33.再び異世界へ
ぽたり、ぽたり赤が落ちる。べったりと、ぬらりと落ちてゆく。
腕を伝い、肘から落ちて、湯船に沈んで消えてゆく。
「サリア……グレゴドール……」
しとりと彼女の名前を口にする。
愛しい、愛しい、最愛の人の名前を。
「美しく……気高く……優れている……」
口にすると、呆れるような笑みが溢れた。
それは彼女の本当の姿ではない。
他人が用意した、サイズの合っていないドレスの形だ。
「惨めで……哀れで……劣っている……」
好きな人のことを深く思うと、どうしても自分と重なる。
誰かが用意した服を着せられている、自分と彼女は──
「同じ……もう、脱がないと……」
壊れてしまう。そう口から溢して、銀色の刃物を天井へ掲げた。
鈍く光る刃先が、淡いランプの光を慈しむように反射する。
「助けてあげる……脱がせてあげる……一緒に、逃げよう……」
ぽたり、ぽたり赤が落ちる。べったりと、ぬらりと落ちてゆく。
肩を伝い、胸を辿り、湯船の中へ逃げてゆく。
「どうか、一緒に」
誰にも届かない場所へ。
メノイラのいない、真っ黒な世界へ。
「逃げよう……」
◆
大沢アイカとの和解を終えたテツオは、サトルの助力を得て、執行官に着せられた宇宙服を脱ぎ捨てることに成功した。
執行官の激しい尋問と、あの分厚く重い鎧を纏って過ごしていたためか、とてつもない疲労感がある。今すぐにでも布団に倒れ込みたいところではあるが──
「異世界転移、開始します」
シアタールームに戻ってすぐに、ミカゲの音頭がしとりと響く。
すぐにグレゴドール城に戻り、激しい戦闘で破損した礼拝堂を修復しなかればならないそうだ。
「お手数おかけします……」
申し訳なさそうなミカゲの声音と共に、全身がほのかな浮遊感に包まれた。
微睡む意識の心地よさに浸っていると、テツオの魂が徐々に上へ上へと引っ張られる。
そして、しばらくして──
「お疲れさん」
肌寒い春の夜更け──。
その澄んだ空気が鼻を抜けた瞬間、サトルの声と手の温もりがテツオの意識を引き戻した。
「テツ兄、ほんま悪いんやけど、もう一踏ん張りお願いできるか?」
片手で蝋燭に火を灯しながら、サトルが礼拝堂の扉を指し示す。
テツオは「オッケー」と軽く返事をして、ほのかに照らされた礼拝堂の扉を手で支え、中の様子を覗き見る。
「……わお……とんでもないね……」
グレゴドール家の聖地である礼拝堂。そこは目を覆いたくなる惨状で覆い尽くされていた。盛大に抉れた白壁に、無惨に破壊された長椅子。砕けたステンドグラスが地面のそこらに降り積り、焼け焦げたシミが転々と部屋中に散っている。
「X-MENかターミネーターでも通った? これを修復するのは……」
「すみません……本当に……」
速やかに転移してきたミカゲが、ひどく気まずそうな声を背後からかけてくる。
「久々に転生した姿になったので、少しはしゃいでしまいまして……」
「見たかったな、異能力バトル。出来ることなら〈短期記録〉で映像に収めたかった」
「私はあまり見られたくありません。〈復刻転生〉を発動した私は……かなり暴力的なので……」
「それはしょうがないことでは? 戦闘行為なんだから」
抉れた壁に指を添えながら、テツオはしみじみと相槌を打つ。
ミカゲは『神』と戦っていたと聞き及んでいるが──
「その神様ってどんな感じだった?」
「黒い人型を模した影の塊、と表現すれば良いでしょうか。私を見るなり、この世界の人間ではないと、瞬時に見抜いていました」
「じゃあ、本当に神様のような存在がいたってことなんだ」
「うーん……今回の場合は『神を名乗る怨念』と考えた方が自然かもしれません。あまりにも禍々しい見目でしたし」
「怨念か。自分には縁遠いスピリチュアルな話だなぁ」
「ふふ、死して異世界を渡り歩いている私たちが言えることではないですよ」
