第七幕 「背に息 振り向く禁忌」
恐怖には順序がある。
「見る」より前に「見られる」があり、「見られる」の先に「振り向く」がある。
人は本能的に背後の気配を忌避し、視線を返す衝動に抗えない。
だからこそ「振り向くな」という言葉は、単なる禁忌ではなく、人間心理の最奥に突き立てられた楔なのだ。
篠宮家の遺記に記された第三の兆し——「社にて終の兆しあり。夜半、参道を渡るとき、背に息を感ず。そのとき振り向くなかれ。覗き返せば、血は絶え、祟りは続く」。
この言葉は、ただの迷信として片付けるにはあまりに具体的だった。
「息」という生理的錯覚を伴わせ、「振り向く」という動作を条件にすることで、人間の身体を直接操る指示となっている。
夜半、参道は闇に沈み、灯籠の赤光が点々と道を縁取る。
風は狭い石段の隙間から吹き上げ、時に首筋を撫でるような「吐息」となる。
人はそれを“誰かの存在”と錯覚し、振り向く。
だが振り向いたその先に仕掛けがあれば、恐怖は祟りへと変わる。
——禁忌とは、仕掛けを隠すために最も巧妙な包装紙なのだ。
この夜、篠宮家は三度目の兆しに直面する。
祟りを信じる者も、仕掛けを見抜こうとする者も。
そして、「振り向く」という衝動を抑えられなかった一人が、犠牲となる。
夜半、参道は闇に沈んでいた。
雨上がりの湿気が山肌から滲み出し、石畳は海綿のように水を吸っている。踏み出すたび、靴底が微かに沈み、圧された水膜が足音を呑み込んだ。乾いた夜のはずなのに、音が鳴らない夜——それは、聴覚が自分の鼓動だけを拾い始める危険な静けさだ。
灯籠は石段に沿って六基、等間(約八・五メートル)で並ぶ。うち二基は暗く、残る四基の電球は寿命の終わりに近いのか、周期の僅かなフリッカを繰り返している。弱い赤みを帯びた光が濡れた石に斑をつくり、黒い水脈が蛇行して見えた。視界は連続ではない。点と点の間の闇が、こちらを見返してくる。
「……ここだ」
篠宮啓が足を止める。喪服の裾は膝下まで濡れて重く、声は掠れていた。彼の背に実花が隠れるように立ち、指は父の袖を掴んだまま、力の行き場を失って震え続ける。握力の波は二〜三秒周期——恐怖の呼吸と一致する。
朝永が懐中電灯を一点に絞り、両脇へ光を走らせた。
「灯籠は六基、うち二基が消灯。石畳の勾配は七度前後。排水溝は詰まり気味……ここ、砂利の堆積が三ミリ。風が抜ければ首筋を撫でる」
指示棒で示した先に、濡れ苔の色が一箇所だけ浅い。今夜、誰かが触れた苔の剥離だ。数字を並べる彼の声はいつも通り冷ややかで、恐怖を測定値に還元していく。測れるものだけが、現場を現場に戻す。
私は足を進めながら、空気の層を鼻で分解する。線香と土、杉葉の青臭さ。その下に、金属と油の微かな匂いが潜む——新品ではない、数度作動した軸受の温い金属臭。風向は谷から山へ、体感で一・五メートル。自然の呼吸に、人工の息が混じっている。
石畳の縁の目地には、白い粉塵が細い弧を描いて落ちていた。石材の古い粉ではない。粒度が揃いすぎている——セメント系の補修材を擦った粉だ。目地の一つは、すり減り方が他より若い。たぶん、ここだけ一度持ち上げられて戻された。
「……また覗かれてるよ」
背後から低い声。大叔母・きよだ。車椅子に掛けた薄い膝掛けが、風にわずかに持ち上がる。口は乾き、声は歯の隙間から漏れて、闇に吸い込まれる。「覗かれてる」の音が、灯籠と灯籠の間に浮かぶ空隙へ落ちて、参道全体が囁いたように耳へ返る。音が形を持つ瞬間は、恐怖が像を得る瞬間だ。
実花の肩が跳ね、指先の震えが増す。父の袖に置かれた爪が布を噛む。
