第八幕「疑念の座敷」
三つの兆しは、予定通りに現れた。
学び舎の翁像は、光と影の角度だけで美緒の足をすくい、医の館の赤光は、警告灯という名の錯覚で俊和の逃げ道を狭め、社の参道は、息吹の模倣と重力の罠で弘志を段差の闇に落とした。
順序は遺記の通り——だからこそ偶然ではない。
誰かが“読み合わせ”をしたかのように、三章立ての恐怖は完璧に上演された。
祟りと呼ぶことは容易だ。だが私は、祟りという語で動くネジを一本も見たことがない。
見えるのは工具痕、配線の新品臭、ワックスの流れ跡、そして設計の癖だ。
葬儀の影はまだ家に貼りつき、線香の甘い層は天井板の溝で冷え固まっている。
瞼には参道の赤が残像となって焼きつき、白熱球の灯りでさえ血の色に寄って見える。
濡れた傘は土間で雫を刻み、壁時計の秒針は心拍と干渉して一瞬だけ大きく跳ねる。
子どもの暗唱はメトロノームのように座敷の空気を均し、
古老の「また覗かれてる」は、発音より先に口の形だけで恐怖を定着させる。
祈りは、空気を清めない。
祈りはやがて疑念に変わり、疑念は視線に変わる。
視線は神棚を越えて、生きた者の顔に降りてくる——誰が仕掛けた、誰が鍵を持つ、誰が見ていた。
家は鏡の部屋になる。互いが互いを覗き、覗かれる。声は低くなり、言葉は短くなる。
そして短い言葉ほど、人を傷つけやすい。
ここから先は、神話ではなく整頓の領域だ。
三件の死が一つの意図で結ばれているなら、孤立変数を洗い出せばよい。
アクセス権、時間帯、道具、動線、動機——遺記という脚本に沿って動けた者は限られている。
私は数える。測る。残す。削る。
感情の混線を切り離し、仕掛けの輪郭だけを残す作業に移る。
——矛先はどこへ向くのか。
血族の中か、測定者のこちら側か。
いずれにせよ、恐怖はもはや“外”にはいない。
この座敷の中にいて、こちらをじっと覗いている。
夜半。参道から戻った一行は、濡れた靴音を座敷に持ち込んだ。
三和土に落ちる雫は一秒と半の間隔で規則を刻み、庇からの返り雨と同じ拍を打つ。土間から畳へと続く濃色の足跡は、革靴・ゴム底・布スニーカーで粒の散り方が異なり、粒径と踏圧の差で誰の足どりが乱れていたかをあらわにする。私は敷居際の光沢と繊維の伏目を確かめ、畳に移った水線が部屋の空気の流速を見せるのを眺めた——この家は、いま呼吸が浅い。
畳に染み込む水の匂いは、青畳の青さではなく、麻芯まで湿ったときだけ立つ鈍い甘さで、消毒薬の残り香と混ざって鉄の気配を帯びる。嗅覚は記憶を直結で呼び出す。誰も血を見ていないのに、嗅いだ者の脳内では“さっきの赤”が即座に合成される。灯籠の赤光の残像は網膜の順応をまだ奪い、白熱球の色温度でさえ低く転んで、照明の白が仄赤くくすむ。視野の端でだけ赤が濃く見えるのは、恐怖が視線を中心から外させるからだ。
足音は床の間に近づくほど吸われ、声は必要以上に低くなる。線香の煙は天井板の溝に薄く溜まり、照明を輪にして縁を曖昧にする。輪郭が曖昧になると、人はまず“見られている”と感じる——像の問題ではなく、環境の設計の問題だ。障子紙の繊維はすでに水を含み、指先で押せば音もなく凹むはずだ。私は時計をたしかめる。JJY同期の針は正確だが、耳に届くのは半拍遅れで跳ねる秒針の音——心拍との干渉が、時間を少しだけ不吉にずらす。