思わず吹き出したミカゲに、テツオは「確かに」とつられて笑みをこぼす。
何はともあれ、ミカゲが無事でよかった。
「さて、とりあえずやりますか」
「そうですね。お願いします」
とりあえず〈アイテム作成lv1〉で破損したものを修復するには、散らばったパーツを集めなければならない。
ミカゲが脳内に送ってくれた解析情報を元に、テツオはステンドグラスの欠片を集め、仕分け作業に入る。ありがたいことに外でサトルが〈認識阻害〉を行使してくれている。どんなに派手な音を立てても、ここにいる人間以外には物音を認識されることはないそう。
「天界所属の癖に、こんなこと聞くのおかしいと思うんですけど、〈神様〉って異世界にいるの?」
ガラスの破片を眺めながら、テツオがそんな疑問をこぼす。
異世界転生所で働き出してから間もないためか、まだ『神』というものと遭遇したことがない。そもそも天界を管理している日本の神にも会ったことがないゆえ、どこかその存在を疑ってしまう。
「いますね。異世界に限らず、私たちが生きていた地球にもいましたよ。多くは直接語りかけてきたり、夢に侵入して信託をくれたり。場合によっては、知らず知らずの内に干渉してきて、こちらの命を狙ってくることもありますし、手厚く助けてくれることもあります」
へえ、とテツオは生前に思いを馳せる。
地球にも古事記や聖書などの書物が存在し、神の御業とやらがそれらに記されていたが、古代の人間の創作物であるとテツオは思っていた。
まあ、天界なんてものから異世界に降りてきてる時点で、疑う余地もないのだが。
「テツオさんは、何か信仰してるものはありますか?」
ふと、ガラスの仕分け作業中、ミカゲからそんな疑問が飛んできた。
雑談にしては込み入ったものを投げくる。多くの日本人が即答しがたい問いかけだ。
「うーん……無宗教なんでね。誰かが死んだ時に仏様に拝むくらいですかね」
「では、荒んだときに心の支えにする存在とかでも良いですよ」
支えか。とテツオは頭の中の箪笥を開け閉めする。
心を病んで布団に伏せていた時期、頭の中にとあるキャラクターを思い描き会話していた。テツオの人生の手本になるような存在だ。
「ドラえもん、ですかね」
「まぁ……ドラちゃんですか?」
「はい。悲しみに暮れているとき、ドラえもんの顔がチラつくんです。のび太君みたいに、あの丸い身体に抱きついてワンワン泣きたくなります」
「確かに、羨ましいですよね。四次元ポケットで便利道具を出してくれますし」
「いや、四次元ポケットは物語を彩る要素の一つに過ぎません」
つい、テツオの語りに静かな熱が入る。かのSF作品の頂点に君臨する猫型ロボットに思いを馳せると、どうしても冷静でいられなくなってしまう。
「ドラえもんの真髄は〝寄り添う〟ことにあります。のび太君の可能性を信じて、人生をサポートしてくれる愛情の権化です。甘えさせてくれるし、奮い立たせてもくれる。まさに、俺にとっては神に等しい存在かもしれません」
ドラえもんの在り方は、テツオにとって究極の形だ。
四次元ポケットがなくとも、ドラえもんの魅力はどんな便利道具をも凌駕する。
「どんなに情けないところを見せても、絶対に見捨てたりしない。間違った行いをしても、人間の未熟を否定せず、そこに愛を注ぐ。便利道具で起こす奇跡に意識を引っ張られがちですが、その使い道のほとんどが、のび太君の成長の手助けに比重を置いている」
それは〝理想の救済像〟と定義しても過言ではない。
いつでも頼れるスーパーヒーローでありながら、どんな喜怒哀楽も受け止めてくれる慈愛に満ちたスーパーゴッドだ。
「ドラえもんのような心根が、やっぱり理想形ですね。他者の怒りも悲しみも受け止めて共感して、笑い飛ばすか、一緒に困ってくれる──そんな人間になりたいと、今は思えるんです」