悠斗は膝の上で親指を合わせ、二秒の拍で離しながら暗唱を始めた。
「……参道を渡るとき、背に息を感ず。そのとき振り向くなかれ……」
無機質な声。抑揚を奪われた言葉は、意味を抜かれた命令に近づく。命令は脳ではなく身体に落ちる。暗い灯籠の縁が、その拍と同期してわずかに点滅して見えた。フリッカ——恐怖は点滅に付着する。
私は懐中電灯を下げ、直接は照らさないまま、視線だけで輪郭を探る。
・灯籠基部の一つで、化粧砂利の流線が周囲と逆。運び込まれてからの歩行の流れが違う。
・石段の端、コケの切れ目が指幅で直線になっている。自然の破断は波打つ。直線は人間の癖だ。
・灯籠の中空を覗くと、煤の付き方が非対称——片側だけ新しい熱の経路がある。
・風の“シ”—という擦過音に、低いベアリングの唸りが混じる。谷風の周波数じゃない。
私は浅く息を吸い、吐きながら声を落とす。
「ここは、振り向かせるための道だ。息のように感じる風は作られている。匂いが言う」
朝永は頷き、照度計を取り出した。
「灯下三百ルクス、影の縁は百六十、落差は大きい。目が暗順応する前に強い点光を受ける。錯視には充分だ」
数字は恐怖を冷やす。だが、冷やした恐怖は消えない。場所に残る。参道そのものが、それを覚えている。
灯籠から灯籠へ、闇がゆっくり移動する。光は定位置なのに、闇だけが寄ってくる。人の脳はその移動を「視線」と呼ぶ。私は手袋の指腹で石畳を撫で、皮膚に残る微細な砂の粒径を確かめる。均一だ。意図的に撒かれた。足裏の摩擦係数は下がる。倒す術は、押すことではなく、立たせなくすることだ。
実花が短く息を呑んだ。
「いま……背中に……」
私はそっと肩に指を置き、視線線を前方の一点へ固定させる。
「目を据えろ。闇は見ない。闇は向こうから来る」
彼女の瞳孔がわずかに収縮し、呼気の振幅が整い始める。 恐怖は制御可能な生理だ。禁忌は、その制御を奪うための言葉だ。
——禁忌は、すでに作動している。
灯籠の赤が濡れた石に散り、私たちの影を縫い合わせる。 背後で、何かが息をする。
だが、息は人に属する。私はその匂いを嗅いだ。鉄、油、そしてわずかな熱の名残。
祟りは、装置という名の手で、ここに置かれている。
参道をさらに進むと、風向きが急に変わった。
濡れた杉葉の匂いの層の下から、鉄と油の薄い膜がふっと立ち上がる。次の瞬間、背後から「ふうっ」と湿った息が首筋を撫でた。産毛が一斉に逆立つ角度——目測で十度ほど。 全員の肩が、同じ拍で跳ねた。
誰もが反射で頸を返しかけた刹那、私は声帯だけで鋭く切った。
「——止まれ。振り向くな。」
懇願ではない。観察を守るための命令だ。背を向けたまま視線だけを斜め下に落とし、靴先と影の輪郭を確認する。私たちの影は灯籠光のフリッカと同期して、かすかに震えていた。
その一瞬で、私は了解した。
風ではない。自然の谷風に混じる、機械の呼気。石段脇に切られた暗渠の蓋が一枚だけ新しく、目地の汚れが左右で違う。蓋のすき間から、規則的な圧が押し出される音——プシッ、と続く低い唸り。軸受の回転が九十ヘルツ付近に乗っている。周期は二・五秒。呼吸のふりをした波形だ。
空気は冷たく、だがわずかに湿って温い。弁の先で凝結した水滴が霧化して混ざっている。皮膚はそれを**「人肌」**と誤読する。設計者は「息」を作っている。
「これだ……!」
私は指先で暗渠の縁を示した。金属の摩耗音とオイルの匂いは、そこからだ。蓋の内側、点検孔の縁に新しい工具痕。夜露で鈍った鉄の縁だけが、最近拭かれたように乾いている。背に息を感じさせる仕掛け——遺記の禁忌は、この場所で再現されている。
