36.バースデー
窓から差し込む陽光に瞼を照らされ、マリア・ブロンドールは寝返りを打つ。
そろそろ起きる時間だ。厳格な教育によって、使用人に起こされなくとも刻み込まれた習慣が、マリアの肉体を鬱陶しい朝に導いてしまう。
「んぅ……」
身体を起こす前に、まず必ずやることがある。
マリアは枕の下に手を差し込む。すると、硬く冷たい感触が手に伝わってきた。
それに触れていると、呆然とした意識が徐々に覚醒へと駆けてくれる。
「おはよう」
誰もいない部屋に、マリアは温かな声音を落とした。
今でも覚えている。この〝お守り〟で手首に線を引いた時のことを。
ダラダラと流れる命の源が、浴槽に赤を満たしてゆくあの光景。
親も友人も、絵画も物語も、神でさえも教えてくれなかったことを。
焦燥と戦慄が、激しく打たれる心臓の拍動と共に教えてくれた。
ちゃんと、マリア・ブロンドールに終わりがある。
そう、教えてくれたのだ。
この息苦しい生涯が永遠に続くのではないかと思っていた。
口を付けば『優れなさい』の一本調子の父と母。
誰の心も救わない、選民主義のメノイラ教。
なにより、女しか愛せない間違った自分。
もう、良い加減、うんざりだった。
どうせ生き続けても、自分の先は見えていた。
愛せない夫と縁を結び、その男の子供を産み、自分が親にかけられた呪いをその子供にもかけてゆくのだ。
──優れなさい、と。
曽祖母も祖母も母も、正統なる血統を繋ぐことに人生を注いだ。
それが馬鹿らしく、情けなく、愚か極まるものに思えてならなかった。
何度同じ人生を刷り直せば気が済む?
なぜ飽きもせずに神の言いなりになってきたのか。
思考停止も良いところだ。路地裏で残飯を漁る野良犬よりも惨めな傀儡に他ならない。
しかし、そんな傀儡たちが繋いできた流れを、自分は断ち切れる。
腕から流れ落ちる赤を見つめていると、カチリと時計の針が合うような音がした。
どれほど権威を手にしても、どれほど栄誉を手にしても。
豪華絢爛な城も、煌びやかな服も、有り余るほどの私財も。
全部、意味がない。〝死の先〟には何も持ってゆけない。
だから、マリアは苦しいと思ったとき、その赤色を見たくなる。
彼女を苦しめる他者の言葉も、惨めな思いをさせてくる価値観も。
叶うことはない自由への渇望も、すべてが手首から流れ出るようだった。
「知ってほしいの……サリア……」
全部、重い荷物は全部、下ろせることを。
一緒に下ろしたい。転がり落ちる前に。
全部下ろして、理解させてやりたい。
崇拝していた神の、救いのなさを。
◇
昼の日差しが窓辺に差し込んだグレゴドール城内。
廊下で行き交う使用人たちが慌ただしく、着々と準備を進めていた。
「テッツォ、招待客リストは持ってますか?」
「はいッ、本日のメニュー表もあります」
「よろしい。納入した花の配置もチェックしておいて下さい。寸分のズレも許されません。十八時にはお客様方の迎え入れが始まりますからね」
「はいぃ……」
「あ、それと、十七時には王都から聖職者の方々が押し寄せます。迎え入れて礼拝堂にお通しして下さい」
廊下の隅で道を空け、筆頭執事ダニエルが事細かにテツオに指示を送る。サリアの誕生パーティー当日であるからか、やたらとピリピリしていて息苦しい。
(死んでるのに……なんでこんな忙しなきゃいけねえんだ……)
たまらずテツオは白目を剥いて、逃げるように廊下を駆ける。
大学時代、音楽フェスの設営のバイトをしたことがあるが、その忙しなさを凌駕するほどに心に来るものがあった。
あれから数日、テツオとミカゲはダニエルの指導の元、本格的にサリア嬢の誕生パーティーの準備に明け暮れていた。
各所に送った招待状のリスト化、食事メニューの打ち合わせと、花と衣装の予約から始まり、楽団との打ち合わせまでこなした。
加えて、サリア嬢のダンスリハーサルに付き添い、食材仕入れ作業の手伝いや、会場の設営準備を通常のスケジュールと同時並走で進めてきた。
そして、今日というこの日、誕生会当日でもそこらで悲鳴が打ち上がるのだ。
どんなに入念に事前準備していても、上手くいかない箇所が必ず出てくる。
新作ゲームがリリースしたその日に、不具合修正が配信されるのと同じ現象だろう。
これはたまらないと、テツオは目の保養に向けて駆け出していた。
ミカゲの報告によると、今しがたサリア嬢が本番で着るドレスの最終調整の真っ最中であるらしい。少しでも美しいものを拝んで気分転換をしたいところだった。
「良いわね。言っていた脇と裾の調整も完璧よ」
「ありがとうございます」
テツオが静かに部屋に入室した際、サリアが首にメジャーをかけたデザイナーに平坦な賛辞を送っていた。
鏡に向かって右に左に身を捻る彼女の姿に、テツオは思わず息を呑む。
「いやぁ……凄いなぁ……」
「ほんとに……綺麗すぎて目がピカピカしますね」
衣装部屋の隅で、語彙力を失ったテツオとミカゲが感嘆の息を吐く。
深紅のドレスに身を包んだサリアは、絵画の額縁から抜け出た女神のようだった。
大胆に開いた胸元と背中から覗く白肌が、赤い布地をいっそう鮮やかに引き立て、裾や関節に縫い込まれた金糸が、動くたびに流れ星のように瞬いている。
「いやぁ、来てよかった」
テツオは先ほどまで、『誕生会ごときで大袈裟な』という気持ちを燻らせていたのだが、そんな不満などすっかり消炭となった。今は誇らしさえ感じさせてくれる。
「ふぅ……」
反して、サリア本人はどうも複雑な面持ちのようだ。
良く研いだ刃物のような鋭い目元が、今は憂いを帯びて垂れ下がり、指先で首のネックレスを所在なさげに撫でている。
淡い金属音が微かに鳴り、テツオはその仕草に一瞬だけ、祈りにも似た感覚を覚えた。
メノイラ教を信仰するこの貴族社会では、一七歳という節目は特別な意味がある。
聖典に記された歴史の中で、創造神メノイラが神器を授けた最初の人間が一七歳であったらしく、それにあやかった風習により、その歳に至った貴族は皆、神に誇れる人物として完成を目指さなければならないとか。
「……緊張されてますか?」
つい、テツオはため息を吐くサリアにそう声をかけた。
「なに? 私に言っているの?」
「はい。どうも不安げでしたので」
「はッ、馬鹿も休み休み言いなさいな」
嘲るように鼻を鳴らすも、やはり悪態にいつもの覇気がない。
その有様は、潜在的に孤独と重責に悲鳴を上げているのだと、テツオはどうしても解釈してしまう。
サリア嬢を取り巻く環境は、悪役令嬢と呼ばれる立場の中ではハードな部類だろう。
両親の溺愛を浴びて過剰な自尊心を育んできたわけじゃない。他者より秀でなければいけないという宗教教義により、彼女の本来の心根が抑え込まれている気がしてならない。
一七歳という年齢は、自我の芽生えには十分な歳月を経ている。
抑え込まれている芽が、たまらず軋みを上げているのだとしたら──
(どう転ぶか……)
テツオは脇に挟んでいた招待名簿に視線をやる。
マリア・ブロンドール。彼女の名だけが、やけにはっきりと浮いて見えた。
──彼女は必ず、仕掛けてくるはずだ。
◇