誰も口を開かない。けれど沈黙は静寂ではない。呼気の湿り、衣擦れ、雫の拍、畳の繊維が押し戻す微かな反発音……それらが薄い布のように重なって、座敷全体を包む。私は柱を背に取り、退路と視線の通りを確保したまま、濡れ跡の端がどこで細るかを見届ける。そこから先、恐怖は言葉に変わるだろう。祈りでは空気は澄まない。視線だけが濃くなり、互いの顔に落ちる影は、もう赤ではなく疑念の色に変わっていた。
当主・啓が、震えの混じる声を絞り出す。
喉仏が一度、大きく上下し、乾いた唇の縁に白い亀裂が走る。膝の上に置いた両拳は握られず、掌の中央にだけ汗が滲み、喪章の黒が指に貼りついている。目は床の目地へ落ち、語尾だけが天井へ浮く。
「……三人だ。美緒、俊和、そして弘志。
遺記に記された通りなら、もう十分すぎるはずだ。
……これは、祟りか……いや……」
「いや」の手前で呼気が途切れ、肺が小さく音を立てる。言葉は骨を失い、家を守るべき立場が、声帯の奥で細く折れた。畳に落ちる影は当主の形をしているのに、輪郭が一箇所、ぺたりと潰れている。沈黙の中、秒針の跳躍が半拍ずれて耳に刺さり、濡れた靴底の匂いがなおも座の温度を下げた。
綾子が座の中央に身を起こし、背筋を柱のようにまっすぐ立てる。顎はわずかに引かれ、視線が水平に滑る。人を一人ずつ、輪郭ではなく“眼”だけで捉え、停滞せず等間隔で渡っていく——監視者の動きだ。
「忘れてはいけません。すべての現場に“調査者”がいた。
翁像の前に、赤光の診療所に、参道にも。
偶然にしては、あまりに重なりすぎている。」
ことさら強調しない抑えた声。だが語尾の母音が短く切られ、反駁の余地だけが巧みに削がれている。言葉は疑問形だが、文法は結論に整列していた。視線は私と朝永にまっすぐ突き刺さる。伏せず、逸らさず、衝突を選ぶ目。正しさではなく、向きを作る目つきだ。
私は心の中で線を引く。——**「犯行が起きた場所に必ず立ち会っていた者がいる」**という印象操作。事実の配列は容易いが、条件の選別は恣意的だ。私たちが駆けつける前に仕掛けは「整って」おり、私たちの到着が「発動の合図」に見えるよう、演出されている。
弘志を失った妻・美砂子は、嗚咽の合間に喉を擦りむくような声を出した。数珠の玉が乾いた爪で鳴り、一拍遅れて畳に小さな震えを渡す。
「神事を軽んじたから……。祟りを呼んだのは、異物を屋敷に招いたからです!」
「異物」という語だけに鋭いアクセントが乗り、音が座敷の四隅で跳ね返る。肩は祈りの形に固まり、関節の角度が変わらない。祈りは動かない。だから声だけが前へ出る。鼻腔の奥に線香の甘さが沈み、涙は頬に流れず、皮膚に吸い寄せられて斑を作る。
「あなた方が来てから、すべてが狂った!」
言葉は刃ではなく杭だ。場に打ち込み、動きを止めるための。
環は蒼白な顔で立ち上がり、震える声を張り上げた。指先の半月は色を失い、看護師だった頃の癖で手背の静脈を無意識に押さえている。
「違う! 俊和は……夫は祟りで死んだのではありません!
誰かの仕掛けによって……! それを調べなければ……!」
怒りと悲しみは同じ高さの声帯を使う。声は鋭いが、言い切るたびに脚がわずかに震え、畳の目が一段沈む。
「床のワックス、非常扉の蝶番、配線の焦げ。医療施設の動線に介入した者がいる……!」
論は正しい。だが体が追いつかない。正しさが、痛みを伴って前に出る。
「落ち着けよ!」直弥が突然、声を荒げた。
「俺は……俺は何もしていない! ただ帰ってきただけだ!
