑む音、感嘆のため息がそこらで溢れた。
男性は目を呆然と蕩けさせ、女性は羨望と期待の色を瞳に宿す。
まるで空気そのものが、彼女に魅了されるようだった。
「本日は、私のためにお集まりいただき、ありがとうございます」
両親に迎え入れられ、広間の中央に立ったサリア嬢は、落ち着いた声を響かせる。
余計な飾りも、過度な感情もない。ただ完璧に整えられた、公爵令嬢の挨拶が続く。
「創造神メノイラの御前において、わたくしは本日、一七歳の節目を迎えました。
聖典に記されたように──『優れた者は己を律し、民を照らす光となれ』
幼少の頃より、父と母はその教えを胸へ刻むよう導いて下さいました」
一拍置き、サリアは瞼を伏せ、胸元のネックレスへそっと触れる。
「わたくしはまだ、未完成です。けれど、グレゴドールの名を汚すことなく、この身が神の御心に適うよう、これからも日々を積み重ねて参ります」
伏した睫がかすかに震える。
誇りと、抑え込まれた不安がほんの一瞬、揺らめくようだった。
「どうか今後とも、我が家と──わたくしを見守り下さいませ」
最後にドレスを摘んで優雅に一礼すると、張りつめていた空気がほどけ、割れるような拍手が巻き起こった。
歓声も喝采も、美辞麗句も、すべてが彼女、サリア・グレゴドールの肩に降り注ぐ。
その最中、テツオの視線の先では、ただ一人、マリアの瞳だけが静かに燃えていた。
[マリア嬢の脳内に、大量のストレスホルモンを検知しました]
同時に、ミカゲからしとりと苦々しい報告が上がる。
[まずい?]
[危険水域、その一歩手前です]
テツオはたまらず、大いにため息を吐いた。
何が気に食わなかったのか。愛する人の美しい姿を見て、なんて顔をしてるんだ。
神への信仰を口にしたのが気に入らないか、サリアに賛辞を送る人々が憎たらしいのか。
[テツオさんの思惑とは外れますが、いざとなったら、強硬策に出ます]
[わかった。本当にやばいときはお願いします]
どうか大人しくしてくれ。とテツオはマリアに懇願するように瞳で訴える。
自分から狂気を手放すように導かなければ、このままでは誰も幸せにならない。
どうかその舞台まで、もう少し待っていてくれ。
「時間稼ぎしときますか」
◇
(見るな見るな見るなッ、サリアを薄汚れた目で見るな!)
心の中で、マリア・ブロンドールは張り裂けるように叫んでいた。
腹が立ちすぎて手が震える。持ったグラスを落としてしまいそうだ。
(気持ち悪い──)
美しいサリアにあんなことを言わせたグレゴドール家も、メノイラ教も、忌々しくて反吐が出そうだ。
『わたくしはまだ、未完成です。けれど、グレゴドールの名を汚すことなく、この身が神の御心に適うよう、これからも日々を積み重ねて参ります』
そんな積み重ねなど、何の意味もない。
ただの鉄球のような煩わしい重しを背負って、山を登っているだけに過ぎない。
(ねえ、本当はわかってるんでしょ? わたしたちが求めていたのは、空虚なものだって)
知っている。マリアはサリアの心の憂いを知っている。
心の端で燻る鬱々しさを、ふと彼女は口にしたことがある。
あれは三年前、まだお互い十四の歳の頃だ──。
学院の広い廊下。授業が終わった帰り道。
外で雨が降りしきるなか、二人で廊下の飾り棚に並ぶ絵画の展示を眺めていた。
その頃は、メノイラ教の象徴である〈黄金の天秤〉をテーマに、絵画コンテストが開催されていた時期だ。
「ねえ、どう思うかしら?」
マリアが軽い気持ちで尋ねる。サリアは少し不思議そうにする。
「……どう、とは?」
「グレゴドール城の礼拝堂にもあるでしょ? この天秤は『優劣を測る神器』だって言われるけど……本当にそんなもの、いるのかなって」
サリアはすぐに反論するだろうと思っていた。
メノイラの教えに疑問を持つのは愚か、と、いつものように言い切ると。
けれど、その日は違った。雨が降っていたから、彼女の心に降り積もったものを洗い出してくれたのかもしれない。
「もし……本当に優劣の重さなんて測れるのなら」
サリアは首元にそっと指先を触れた。青白い横顔が、どこか寂しげだった。
それが、目を釘付けにされるほどに、美しかった。
「私はきっと、軽すぎて……天秤に乗る価値もないのでしょうね」
「え……? どうして?」
彼女からそんな言葉が出るとは思わず、思わず聞き返した。
しかし、すぐにサリアはいつもの意地の悪そうな冷笑を浮かべるのだ。
「あなたの驚いた顔、可愛いわね」
ふふ、と肩を揺らした次には「忘れて。独り言よ」と素っ気なく廊下を歩き出す。
その背中が、妙に小さく見えた。
軽すぎる。
価値がない。
サリア・グレゴドールの口からそんな自嘲をがまろび出るなど、あのときは幻聴でも聞いたのではないのかと思った。でも、今でも彼女の悲しげな相貌が頭から離れない。
今ならわかる、あれが本当の彼女なのだ。虚飾も虚栄も脱ぎ去ったサリア・グレゴドールを、あのとき垣間見れたのだ。
(サリア……あなたも、ほんとうは……)
完璧を演じるために、削られ続けている。
父親と、神と、社会に求められる〝役〟を、逃げ場なく押しつけられて。
本当の自分の重さを、握りしめる余裕すら奪われている。
マリアには、それが痛いほど分かってしまったのだ。
同じ公爵令嬢で、似たような役を演じているから。
この国で、芯に分かり合えるのは彼女だけ。そう思った。
本当は、自分たちが天秤に乗せ続けている物に、重みがあるように思い込まされてる。
知っているんでしょう? それを口にできないほどに。
わたしたちが弱いことも、劣っていることも。
(ねえ、サリア。あなたも一緒に──)
「マリア様? 大丈夫ですか?」
ふと、思考の波を泳いでいたマリアに、一つの声がかけられた。
ゆっくりと首を動かしてその方向を見れば、サリア専属執事〈テッツォ〉が、こちらに心配そうな瞳を注いでいた。