朝永はもう照度計を手にしていた。背を向けたまま、数値だけを積み上げる。
「風速一・八メートル、周期二・五秒。CO₂濃度、周囲比でわずかにプラス……なるほど、密度が重い。下から上がって首筋に沿う。灯下三百ルクス、影縁百五十。暗順応が追いつかん。自然じゃない。装置だ。」
数字は恐怖の熱を奪う。だが奪われた熱は、場に残る。
「やめろ!」
弘志が荒く遮った。灯籠に照らされた頬は固く、喉元の筋が強張っている。
「数値などに意味はない! 祖母が書き残したのは神託だ。参道で息を感じるのは、神が振り向くなと告げている証だ! これを“仕掛け”などと言うことこそ、祟りを呼ぶ!」
声は大きいが、肺の奥が浅い。怒りの形を借りた恐怖だ。 彼の足下、砂利の流れが一本だけ逆向きに乱れている——ここで足を捻ったか、あるいは昨夜、誰かが立ち位置を作った。
美砂子は数珠を握り、節で玉を打つ小さな音を連ねた。
「科学で祟りを測ることはできません! 神域に手を入れた者こそ罰せられるのです!」
彼女は目線を私に貼り付けたまま、灯籠の影へ半歩ずつ引いた。恐怖は退くのではなく、位置をずらす。
私は二人の言葉の温度を受け取り、声を低く落とした。
「祟りと仕掛けは、同じ現象に与える二つの名です。問題は“誰が”この装置を持ち込み、電源を取り、鍵を開け、ここへ据えたか。息と光を合わせ、振り向く瞬間に合わせている。その誰かが、恐怖を造っている。」
暗渠の唸りが一拍遅れて長く尾を引いた。プシッ——。
私は足で暗渠の上をそっと叩き、内部の反響を聴く。空間が短い。敷設の古い管ではない、後付けの細いホースの反響だ。ホース先端の小孔が参道の歩幅に合う高さを向いている。光のフリッカの周期と、吐息の周期がずれては重なり、視覚と皮膚感覚が互いに誤差を増幅する——これで人は振り向く。
「探偵風情が我らの神前に立ち入るな!」
弘志の眼は血走り、光を拒絶していた。
「……お前たちこそ、覗く者ではないのか!」
怒声は参道の木立で反響して、灯籠の影を震わせる。影は長く伸び、こちらを向く顔を作る。実花が怯えて啓の袖にしがみついた。指は冷たく、爪は白い。
悠斗はなおも暗唱を続ける。
「……背に息を感ず……振り向くなかれ……」
二秒周期。言葉は意味を脱ぎ捨て、身体の律動になる。
私は実花の視線を前方の一点に固定させるため、灯籠の基台に白い小石を置いた。
「目はここ。闇は見るな。闇は来るものだ」
彼女の呼気がわずかに整い、肩の振幅が下がる。朝永は測定器を鞄に戻し、代わりに足元の砂利を一摘み拾って掌で転がす。粒度が揃いすぎている、と彼の眉が告げる。撒かれた滑りだ。
禁忌の言葉と信仰の叫びが重なり、参道は温度ではない冷たさで閉ざされた。
灯籠の赤が濡れた石に散り、私たちの影を縫い合わせる。背後で何かが息をする。
だが、息は人に属する。私はその匂いを嗅いだ。鉄、油、そして微かな熱の名残。
ここは祟りの場所ではない。祟りを演じる装置の場所だ。
そして装置は、振り向くその瞬間を、今も待っている。
その時だった。
赤く湿った息が、実花の髪をかすかに持ち上げる角度で触れた。産毛がいっせいに立ち、肩甲骨の下まで電気が走る。彼女は反射で肩をすくめ、頸の可動域の半分ほどを一気に使って振り返りの初動に入る。眼球はもう「背後の像」を掴みにいっていた。——危険なのは、視線が先に回ることだ。前庭動眼反射が体幹の遅れを引っ張り、足場の摩擦を無視させる。