疑うなら勝手にしろ!」
眼鏡のブリッジを親指で押し上げる動作が二度、速い。膝は外へ向き、つま先だけが出口へ寄る。汗は髪際ではなく耳の後ろに集まり、声は喉の前で跳ね返る。
「俺が鍵なんか持ってるはずないだろ! 参道の工事だって、従兄(弘志)しか……」
語尾がほどけ、視線が一瞬、土間の傘立てへ泳いだ。誰も彼を名指ししていないのに、防御はすでに形を取り過ぎている。——**過度の否認は、対象を自ら選ぶ。**私は心中でメモに点を打つ。
玲奈が冷静な声を差し挟む。腹式の浅い呼吸、語尾の母音が伸びない訓練された発語。
「恐怖は集団で伝染し、対象を求めます。
“祟り”と呼ぶのも、“仕掛け”と呼ぶのも、結局は疑念を誰かに投げる行為です。
見ないこと、測らないことが、恐怖を濃くするんです。」
説明は端正で、分析は正しい。だが正しさは温度を下げるだけで、熱を収めはしない。座の温度は逆に上がり、呼吸音が増え、襖に落ちる影が一段濃くなる。理屈は火に水を差すが、湯気の分だけ視界が悪くなる。
「お前に何がわかる!」美砂子が噛みつく。
「本を読んで死者が戻るのか! 戻らないだろう、なら黙って祈れ!」
「祈りで扉は締まりません」玲奈は声量を上げない。「蝶番は祈りで締まらない」
二人の言葉が正面衝突し、線香の煙が一筋だけ荒れて千切れる。
実花は父の袖を握りしめ、泣き声を押し殺す。握力の置き場を失った指が細かく震え、袖口の糸が毛羽立つ。
「……次は私……翁も赤い顔も、参道も……全部、私を見てる……」
言いながら一度だけ天井の角を見た。人は恐怖の源を「上」に置く。すぐに視線を戻すが、首の筋が固く、戻り切らない。——**視線恐怖は、仰角と残像に依存する。**灯籠の赤は、まだ瞼の裏にいる。
「実花!」啓が抱き寄せるが、腕は細く、包むよりも縛る形になる。彼の呼吸も、娘の震えに同期した。
その震えは家族全員に伝染し、悠斗が暗唱を始める。
「……覗かれる……祟りなり……振り向くな……」
二秒周期、アクセントは平板。音節間の空白は一定で、感情の波を許さない。座敷の空気がその拍に同調し、壁時計の秒針が一拍ずれて聞こえる。雨樋の雫も、いつのまにか同じ周期で落ちはじめる。メトロノームは、心を統率する。統率された心は、同じ像を見る。祟りという像だ。
「やめさせろ!」直弥が叫ぶ。「不吉だ!」
「やめないで」綾子が静かに遮る。「……この子は覚えているの。祖母の言葉を」
声は低いのに、命令として完成していた。悠斗の拍は、さらに座を均す。
きよは口の形だけで「また覗かれてる」を作り、声帯は使わない。音にしない恐怖は、場全体へ拡散する。私は視線を低く水平に流し、いくつかの細部を拾う。
啓の喪章の端が内側に折れ込み、意図しない“黒の二重線”を作っている。綾子の手の甲の静脈が一瞬だけ浮き、すぐに消える。美砂子の数珠は玉一つだけ艶が違う——古い房に新しい玉。環の踵は畳から半分浮き、直弥の踵は完全に浮いている。玲奈のノートは角が正確に揃い、書き出しの位置がページの下三分の一から始まる——記録を他者に見せる癖。実花の肩は呼吸とは別のリズムで震え、悠斗の親指は二拍ごとに触れ合う。土間の傘立て——黒い長傘の柄にうっすら赤土。参道からの帰還者は三人。うち一本だけ、柄の刻み目に砂粒が残る。
「数字を見ろ」朝永は、沈黙を正面から割るときの声で低く言う。
「灯籠の仕掛けも、扉の蝶番も、床のワックスも。全部“人間”が作った痕跡だ。
参道の落とし、角度三十五度、支点から重りまで二・五メートル、引き落とし力は三十キロ前後。
神はトルクを残さない。工具だけが残す。」
彼は祈らない。測る。照度、風速、摩擦係数——数字は慰めないが、嘘を嫌う。綾子の視線がわずかに揺れる。数字は、視線の先を固定する。
私は言葉を一段、下へ下ろす。
「祟りを信じるにせよ否定するにせよ、三つの兆しは人の手で“現実”にされた。
仕掛けは横断的だ。鍵、清掃、照明、参道の工事。
それらを跨いで操れる者は、この中に限られている。」