大沢アイカと対話したおかげで、テツオは初心を思い出していた。
アマチュア映画を作っていたのも、そんな心根が原点だ。深く傷ついている者の癒しになりたいと、脚本の執筆に明け暮れ、カメラを回し続けた。
今まで見てきた多くの作品が癒しをくれたのと同様に、自分もその担い手になりたいと情熱を燃やしていたのだ。
「ふふ、良いですね」
テツオが語り終えると、ミカゲはしばらく瞠目し、少し間を空けて微笑した。
「過去一の熱量でした」
「熱くなり過ぎました……お恥ずかしい……」
「いや、それが立派な信仰ですよ。神様というより、仏様の心根に習う仏教徒に近いですね。とても聞き応えがありました」
冷静に分析されると、余計に恥ずかしくなる。熱中する姿を観察されると、どうも心の奥で尻込みしてしまう自分がいる。
「ミカゲさんは? 心の支えにしてるものは?」
誤魔化すように聞くと、ミカゲが顎に手を添えて天井に視線を移す。
こちらに聞いてきた割には、明確な答えがないようで。
「テツオさんの後だと、正直何も思いつきませんね」
「ちょ……ずるい……人にだけ答えさせておいて」
「うーんそう言われてしまうと、捻り出さないといけませんかね」
しばらく、ミカゲはこめかみをマッサージしながら思考を回す。
「私の経験してきた人生のすべてが寿命を真っ当せずに終わっているので……まあ、心の支えで言うなら、『死』そのものを頼りにしてきましたね」
その答えに、テツオは瞠目する。いつもオットリと物腰の柔らかいミカゲからそんな退廃的な答えが飛び出すとは予想だにしなかった。
日本で生きた人生と、七回の異世界転生。計八回も死を踏むと、悲しみを通り越して希望になりえるのだろうか
「その心は?」
「どんな人生でも楽しいこともありますが、苦しみの連続でした。それに『終わり』があると思うと、苦しみから心の距離を取れるんです。どんなに今悩んでいたとしても、『どうせ最後は死ぬことになるしなぁ』と気楽に考えられます」
内心、テツオはホッと胸を撫で下ろす。一瞬、『死そのものが救済』と語るタイプの狂人思想かと心配したが、かなり健全な思想だ。
『死』というフレーズは強烈に聞こえるが、要は『締切』に他ならない。
「そうだよね。締め切りがあるから頑張れるし、好き勝手生きてやろうって希望にもなるよね」
「そうそう。まさにそれです。ただ、我々は死んでも天界に戻るだけなので、ちょっとその『死』の味も薄味になりましたね。天界に戻っても異世界でやり残したことが頭を駆け巡りますから、後悔のないような異世界生活を送らないといけないプレッシャーもありますね」
肩を揉みほぐしながら、ミカゲは諦めたように溜息を吐く。
確かにプレッシャーだろう。人生を終えても、その後悔を天界で抱え続けることになるのだから、転生した直後から追い立てられるような感覚になるかもしれない。
「ただ、今は調査室の職員ですから。転生者の人生のサポートに尽力する立場です。後悔する間もなくどんどん仕事が降ってきますから、ある意味気楽ですよ?」
「まあ……忙しくしてた方が悩まなくて良いのはわかる」
応えながら、テツオが脳裏で反芻したのは大沢アイカの言葉だった。
『サリアちゃんの心を助けてあげて』
父の教えとメノイラ教という重い荷物を抱え、人生という山を登っているサリア嬢。
彼女の荷物が軽くなるような、テツオが介入できる余地は──。
「ミカゲさん、別働隊に頼んで、明日から少し調べ物をしてほしいんだけど」
「了解です。どんなものを?」
便利道具を出してはやれないが、心に寄り添うことはできる。
そんな決意を胸に抱くと、東の空から光が差し込む。
砕けたステンドグラスを透かし、鮮やかな影を礼拝堂の床に落とす。
テツオはその光を見つめ、静かに拳を握った。