「だめだ!」
私は腕を伸ばし、彼女の視線のラインを物理的に遮断した。瞳は私の袖口で止まり、瞳孔径がわずかに縮む。体が追いつく前に視線だけを切る——禁忌の反射に対するカウンターは、いつも眼から始める。
——カチリ。
金属の微小な嚙み合わせ音が、石段脇から湧いた。灯籠の根元、基台の化粧砂利が極小の震動で波打つ。続いて低いスパーク。空気は一瞬だけ乾き、オゾンの匂いが細い糸のように鼻腔へ這い上がった。直後、強烈な閃光が闇を裂き、参列者の影が一枚の白い負像として石畳に焼き付く。まぶたの裏に緑の残像が流れ、視界のエッジが削がれた。
同時に、頭上から小雨のような音。砂利混じりの石片が、ぱらぱらと降り注ぐ。灯籠内の落石防止網——そこに細いニクロムが通され、閃光と同時に縛りが切れる設計だ。もし実花が完全に振り返っていたら、瞳は閃光で白く塗り潰され、後頭部の空間把握が消えた瞬間に上からの落下が直撃していた。設計の主眼は、反射で振り向く人間の時間を撃つことにある。
「……仕掛けだ。」
私は閃光の余韻を抱えたまま、喉の奥で低く確定させる。
「禁忌を破った瞬間に発火する“罠”。トリガは視線の移動に合わせてある」
朝永はもう動いていた。懐中電灯をレンズ面で隠し、光漏れを抑えながら灯籠の背面に指を差し入れる。
「火薬じゃない。キセノン管の閃光筒だ。コンデンサの臭い……点火痕が新しい。配線、被覆が柔らかい——今週だな」
声は冷徹だが、数値を読む舌の奥に微かな震え。彼は続けて、基台の影を擦った。
「ケーブル、灰色のVK。結束バンドの頭を内側に倒す癖がある作業者だ。素人は外に出す」
私は指先で基台と土の隙間をなぞる。二連の穴。1つは既設ボルト、もう1つは新しい逃げ孔。ケーブルはそこから出て、灯籠の化粧砂利に沿って赤い玉砂利へ巧妙に紛れている。参道の清掃で玉砂利を扱える者、灯籠の電源に触れられる者、そして鍵を持つ者——権限の重なりが頭の中に三角形を描いた。
啓は娘を抱き寄せ、喉から擦れた音を何度も吐いた。
「……祟りでは……祟りではないのか……?」
彼の問いは私に向いていない。自分の内部で揺れる二つの言葉へ投げられている。
弘志が一歩踏み出し、灯籠を睨みつけるように叫ぶ。
「それでも祟りだ! 神が禁忌を守らせたのだ! 仕掛けなどと言うな!」
怒声は大きい。しかし肺活量は浅く、強い語の終わりが細る。恐怖を上書きするための音量だ。彼の足許——砂利の流線が一箇所だけ逆方向に撫でられている。昨日か今夜、ここで立ち止まった者がいる。
美砂子が数珠を握りしめ、節の骨で玉を規則的に叩く。
「科学で祟りを測ることはできません! 神域に手を入れた者こそが罰せられるのです!」
彼女は言いながら、灯籠から半歩斜めに退いた。声は前へ、体は後ろへ。信仰と身体が別の方向を向くとき、人は声を強くする。
私は実花の肩を支え、呼気の振幅を落とさせる。
「今わかったはずです。祟りは“恐怖”を設計した誰かの手で現実に変えられている。
——覗いているのは神ではない。生きた人間の眼だ」
言いながら、灯籠の基部に視線を戻す。黒のビニールテープの重ね貼り。診療所で見た赤光の配線と、巻きの方向が同じだ。習性は器用に隠しても、手癖は隠せない。
参道の空気が一段落ちた。灯籠の揺らぎが、顔を白と赤に二等分する。白は理性の色、赤は恐怖の色。人の顔はそこで別人になる。実花は唇の色を失い、啓は腕の力を入れ直す。悠斗は機械の拍で、「……振り向くなかれ……」を空気に押し付けた。
朝永は淡々と続ける。