短い文。列挙。選別。私は結論を言わない。言わない結論は、視線を増やす。畳の上を目が走り、互いの顔を覗き合う鏡面が、座敷いっぱいに立ち上がる。
「鍵は弘志さんが——」直弥が食い気味に言い、すぐ口ごもる。
「弘志が亡くなった今、鍵束はどこに?」私は静かに訊く。
誰も答えない。
「灯籠の交換記録、学校の配線点検、診療所の清掃日誌。——日付が“連続して”いる。
誰かが、祟りの脚本を守るために手配した。」
「証拠は?」綾子の声。低いが、刃が入る。
「今は“痕跡”だけです」
私は目線で朝永に渡す。彼は短く頷き、携帯端末のボタンを押す。鑑識と電材業者、清掃会社への照会を一斉に送る。
「もうやめてくれ!」啓が叫ぶ。声は震え、威厳の座標を見失っている。
「家族を疑うな。……俺は、家を守りたいだけだ」
「守るなら、見ることです」私は言う。
「祈りは空気を澄まさない。測り、数え、整頓する。 そうしない限り、恐怖は増殖をやめない」
「増殖させているのは、あんた達だ!」直弥が立ち上がる。畳が軋む。
「“調べる”って言って……あんた達が来るたびに、誰かが死ぬ!」
「死ぬように仕掛けられていたから、です」朝永が即答する。
「俺たちは“作動”の後に到着している。全件だ」
「作動の前に止められなかったのか!」
「止めるためには、作った手と同じ権限がいる」私は静かに重ねる。
「鍵、清掃、照明、参道——四つの輪。その四つを、一つの手が持っている」
「誰のことを言っているの」綾子が問う。
座の中心に微小な渦が生まれ、視線がそこへ吸い込まれる。啓の喉が鳴り、美砂子が数珠を握りしめ、環は爪で掌を傷つけないよう指を組み替える。直弥は踵を上げ、玲奈はノートに一本線を加え、実花は息を止め、悠斗は拍を保つ。きよの口は“覗”の形のまま動かない。
障子の向こうで、夜風が一度だけ襖紙を押し、線香の煙が水平に走る。煙は一瞬、人の横顔の輪郭になり、すぐほどけた。
その瞬間、座敷の空気は温度ではなく合意の欠落で、さらに冷たくなった。祈りは沈み、疑念が浮く。
赤の残像は薄れつつあるのに、心の色だけが赤に寄る。見られているという感覚は、像ではなく関係の産物だ。
美砂子が再び泣き、環が「調べさせて」と啓に縋り、啓は頷くのに時間がかかる。綾子は一度だけ眼を細め、すぐもとに戻す。直弥は「もういい」と呟き、だが座を離れない。玲奈は呼吸を整え、悠斗の拍は狂わない。
この家は、いま互いを覗き、覗かれている。
そして、覗かせている“手”がある。
私はそれを数える。
——次の拍で、切り分ける。
三つの兆しは、遺記の文言どおりに現れた。
翁像は“守り”から“覗き”へと転じ、美緒を呑み込み。
赤き顔は俊和を錯視に追い込み、血の幻に沈め。
参道の禁忌は弘志を足元から奪った。
祟りと呼べば祈りで覆える。
仕掛けと呼べば検証で暴ける。
——だが、篠宮家に残されたのは祈りでも検証でもなく、疑念だった。
座敷の空気は冷たかった。
それは気温の問題ではない。
誰かを疑う視線が互いを突き刺すとき、家そのものが冷える。
いま篠宮家は、赤い残像よりも強烈な“視線の交錯”に怯えている。
ここまでに示された三つの現場を思い返してほしい。
蝶番、ワックス、配線、風穴、縄、灯籠。
仕掛けは一つひとつは単純でありながら、いずれも「遺記の言葉」を忠実に再現していた。
偶然か、それとも脚本か。
そしてその脚本を“演じさせた”のは、誰か。
私は探偵として結論を急がない。
だが、仕掛けを作るには「恐怖を設計する理屈」を知る者が必要だ。
単なる力仕事ではなく、恐怖の構造を理解し、それを組み立てられる頭脳。
その気配が、座敷の沈黙に確かに潜んでいた。
次幕。
遺記に記された言葉は尽きても、恐怖は尽きない。
“覗く者”は依然として生きており、篠宮家を内部から蝕み続けている。
あなたはもう見抜いているだろうか。
仕掛けを作り、視線を誘導し、祟りを演じさせた“その手”を。
篠宮家を覗いていたのは、神でも死者でもなく、血の中に紛れた生者そのものだ。
次の拍で、その輪郭は浮かび上がる。