「電源はどこから取った? ……ここだ。灯籠の台座裏、密閉鉛バッテリーの跡。固定ベルトの摩擦痕が新しい。担ぎ入れて、担ぎ出せる重量。単独犯でも可能だが——鍵が要る」
鍵。清掃。照明。三つの輪はここでも重なる。私は指帳に三角記号をつけ、矢印を一本だけ描いた。矢印の先はまだ空白だが、線は家の内部へ向いている。
「この中の誰かが、仕掛けているのではないか」
言葉にはしない疑念が、参道の温度をさらに奪った。
灯籠と灯籠の間で、闇がこちらに寄ってくる。人はそれを「視線」と呼ぶ。視線は祟りの器だ。
私は閃光の残像が消えるのを待ち、石畳の縁へ身を屈めた。化粧砂利の下、指先に当たる針金。ねじり方向は左。素人は右を選ぶ。ここにも癖が残る。
禁忌の言葉と信仰の叫びが重なり、参道は生と死の境目のように冷たく閉ざされた。
だが私には、もう十分だ。匂い、音、巻き、結束の向き、道具の選び。——祟りは形を持つ。
形は、必ず手に繋がる。
弘志はなおも叫んでいた。
「これは神罰だ! 異物を持ち込んだお前たちが——」
その語尾が空気にほどけるより先に、背中で風が膨らんだ。強い「ふうっ」。湿りを含んだ吐息が、うなじの毛流を逆立てる角度で差し込む。参列者全員の呼気が途切れ、胸郭が同じ拍で止まった。
——振り向くな、と遺記は命じている。
だが、禁忌は「意識」で破られるのではない。「反射」で破られる。
「振り向くな……?」
弘志の呟きが喉の奥で砕け、頬が微かに震えた。頸椎が可動域の半分だけ後方へ滑る。頭部が先行すると、重心は無意識に踵へ移る。足裏の砂利は粒度が揃いすぎて、摩擦は想定より低い。姿勢反射が遅れ、膝が一瞬、空を掴んだ。
——次の刹那。
ピンと乾いた金属音。灯籠脇に仕込まれた縄が、解ける音を立てて緩む。蜂蜜のような匂いがごく一瞬——蝋留めを焼き切った臭いだ。石段の外側で重りが滑車を抜け、鋼線φ3mmがぴんと張る。弘志の立つ段の下、浅い空洞に渡したピボット板が支点を失い、石板が半指(約8mm)沈む。沈下はわずかで十分だ。踵はさらに落ち、脛が引かれる。体幹は復元トルクを失い、肩が前へ、頭が後ろへ——二つのベクトルが噛み合わないまま、重心が段鼻を越えた。
足元で砂利がざあっと崩れ、化粧砂利の流線が一方向へ走る。
「弘志さん!」
玲奈の声は正しい高さで飛んだが、空気はすでに仕掛けの音で満たされている。届かない。
弘志の身体は、赤い灯籠に切り取られた三つのフレームを跨いで落ちた。
一つ目、肩が抜け、袖が風を掬う。
二つ目、背中が石段に対して斜め二十度で回転に入る。
三つ目、踵が踏鼻で空を掻き、指が何も掴めないまま開く。
先刻の閃光が作った白い残像が瞼の裏で流れ、暗所視の網膜は現実の速度より一拍遅い時差で身体を見送る。視覚の遅れは、祟りの演出に最適だ。
——どん。
躯幹が踏面を鈍く叩き、夜の水気が音の尾を太らせる。
続いて、かちり。どこかの金具が外れる小さな音が、闇の奥で二度、跳ね返る。石段の縁で、剥離したゴムの欠片が音なく転がった。
血の匂いは、まだ来ない。
代わりに、赤い灯籠の光が濡れた石を動く斑に変え、目の奥に“濡れ色=血”という短絡を描き込む。人は色を意味で見る。意味が先に決まっていれば、色は従う。参列者の眼には「血に塗れた死」が先に映る。
実花は耳を両手で塞ぎ、肩をすぼめて自分の内側へ逃げる姿勢を作る。
啓は声を失い、膝を折る。膝頭が畳に触れる瞬間の音——骨が布を叩く乾いた衝突だけが、場を現実へ引き戻す。
美砂子は崩れるように数珠を握り、喉の奥で祈りと言葉の混線を繰り返す。
悠斗は拍を乱さずに遺記を唱え始めた。
「……背に息を感ず……振り向くなかれ……覗かれる……祟りなり……」
二秒周期、平板。意味は剥がれ、命令の律動だけが残る。
朝永は歯を食いしばり、懐中電灯の光を低い角度で走らせる。段の影が長く伸び、沈下した石板の縁に新しい擦過傷が光る。
「ワイヤーだ。ピボットの支え抜き。偶然じゃない——設計だ。」
彼は指でワイヤーの結びをなぞる。本結び+絶縁テープの二巻き。巻き方向は左、切り口は斜。切断面に微量の焼け。電熱か、**導火**で蝋留めを落とした痕。数字より先に、手癖が犯人を語る。
私は石段を見下ろし、思考を冷たい水に浸す。
——三つの現場に共通するもの。
息(送風)/光(閃光・赤光)/落下(構造)。
そしてトリガは禁忌。
「振り向く」の反射が、姿勢反射を壊し、足裏の摩擦不足がそれを後押しする。禁忌を信じるほど、体は罠に適合する。
参道の闇は一段深くなり、灯籠の赤が顔を縦に割る。白は理性の側、赤は恐怖の側。人の顔はふたつに分かれ、家族が互いを異物として見る視線が生まれる。
私は指先に残る蝋の冷たさと、オゾンの針のような匂いを嗅ぎ分け、ゆっくりと言葉を置いた。
——覗いているのは神ではない。
恐怖を操る、人間だ。
そして、その人間は鍵と光と清掃に触れられる手を持ち、蝋と結束と巻き方向という癖を持つ。
禁忌はその手のための覆面にすぎない。
覆面は、もう端からほつれ始めている。
弘志の身体は白布に覆われ、参道の端に水平に横たえられていた。
風が布の縁を一指ほど持ち上げては落とし、その都度、灯籠の赤が織目の谷間に染み込むように見える。血の匂いはまだない。それでも、赤い灯が視覚に与える意味の強制が、そこに“滲み”を作った。誰も近寄らない。近寄れば、滲みが現実に変わるのを恐れているからだ。
朝永は膝をつき、ライトの照射角を極端に低く寝かせる。影が長く伸び、細い起伏までも浮かび上がる。
「見ろ、ここだ」
石板の下縁——薄い空洞。支えに使われた木片(楔)の痕は、片側だけ繊維が斜めに裂け、反対側に新しい刃物の正断面が残っている。
「支えが抜かれている。刃は細歯。14TPI前後の金鋸。切粉が湿って重い。作業は……今日から半日以内だな」
木目に残る毛羽が倒れる向きを指で示し、粉を紙片に払って封緘する。粉は茶封筒の内側で灰黄色へと沈み、雨の匂いよりも先に鉄の微臭を残した。
「さらに……この縄」
朝永は灯籠脇の潅木に回し掛けられた結束線を持ち上げ、撚りの密度を確かめる。
「繊維の撚りが逆方向に戻ってる。S撚りを強引にZへ。締め直しのトルクが不均一」
口調は、数値を読み上げるときのそれに近い。
「段の傾斜三五度。支点から重りまで二・五メートル。落下質量と滑車比から計算して、引き落とし力はおよそ三〇キロ。成人男性の重心を崩すには十分だ」
言葉が地に置かれるごとに、祟りの輪郭は機械の輪郭へ置き換わっていく。
私は灯籠の背面板をそっと押し、隙間から覗く。
焦げた被覆。黒褐色のハロゲン小型器。ギボシ端子が片方だけ新品で、もう片方は古い。仮設だ。
「赤光はここ。点灯はワイヤーに連動。張力が閾値を越えた瞬間にスイッチング——恐怖の合図と、身体を壊す動きを同時に走らせる設計」
被覆の焼け跡にオゾンが薄く残る。灯籠内の煤は非対称で、熱の経路が一方向に偏っている。配線の巻きは左、テープは二巻き半で止める癖。——同じ手が、ここにもいる。
綾子は口元を手で覆い、声を失ったまま喉の筋だけが細かく動く。実花は啓の袖にしがみつき、泣き声の最初の子音だけを何度も作っては飲み込む。
悠斗だけが、温度を持たない。
「……振り向くな……覗かれる……祟りなり……」
二秒周期、平板、無表情。言葉は意味を脱ぎ、場のメトロノームになる。その拍に合わせて、灯籠のフリッカが見える気がする。恐怖は点滅に付着する。
朝永が顔を上げ、短く言い切った。
「これで三件だ。翁像、赤光、参道。全部、人の手が入っている。祟りじゃない。仕組まれた連鎖だ」
その「連鎖」という語は、電源・鍵・権限を直列に結ぶ線の形をしている。
私は頷き、視線をゆっくり家族へ移す。
「だが問題は……材料と手段を横断して扱える者だ。縄(結束・撚り)、工具(鋸・ドライバー)、照明(電源・端子)、そして参道に自由に出入りできる鍵。これらを一人で——あるいは少数で——回せる手は限られている」
言いながら、私は足元の痕跡を拾う。
・石板縁のすべり傷——踵が落ちた方向ベクトル。
・化粧砂利の粒度の揃い——自然堆積ではなく持ち込み。
・結束バンドの頭(ロック部)を内側に倒す癖——診療所の赤光と同じ。
・ビス頭の規格差——JISとISOが混在。道具箱を共有した痕跡。
・封止の蝋の銘柄の匂い——蜂蝋ではなくパラフィン系。神事用の備品とは別系統。
言葉を切ると、座にいた誰もが一瞬息を呑み、互いを**“覗き合う”視線が交差した。
赤い灯は顔の半分を切り落とし、白布の膨らみが呼吸と錯覚する。風が布を揺らすたび、誰かの心拍がそこへ移る。恐怖の矛先は、もはや祟りではなく人だ。
実花は父の袖をさらに強く握り、綾子の目は家族の列を一本ずつ数える。明人は唇を噛んで目を伏せ、直弥はポケットの中で何か硬いもの**(鍵束の重み)を転がす。きよは音にしない口形で**「覗かれてる」**を作り、玲奈は灯籠の配線ルートを無言で辿った。啓は拳を握りかけ、握りきれないまま指をほどいた。
私は手袋を新しいものに替え、採取袋のIDと時刻を記入する。
チェーン・オブ・カストディは、恐怖の場でも揺るがない。「祟り」は証拠を曇らせるための言葉であって、証拠そのものではない。
——材料、権限、癖。三つの輪は重なる。重なったところに、名が落ちる。
「これらを横断して扱えるのは——」
そこまで言って、私は意図的に言葉を切った。
沈黙は、恐怖より速く場を冷やす。
灯籠の赤がわずかに瞬き、白布の山が一度呼吸したように見えた。
その瞬間、篠宮家という集合の内部で、一つの場所に視線が集まる。
祟りという覆面は、もう端からほつれている。
——次に剥がれるのは、名前だ。
参道で起きたことは、祟りの再演ではなかった。
仕掛けの連鎖は、もはや偶然の寄せ集めでは説明できない。
翁像、診療所、そして参道。三度繰り返されたのは、**「恐怖の禁忌を誘発させる設計」**そのものだ。
私が見たのは、恐怖を“信じる”者が自ら禁忌を踏み、仕掛けの作動によって命を落とす構造だった。
祟りとは言葉の衣に過ぎない。だがその衣を纏わせた手が、確かに存在している。
ここで整理してほしい。
仕掛けに必要なのは三つ。権限、道具、そして癖だ。
参道に自由に出入りでき、配線や照明に触れる権限を持ち、結束や撚りの仕方に一貫した“癖”を残す者。
条件は狭まりつつある。
篠宮家を包む恐怖は、もはや「神託」ではなく「人の手の連鎖」だ。
次の幕では、その連鎖がさらに露わになるだろう。
だが注意してほしい。祟りは姿を変え、まだ“覗いている”。
あなたの推理は、もう犯人に届いているか。
それとも、まだ恐怖の衣の中に閉じ込められているか。
——次幕、禁忌の先に立つのは、篠宮家の誰なのか。




